第38話 ひと息ついて
家を出ると、目の前には自然が広がっていた。
ここは田舎だから都会とは違ってそこかしこに緑が溢れている。向こうには田んぼが続いていて、その先に低い山が見えた。
遠くで風に揺れる緑を眺めながら深く息をつく。
はあ、やっぱり癒される。帰ってきてよかった。
ふと空を見上げると、青空がどこまでも続いていた。
「よし、行くか」
そう呟いて、私は勢いよく一歩を踏み出した。
しばらく歩くと、家々が並ぶ住宅地に入る。このあたりは昔のままだ。
顔見知りに会うと面倒だな。そう思うと、足も速くなってそのまま通り抜けていった。
まあ、そんなに仲いい人っていないんだけどね。
さらに進むと商店街通りに出る。この町並みはほんの少しだけ変わっていた。
時代は流れ、昔からあった店はいくつも姿を消していた。その代わりに新しいお店がちらほらと目につく。
店先を眺めながらゆっくり歩く。見覚えのある看板を見つけると、頬がゆるんだ。
あった、あった。懐かしい。
そんなことを繰り返しながら商店街を抜け、私はある場所へ向かった。
住宅地のはずれまで来ると、すぐ脇を流れる川のせせらぎが耳に届く。
「相変わらず、綺麗だなあ」
川辺にしゃがみ込み、水をすくう。天然の冷たさが指先から伝わってきて、ひんやりと心地いい。
ここの水は山から流れてきている。どこかに湧き水の源があるらしく、昔から澄んでいることで有名だった。
よくここで水遊びしたなあ。
そんなことを思いながら微笑んでいると「にゃー」という間の抜けた声と共に、猫が横をすり抜けていく。
そういえば、この辺りは野良猫が多かった。小さい頃からうろつく姿をよく見かけていたっけ。
動物好きな私は、飼いたくてしかたがなくて何度もおねだりした。でも、父親がどうしてもだめだって言うから諦めたんだよね。どうやら父は猫が苦手らしい。
だから必死に見ないようにしてた。本当は大好きで撫でたかったけど、情が移るのが怖かった。
そっと手を伸ばすと、猫は目をまん丸にして逃げるように去っていった。
ちょっとショック。まあ、しょうがないか。
ふふっと笑ってそのまま草むらに体を投げ出した。草花がクッションになって、思った以上に気持ちいい。
お日様が優しく照らし、ぽかぽかとあたたかくて、なんだかまぶたが重くなってくる。
うつらうつらしていると、ふと二人の顔が浮かんだ。
桐生さん、土岐くん……
どうしたらいいんだろう。その答えを見つけるために、ここへ来た。
とりあえず、ひとりで悩んでいても解決しないことはわかっている。夜にでもお母さんにこっそり相談してみるか。
そう思い直して目をそっと閉じた。
あまりの気持ちよさに、そのまま眠ってしまった。
* * *
夕暮れの中、また来た道を戻る。
赤い光に包まれた町は、昼間とは違う穏やかな表情を見せていた。
家々の影がゆっくりと伸びて、遠くからは夕餉の支度を知らせる匂いが漂ってくる。
自然のすべてが赤に染まり、空気までやわらかくなった気がした。
深呼吸をしていると足取りも自然と緩んでいく。景色を目に焼き付けながら、私は家へ向かった。
家に戻ると、美味しい晩ご飯をたらふく食べて、お風呂に入った。
あたたかなお湯に、ほっと一息。
両親とたわいもない会話を楽しんだあと、用意されていた布団へもぐりこむ。
ふわりと懐かしい匂いがした。
うん、気持ちよく寝られそう。
「あらあら、もう寝るの?」
母が部屋に入ってきた。
「父さんが羨ましそうに私を見るのよ。いいなあって。
花音と寝たいみたい。ふふっ、いつまでたっても子離れできないんだから」
可笑しそうに笑いながら、隣に敷かれた布団に横になる。
「電気、消すわね。おやすみ」
母の言葉のあとすぐに明かりが消えた。
障子から差し込む月明かりが、ぼんやりと部屋を照らし出す。
「ねえ、母さん」
「……なあに? もしかして、帰ってきた理由を聞かせてもらえるのかな?」
「え!」
思わず声が出て、母を見る。
薄明かりの中、にやりと微笑む母の顔が浮かんだ。
「ほほほ、母親だからね。わかるわよ」
すごいな。呆れながら私は天井を見つめた。
「何があったの? 恋バナなら、大歓迎よ」
なんかうきうきしてない? 完全に面白がってるでしょ。
まあ、でも。正直それを話すために帰ってきたんだし。
覚悟を決めた私は、桐生さんと土岐くんのことをぽつぽつと話し始めた。
夜の静けさのなか、途切れ途切れに紡がれる私の声だけが、やけに鮮明に響く。
母は途中で口を挟むこともなく、最後まで、ただ黙って聞いてくれた。
「へー、すごいじゃない。そんな素敵な男性から告白されるなんて。
しかも、二人から」
声が少し弾んでいる。
「え、うん、まあね」
「なによ? すごくありがたい話じゃない。なんでそんなに暗いの?」
「だって、戸惑ってるのよ。
なんで私なんかって。あんな素敵な人たちから、好かれる理由がわからない」
まずは、これだよね。
本当に謎なんだよ。
母は大きく息を吐いた。
「そうねえ。あんた、昔から自信ないもんねえ。
人見知りだし、引っ込み思案だし。男の人ともご縁がなかったというか。
だから……戸惑ってるのね」
納得したようにうんうんと頷く気配がする。
ほんと、よくわかってらっしゃる。
「でもさ。こう考えてみたら?
やっと、あんたの良さをわかってくれる人と巡り会えたんだって。
花音だって、素敵なところたくさんあるよ。気づいてないだけでさ」
「え? どこ?」
「……それは、自分でわからないと」
はぐらかされた。
本当は、お母さんもわかってないんじゃないの。ちょっと疑ってしまう。
「まあ、だからさ。
その運命の人に巡り合うために、今までの人生があったってこと」
「そのせいで、今まで私は人を避けて生きてきたって?
男性にも恵まれなかったと……」
なんだか、言いくるめられているような気がする。
でも、母が言うとそんな気がしてくるから不思議だ。すっと心に入り込んでくるというか、しっくりくる。
「そう、なのかな。そうだといいな」
「ふふっ、あんたは素直ね。そういうとこもいいと思うよ。
まあ、どちらの人を選んでも、きっと幸せになれる。
ただ、ひとつだけ注意」
声の調子がふっと変わって、私は母のほうを見た。
母は優しく目を細めて、そっとつぶやく。
「あんたの気持ちを、大切に。ね」




