第19話 コーヒーの香りに紛れて
彼は散らばった資料を黙々と拾い集め、それを一緒に倉庫まで運んでくれた。
作業を終えると、気遣うようにこちらを見てふわりと優しく笑いかけてくる。
「ね、ちょっと話さない?」
その笑顔がやけにまぶしい。
本当に土岐くんって、癒し系だよね。
朝からいろいろあって疲れていたし、すぐにあの部署へ戻る気にもなれなかった。
だから、少し迷ってからその誘いに頷いた。
向かったのは会社の中に備えられている喫茶店だった。
社内にそんな場所があるなんて、最初に知ったときは驚いた。
私の勤めている会社はかなりの大手企業。
資金にも余裕があるのだろう。社員のために、こんな立派な喫茶店まで用意し、きちんと経営しているのだから。
喫茶店は社内の中間地点に位置している。五十階建ての高層ビルの、ちょうど真ん中の二十五階。誰でも立ち寄りやすいように、という配慮なのかもしれない。
シックな店構えでカウンターの中には、マスターらしき人がひとり。ほかにも数人の店員さんがいて、社内とは思えないほど本格的な雰囲気だ。
コーヒーが美味しいと評判の店で、私も何度か飲んだことがある。
たしかに、評判どおりだった。でも、けっこうなお値段がするから、普段はなかなか手が出ないけど。
店に入ると、ふわりとコーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐった。
「僕が奢るよ」
さらっと言われて断る間もなく、彼は注文を済ませてしまう。
コーヒーを手に、ふたりで窓際の席に腰を下ろした。
「ありがとう。いただきます」
そう言うと、土岐くんはいつものようにやわらかな笑みを返してくれた。
なんでだろう。土岐くんってほんとに不思議。
一緒にいると、力が抜けて、自然体でいられる。
こうして奢ってもらうことだって、普段の私ならどうにか理由をつけて断っているはずなのに。
彼の好意だと思うとすんなり受け入れてしまう。
これも、土岐くんが纏っている癒しオーラのせいなのかもしれない。
そっとコーヒーを口に含むと、あたたかな液体が喉を通りほっと息がつけた。
さっきまで抱えていたもやもやも、少しずつ薄れていく気がする。
カップを置いたところで、土岐くんが口を開いた。
「さっきの怪我、大丈夫だった? もう痛くない?」
心配そうに眉をひそめている。
「……ええ。もう平気。ありがとう」
本当に優しい人だな、と思う。考えてみれば、今日もまた助けてもらっている。
「ごめんね、いつも。情けないとこばかりで」
ほんと、こんなのばっか。
自嘲気味に笑うと、土岐くんが少し前のめりになった。
「そんなことない! 望月さんはすごいよ。
あんなことをされても、なにも言わず、やり返したりもしない。
いつも耐えて、それでも笑ってる。
それって、本当に強くて、優しい人にしかできないことだと思う」
ふわりと浮かべた彼の笑顔がまぶしくて、胸が小さく跳ねた。
か、可愛い……相変わらず。
今は会社での格好だから、地味で目立たない。眼鏡をかけているせいで分かりにくいけど、ふとした仕草がいちいちずるいんだよね。
眼鏡の奥の眼差しも澄んでいて、とても綺麗で――。
「望月さん?」
ぼんやり見惚れていると、彼が不思議そうに首をかしげた。
「あ、ごめん! そ、それで話って?」
ああ、恥ずかしい。じっと見過ぎた。
視線を泳がせながら、慌てて話題を戻す。
さっき、彼は話があるようだった。いったいどんな話なんだろう。
そっと視線を戻すと、土岐くんは目を伏せ、どこか言い出しにくそうにしていた。
探るような視線を向けながら、ぽつりと訊いてきた。
「あの……桐生さんとは、うまくいったんだよね?」
その言葉に、はっとする。
そうだ。まだ土岐くんにちゃんと報告していなかった。
桐生さんの誤解を解いてくれたのは、彼なのに。
「うん、そうなの。
土岐くんのおかげで、桐生さんの誤解が解けたんだ。ありがとう。
……それに、彼と両思いになれて」
言い終えた途端、頬が熱くなる。やっぱり口に出すと恥ずかしい。
でも、どうしても伝えておきたかった。
土岐くんのおかげで、桐生さんと想いが通じ合えたんだから。
少しのあいだ、沈黙が落ちる。
あれ? 黙り込んでしまった彼が気になり、そっと様子をうかがった。
うつむいたままで、表情がよく見えない。
「……そっか。よかった。おめでとう」
そう言って土岐くんは、いつもの笑顔を浮かべた。
気のせいだろうか。ほんの一瞬、影が差したように見えたけど。
「ぜんぶ土岐くんのおかげだよ。本当にありがとう。
なんだか、いつも助けられてばっかりで。どうやってお礼をすればいいか……」
「お礼なんていらないよ。
望月さんが幸せなら、それでいいんだ」
「え?」
思わず目を見開く。
それってどういう意味?
いや、深い意味なんてない。土岐くんは、ただ優しいだけ。
「でも、気を付けた方がいいかも」
急に、彼の視線が鋭さを帯びた。静かに念を押すような口調に背筋が伸びる。
「桐生さん、すごく女性から人気があるから。
もし付き合ってることが公になったら、嫌がらせを受けるかもしれない」
言われて、自然と頷いた。
……そう。わかってる。
今日の出来事も無関係じゃないだろう。
あの女性たちの態度も、全部つながっている気がする。
考え込んでいると、土岐くんが少しだけ声をひそめた。
「気づいてるかもしれないけど……
今日、女性たちから、その、いろいろされたでしょ?」
「う、うん」
それは、間違いなく。されまくった。
彼は一度視線を泳がせてから、意を決したように告げる。
「噂になってる。……昨日、ふたりがキスしてたって」




