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第18話 浮かれていたのは私だけ

 朝が来た。いつもと同じ……はずなのにどこか違う。


 ぼんやりしたまま天井を見つめる。

 昨日のあれは夢だったのだろうか。そう思いかけて、すぐに首を振った。


 ちがう。細かいところまではっきり覚えている。


 勢いよく起き上がり、唇にそっと手をあてた。

 触れた指先にかすかな熱が残っている気がする。


 キス、されたよね。二度目の。


 信じられない。私はついこの間まで恋をしたことすらなかった。

 誰かに告白されたこともないし、自分から想いを伝えたことももちろんない。

 ……胸を張ることじゃないけど。


 ましてや、この私が誰かとお付き合いするなんて。

 そんな未来、想像したこともなかった。


 それに、キスだって。人生で一度もなかったのに。


 漫画やドラマの中の、きらきらした世界の出来事だと思っていた。

 夢のまた夢だと決めつけていた。

 なのに、もう二回も。しかもあんなスパダリと。


 思考に疲れて、もう一度ベッドに身を投げた。

 そのままごろごろと転がり、芋虫みたいに身悶えしながら、抱き枕をぎゅっと抱きしめる。


 両想い……なんだよね。

 私と桐生さんが。本当に? マジで?


 今さらになってその事実が実感に変わり、胸いっぱいに広がっていく。


 人生初の恋。そして、彼氏。


 心臓がうるさい。さっきから全然落ち着かない。

 こんなふうにときめいたことが今まであっただろうか。人生って、本当に何が起こるかわからない。


 ふと時計に目をやって息をのんだ。

 もう十分も経っている。

 まずい。このままじゃ遅刻だ。


 名残惜しさを振り切るようにベッドを出て、慌てて準備に取りかかった。




 通勤中、目に入る景色が、これまでとはまったく違って見えた。


 青い空はやけにまぶしく、小鳥の声まで愛おしい。

 行き交う人たちも、なんだか幸せそう。


 不思議だ。歩くだけで心が弾む。

 恋って、こんなに世界を変えるものなの?


 ふと彼の顔が頭に浮かび、胸がきゅっと跳ねた。


 きゃー私ったら、朝から何を考えてるのよ。


 慌てて両腕をぶんぶんと振る。

 はっとして周囲を見ると、何人かの視線がこちらに向いていた気がして、頬が熱くなる。


 恥ずかしくなって身体をすくめた。


 しまった、はしゃぎ過ぎたか。ペロッと小さく舌を出した。


 そのまま何事もなかったふりをして歩き出す。

 それでも胸のうきうきは隠しきれなかった。


 はじめての甘酸っぱい恋に、私はすっかり浮かれていた。



 しかし、すぐに打ちのめされることになる。


 出社した私は浮かれ気分のまま自分の席に腰を下ろした。

 その瞬間、胸がざわついた。


 理由はわからない。ただなにか嫌な気配が漂っている。


 ふと視線を向けると、同じ部署の女性社員がいた。

 こちらを射抜くような鋭い目。


 目が合った途端、彼女はすぐに顔を逸らした。


 ……あからさまに怒ってる、よね。なんで?


 今度は別の方向から視線を感じる。そちらを向けば、別の女性と目が合ってぎろりと睨まれた。


 いったいこれは。


 呆然としていると、低い声が耳に届いた。


「いんらん女」


 通りすがりの女性がぼそりとつぶやく。はっと振り返りその背中を目で追った。


 い、いんらんって――淫乱だよね?

 頭が真っ白になる。そんな言葉を向けられたのは初めてだった。


 すると、ガンっと机が音を立てる。

 誰かが私の机を蹴った……いや、当たっただけ?


 視線を上げればそこには鈴木さんがいて、険しい表情でじっと睨みつけてくる。


「……サイテー」


 それだけ言い残し彼女は去っていった。


 な、なに? なにが起こってるの?

 状況が飲み込めないまま視線をさまよわせていると、


「おはよう、望月さん」


 爽やかな声とともに桐生さんが近づいてきた。


「お、おはようございます」


 緊張で声が上ずる。

 昨日の今日でどう接すればいいのかわからない。


 彼はにこりと笑い、自然な仕草で私の耳元へ顔を寄せた。


「今日も可愛いね」


「な……」


 顔が一気に熱くなる。言葉が出てこなくて、口を開いたまま固まった。


 桐生さんは余裕のある笑みを浮かべ、そのまま自分のデスクへ向かっていく。


 その背中を見送ったあと、また不穏な空気が肌にまとわりついた。

 振り向けば、女性社員たちが揃ってこちらを睨んでいる。


 理由はわからないのに、悪寒が走った。



 * * *



 なにかがおかしい。


 先ほど手渡された大量の資料を抱え、私はひとり廊下を歩いていた。

 腕にずしりと重みがかかり、歩みが鈍る。


 今日はなぜか女性社員たちからの圧が強い。

 それに頼まれる仕事の量がやけに多い。いつもより明らかに。


 よくあることと言えば、そうなのかもしれない。でも、これはさすがに多すぎる。


 手元の資料の束に目を落とし、ため息がこぼれた。

 ひとりでさばけるかなあ。


 断れない性格のせいで、結局すべて引き受けてしまった。


 ……私、なにかしたのかな。

 女性から嫌われるようなこと……?


 はっとした、その直後。


 足元で、何かに引っかかる感触があった。


 資料を抱えたまま前のめりに倒れ、紙の束が床に散らばる。


 くすくすと笑い声がした。

 顔を上げると、二人の女性社員がこちらを見下ろしている。その口元に浮かぶ笑みは、明らかに好意的なものじゃない。


「いい気味」


 吐き捨てるように言って、彼女たちは去っていった。


 ……これは、確実に嫌がらせだよね。


 肩を落としながら立ち上がろうとして。


「いたっ」


 膝に、ひりっとした痛みが走った。すりむいてしまったらしい。


「はは……踏んだり蹴ったり」


 小さく息をついた、そのとき。

 そっと、手が差し出された。


「だいじょうぶ?」


 驚いて顔を上げると、土岐くんがそこにいた。


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― 新着の感想 ―
社内恋愛って…誰か一人でも嫉妬する人がいたら険悪な空気になりますよね:(;゛゜'ω゜'): 嫉妬してくる同僚が多い花音の場合、露骨な嫌がらせがありそうで心配です(´;Д;`)
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