第20話 秘密にしよう
う、うそ!?
驚きのあまり立ち上がってしまい、その拍子に椅子が後ろへ倒れた。
「あ……ごめんなさい」
慌てて椅子を元に戻し、そっと腰を下ろす。
あの時見られていたなんて。遅い時間だったし、私たち以外は誰もいないと思っていたのに。
ど、どうしよう。大変なことになった。
朝からずっと突き刺すような視線を感じていた。
彼女たちの目つきを思い出すだけで、背中がひやりとする。
耳に入ってきたあの言葉の数々。胸の奥でばらばらだったものが静かにつながっていく。
さっき転ばされたのも……たぶん、そういうことなんだ。
「う、噂になってるんだ……どうしよう」
冷や汗がじわりと滲む。鼓動が早まり、指先がかすかに震えた。
女性の嫉妬は怖い。これ以上ひどいことをされたら。
「大丈夫だよ。今はまだ、“軽い噂”みたいだし。
でも……さっきのことを思うと、心配になるよね」
土岐くんは眉を寄せ、真剣な表情で考え込む。
「もし、それが本当だって広まったら……
今よりもっと危険が及ぶかもしれない」
心配そうな瞳がまっすぐこちらを捉えた。
私は、小さく頷くことしかできない。
そうだ。噂の段階であんな目に遭うんだ。
本当に付き合っていると知られたら――どうなるか、想像するだけで怖くなる。
桐生さんと両思いになれた嬉しさで、すっかり浮かれていた。こうなるリスクもわかっていたはずなのに。
舞い上がっていた私は、その現実から目を背けていたのかもしれない。
どうしていいかわからず、ぎゅっと目を閉じた。
「会社では、彼と付き合っていることを隠した方がいいかもしれない」
低く落ち着いた声で土岐くんがぽつりと告げる。
顔を上げると、彼は本気で心配している様子だった。
目が合うとふわりと微笑んでくれて、張りつめていた気持ちが少しだけ緩んだ。
「うん……そうだね。そうするよ」
これ以上、火に油を注ぐようなことは避けた方がいい。
「もし何かあったら相談して。
僕でよければ、いつでも力になるから」
にこりと笑うその顔に、また胸が小さく鳴った。
なぜだろう、彼といると不思議と落ち着く。大丈夫だって思えてしまう。
私がふっと笑うと、彼も嬉しそうに目を細めた。
そして昼休み。
私はさっそく行動に移すことにした。
桐生さんに仕事を頼むふりをして、そっとメモを渡す。机の影に身を寄せ、周囲の視界に入らないよう気を配りながら。
彼は、ほんの一瞬だけ眉を上げた。
けれどすぐにすまし顔に戻り、自然な動作でそれを受け取る。
さすがポーカーフェイス。
こういうところ、本当に抜かりがない。
彼は何気ない足取りで、その場を離れていった。
メモには、短く一言。
『帰りに会社の裏手へ』とだけ、書いておいた。
そして終業後。
部署を出るとき、ちらりと桐生さんを見る。
彼もこちらに目を向け微笑んだ……ように見えた。
「わかっているよ」そう言われた気がして、胸が少しだけ弾んだ。
私はそのまま一階へ降り、会社の裏手へと回った。
角を曲がると、表通りの賑わいがすっと遠のいていく。
相変わらず、ここはひっそりしていて人影もない。正面の大通りとは大違いだ。あちらは明るく人通りも多いのに、こちらは外灯が静かに舗道を照らすだけ。
でも……私は案外こういう場所が好きだった。
落ち着くんだよね。
まあ、女ひとりだと危ないのかもしれないけど。
「早く来ないかなあ」
彼の顔を思い浮かべたら、つい口元が緩んだ。
けれど、すぐにはっとする。
これから言うことを考えると、浮かれてばかりもいられない。
彼はどんな反応をするだろう。
やることもなくて空を見上げる。
わずかに星の光がにじんでいて、その静けさに胸が少しだけあたたかくなった。
しばらくして、桐生さんがやってきた。
「ごめん、待った?」
申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる。
気づけば二十分ほど経っていた。
でも、待つことには慣れている。私にとっては、たいしたことじゃない。
「いいえ、大丈夫です」
にこっと笑うと、彼はほっとしたように微笑んだ。
「もっと早く来たかったんだけど、ちょっと捕まってて。
本当にごめん」
今度は、深々と頭を下げられる。
「そんな、全然平気ですよ」
そう口にすると、彼は顔を上げて首をかしげた。
「待つことに慣れてる、って?」
「はい」
軽く頷くと、彼は困ったように笑う。
「……君らしいな」
どこか嬉しそうでいて、やわらかな笑みだった。
私らしいってどういう意味?と思いつつ、今は追及しなかった。話が逸れてしまいそうだったから。
「あの、それで……お願いがあるんですけど」
彼は、真面目な表情で頷いた。
「うん」
まっすぐ見つめてくる。
こういう真摯なところも好きだな、と思う。
「えっと、とても言いづらいのですが」
緊張で、唾をごくりと呑み込む。これから口にする言葉はきっと失礼にあたる。
少し沈黙が落ちる。
それでも彼は、急かすことなくただ待ってくれた。
「……私たちが付き合っていること、会社では内緒にしてくれませんか?」
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