第37話 故郷へ
迷宮入りしそうになった私は、溜まっていた有給休暇を消化するために一週間の休みを取った。
こんなに長い休みを取るのは、入社以来初めてだった。
ずっと仕事中心の毎日だったからなあ。恋愛のことで悩んで仕事を休むなんて。
昔の私なら、きっと信じられなかったと思う。
それくらい、今の私は人生の大きな岐路に立っているということだ。
「はあ、よし」
小さく声を出して、気合いを入れた。
これから長旅になる。
久しぶりにやってきた駅は、少しだけ様子が変わっていた。なんだろう。改修工事でもしたのかな。
辺りを見渡せば、思い出の風景とはどこか違っていた。
こうやって世界は少しずつ移ろっていく。時代は流れるってやつね。
私も変わっていくのかな……。
券売機で切符を買い、案内表示で行き先を確認してからホームへ向かった。
* * *
電車に揺られること三時間半。
何年ぶりかの故郷。窓の外に広がる景色は、あの頃とあまり変わらない。
私の実家はけっこうな田舎にあった。
仕事のために上京してからは、滅多に帰らなくなった。
年に二回ほど。それでも、本当に忙しい時期なんかは一度きりになることもある。
そんな私に、両親はいつも心配そうに「帰っておいで」と言ってくれる。
本当にありがたいなあと思う。帰る場所がある。頼りにできる人がいる。それだけで十分に幸福なことだ。
私は母に相談しようと思っていた。恋の悩み……こんなことを打ち明けられる人なんて、ほとんどいない。真っ先に頭に浮かんだのは母だった。
だから仕事を休んでまで実家へ向かっている。
電話をすると、両親はそれはもう喜んでくれた。ご馳走を用意して待っているらしい。
楽しみだなあ。母の料理はおいしいから。
いや、目的はそれじゃない。
ちゃんと話を聞いてもらわないと。……できるかなあ。今まで恋の話なんてしたことなかった。
緊張するし、無性に恥ずかしい。でもしょうがない、私にはもう手に負えないんだから。
きっと母なら何かヒントをくれるはず。そう信じるしかない。
しばらくすると、軋むような音を立てて電車がゆっくりと止まる。
降りる人は私ひとりだった。
電車を降り、ホームを抜けて木造の改札口を通る。
駅前に出ると、低い建物の向こうに緑が広がり、土と草の混じった匂いがした。
ああ懐かしい、空気もおいしい。
足を止めて小さく息を吸った。
「花音ー!」
大きな声が響いて、振り返る。両親がこちらに向かって駆け寄ってきた。
「おかえり~。疲れたでしょ?」
目の前に立った二人がにこにこと微笑み、その顔を見た途端にふっと力が抜けた。
帰ってきたんだ。
「おかえり、花音」
「おかえり」
父がさりげなく荷物を持ってくれる。
母は私をふわりと抱きしめた。
その温もりに包まれながら、私は小さくつぶやいた。
「……ただいま」
* * *
父が運転する車に乗り、実家へ向かった。
桐生さんとは違う父の少し荒い運転。これも懐かしいな……まあ、乗り心地は正直よくないけど。
そんなことを思って笑っていると、父が不思議そうに首を傾げた。
実家に到着すると、母が玄関先から声をかけてきた。
「すぐに昼食を用意するわね。花音の好きな物ばっかりだから、楽しみにしてて」
そう言って、そのまま台所へ向かった。
パタパタと響くスリッパの音を聞きながら、胸がふわっとあたたかくなる。ああ、実家だなあ、なんて。
返事をしながら玄関の縁に腰掛け、そっと辺りを見まわした。……変わってない。
昔ながらの木造の一軒家。
玄関はそこそこ広くて、きちんと整えられている。
母が飾っているのだろう、下駄箱の上にある花瓶には可愛らしい花が活けられていた。
靴は、父と母のものが少しだけ並んでいた。
懐かしい匂いを胸いっぱいに吸い込むように、深呼吸する。
「なにしてるんだ?」
隣に来た父がくすっと笑いながら、私の頭を撫でる。こうしてもらうのも久しぶりだ。
「へへっ」
嬉しくて自然と頬が緩む。
「へんな奴」
そんなやり取りをしながら、父と二人で居間へ向かった。
「うわー、すごい!」
テーブルの上には、豪華な料理がずらりと並んでいる。どれも私の好物ばかりだ。
芋の煮っころがし、きんぴら、エビフライ。それにお味噌汁と、ほかほかのご飯。
嬉しさを隠せずに目を輝かせた。
「お母さん、ありがとう」
母は優しく目を細めた。
「いえいえ。ちょっと張り切りすぎちゃったかな。花音が久しぶりに帰ってくるって言うから」
「ほんとだよ。普段はこんな豪華な料理食べられないもんなあ」
父がぽつりと言うと、母は頬を膨らませる。
「なによ。悪かったわね、いつもは手抜きで」
「え! ちがうって。ごめんなさい」
父が情けない声で謝る。
「ふふっ、相変わらず仲いいね。さ、食べよう」
私がそう言うと、二人も顔を見合わせて声を揃えた。
「いただきます」
「はあ、おいしかった」
目の前には、空になった皿が並んでいる。
お腹いっぱい。満足そうに笑っていると、母が声をかけてきた。
「ふふ、よかった。今日はこれからどうするの?
せっかく帰ってきたんだし、好きにしてていいわよ。ゆっくりしなさい」
食器を片付けながらそう言う母に、父が少し不満そうに眉をひそめた。
「えー、久しぶりに再会したんだからさ。いろいろ聞かせてほしいなあ。あっちでの生活とか、仕事のこととか……」
「やあねえ。お父さん、何をそんなに心配することがあるのよ。――あ、もしかして」
にやりと笑う。
「なんだよ」
「花音に男ができてないか、チェックしたいのねえ。
まあ、この子も年頃だし。彼氏の一人や二人、できててもおかしくないけど……」
母がじっと私を見つめてくる。
それにつられるように、父もちらりと視線を向けた。
「な、なによ。急に。ちょっと散歩してくる」
私は逃げるようにその場を離れる。
いやまあ。別に隠す必要もないんだけど、さすがにあの場で言うのは気まずい。父親にはやっぱり話しづらいし。
……正式に付き合うようになったら、ね。
なんて、何を考えてるんだか。まだ自分の気持ちすらわかってないくせに。
ああ、考え出すと暗くなる。やっぱり散歩しよう。
気を取り直して、私は外へ向かった。




