第31話 譲れないもの
甘い余韻の中で、彼がそっと体を離す。
もう一度見つめ合って笑みがこぼれ、ふとこの場所へ来た理由を思い出した。
いけない。忘れるところだった。
夢みたいな出来事に、すっかり頭の片隅へ追いやられていた。
「あ、あの」
「ん? どうした?」
向けられた優しい笑顔に、胸がきゅっと跳ねる。
「土岐くんって、知ってるでしょ?」
その名前を出した途端、彼の表情が険しくなり眉がわずかに上がった。
「ああ……あいつか。土岐がどうかした?」
どこかそっけない言い方に少し引っかかった。
「今度の休みに、彼の買い物に付き合うことになって。
一応、報告しておこうかなと思いまして」
男性と会うときはやっぱり伝えておくべきだよね。この前のことでそれは学んだ。
余計な誤解を生まないためにも、ね。
「ふーん。なんで?」
……めちゃくちゃ不機嫌そうな顔。
「え、なんでって……」
「なんで、あいつの買い物に君が付き合うの?」
言葉にはっきりと棘があった。
私はおろおろと視線をさまよわせながら必死に言葉を探す。
「ほら、この前は彼の妹さんへのプレゼントを買ったでしょ? あれがすごく好評で、喜んでくれたみたい。
それで今度は、お母さんへのプレゼントも一緒に選んでほしいって言われて……」
本当のことだ。嘘は言っていない。
「……」
今度はだんまり。
その沈黙がこわいんですけど。というか、どうしてそんなに怒ってるの?
おそるおそる機嫌をうかがっていると、
「彼は、君のなに?」
鋭い眼差しを向けられて戸惑う。
「え! 彼とは友達です」
素直に答えた。これも本心だった。
土岐くんとはいい友達で。私にとっては癒しで、相談相手でとても大切で、ありがたい存在。
……ん?
こうして考えると、もしかして特別なのでは。
首をかしげて考え込んでいると、桐生さんが低い声で言い放った。
「いやだ」
「はい?」
あまりにも子どもっぽい言い方に、思わず聞き返してしまう。
拗ねたような表情のまま彼は続けた。
「土岐と二人で会うのは禁止。会社でもよくランチしてるだろ?」
「え? まあ」
……見られてたんだ。
「それも、もう駄目」
はっきり言い切られて、少しムッとする。
「どうして、そんなことまで言われないといけないの?」
つい、強気に言い返してしまった。
彼は意外そうに目を見開く。
しまった。でも、これは譲れない。
私はそっと見つめ返す。いや、ほとんど睨み返していた。
「友達関係のことまで、口出しされたくありません」
「でも、あいつは男だ」
「男だからってなに? 友達です」
「だから、土岐はそう思ってないかもしれないだろ」
不機嫌そうなまま、横目でこちらを窺ってくる。
いつも堂々としている桐生さんらしくない。
こんな小さなことで突っかかってくるなんて、女々しい。
「でも、私は土岐くんのこと避けたりなんてできません」
意地になって言い返した。
彼にはたくさんの恩がある。そんなふうに距離を取るなんてできないし……したくなかった。
桐生さんは深いため息を吐き、そしてとんでもないことを言い出した。
「じゃあ……俺が、他の女性と二人きりで会ってもいいんだ?」
なにその言い方。嫌味っぽい。
本当に今日の彼は彼らしくない。
いったい、どうしたっていうの?
拗ねた子どもみたい。桐生さんにこんな一面があったなんて。驚くのと同時に、少しあきれてしまった。
「いいです。私も土岐くんと会いますから。
桐生さんも、ご自由にどうぞ」
突っぱねるように言い放つ。
……ちょっとだけ後悔が滲んだ。言っちゃった。
ちらりと横目で窺うと、桐生さんは黙ったままうつむいている。
「そうかよ! わかった」
声を荒げた彼は、ふいっと顔を背けた。
「じゃあ」
そう言って、そのまま歩きだす。
な、なんなの、あの態度。信じられない……。
好きな人が他の異性と会うからって、怒って、そっぽを向くなんて。
私は唖然としたまま、その背中を見送った。
彼が去ったあと、あたりが急に静まり返る。
ふっと息を吐いた。
まさか、あんな態度を取られるなんて。本当にびっくりした。
でも……少し反省もする。私も子どもっぽかったよね。
さっきの話、本当なのかな。
どうしよう。もし、浮気されたら。
……いやだ。
私だって、彼が別の女性と二人で会うなんて、いや。
そっか。そうだよね。
桐生さんも同じ気持ちだったんだ。
でもそれって、同じくらい私のことを好きってことでもあって。
ああ、せっかく仲直りできたばかりだったのに。また距離ができてしまったじゃない。
私って、つくづく恋愛音痴なのかな。なにやってるんだろう。
大きく息を吐いてからゆっくり歩きだす。
もう、帰ろう。
駅に向かう途中、ふと思った。
……でもさ。彼も悪いのよ。
土岐くんのことをあんなふうに言うから。
彼と会うな、なんて言われて、ついカッとなってしまった。
心の底からいやだって思ったんだ。
今回のことで改めて気づいた。
土岐くんは私にとって、とても大切な存在になっていたってこと。
ふと彼の顔が浮かぶ。
すると不思議なことに、少しだけ気持ちがやさしくなれた気がした。




