4 前夜
僅かな家財道具と大量の書を載せた車が洛陽の東、耗門を抜ける。曹操が官を捨て洛陽から脱出する時が来たのである。
だが行き先は故郷、譙ではない。出発前に夏侯淵からの知らせが来たからである。
曹操は車上でため息をついた。
宦官親属弾圧。その知らせで父は財産を抱えて出奔した。これでは故郷に帰っても兵を集める銭がない。おまけに沛相の袁忠とその配下になった功曹の桓邵が曹家に対する圧力を高めていて帰ったら捕らえられ兼ねないとの情勢。曹操は故郷での募兵を諦めざるを得なかった。
とりあえず行き先を陳留に定めた。
どう考えてもあそこが前線になるだろうし、張邈なら悪いようにはしないだろう。
ガタン、と車が揺れる。
まだ洛陽を離れて一刻も経っていないのに、子供達と過ごした洛陽の邸宅をすでに懐かしく思えてきた。
(あの家に戻って来ることはあるのかな。戦で焼けなければいいが)
結論からいうと、曹操がこの洛陽へ戻って来た時に邸宅は焼けていたし、曹操はそんな小さな邸宅に住む身ではなくなっていた。
***
臧洪は劉岱の弟である劉繇と郎での同期であった。劉岱と知己なのはそれ故である。
「それは快事だな」
劉岱は了承した。臧洪は特段喜びはしなかった。劉岱なら当然のことと思っていた。
「急ぎ兵をまとめるが……こちらからいいか?」
臧洪は頷いた。
「是非加えたい者がいる。河内太守の王匡、濟北の相鮑信、そして勃海太守の袁紹。この三人が居なくてははじまらんだろう」
「河内からも攻めることが出来るなら有難いことです。濟北へはこの後私が行きましょう。残念ながら河内と勃海まで行く時間はないでしょうな」
「そこは私がやろう。河内へは河を遡行すればすぐだ。勃海は冀州牧の韓馥に話を通そう。この際だ。韓馥も味方につけよう」
話が終わり、去ろうとする臧洪を劉岱が呼び止めた。
「東郡へは行かんでいいぞ!」
東郡の太守は橋瑁。橋玄の薫陶を受けていて血族派閥姻族を大事にする劉岱と仲が悪い事を臧洪も知っていた。
「行かんでいいぞ!」
劉岱なら当然のことと思っていた。臧洪は無視して去った。
***
倉から戈が運び出され、整然と積まれている。民が整列し、伍が、什が組まれて行く。陳留の城は既に戦争準備に入っている。
その喧騒の中、ようやく目的の人を見つけた曹操は、雑踏をかい潜り声を掛けた。張邈その人が属官まかせにせず自ら編成に携わっていたのである。
「孟卓!俺も加えてくれ」
張邈ははぐらかさなかった。
「来たな。小僧」
そう言って笑った。
「手兵は──そうか」
張邈は曹操の表情から状況を悟った。
「丁度いい。お前に頼みたいことがある」
そして曹操に恥をかかせない様に代替案を提供してくれた。
曹操は家族を張邈に預けると、陳留郡の南東にある襄邑県へ向かった。
「府君の使いとは君かね?有難い!」
襄邑では人のよさそうな、恰幅のよい士大夫が諸手を広げ曹操を歓迎してくれた。衛茲という豪族である。
「ことこうなった以上、兵を出さざるを得なかろう?府君の義挙に是非とも協力したかったんだ。しかし私にはそういう才覚がなくってなぁ」
聞いた時点で曹操はこの企みがどれだけ知れ渡っているのか不安を感じた。だが、兵を募集するには金が要る。自前の資産を使えない曹操にとって衛茲の存在は渡りに舟である。すがりつかざるを得なかった。
「ええ、募兵の方は私がお手伝いします」
「では今から兵を興すとするか」
形式上は衛茲の募兵だが、戦さとなれば自分が指揮する事になる。この大一番で一軍の将として振る舞えるなら、豪族の下働きなぞなんということはなかった。
曹操は衛茲を連れ、襄邑県からさらに南東に移動。己吾県で募集を開始した。己吾県は豫州梁国との州境にあり、梁国の向こうには沛国があるからである。
***
冀州刺史の別駕従事の泪授は大きく目を見開いた。韓馥が、大きなため息をついて、後ろに手をついて天井を見上げたからである。
着任してから間もないが、韓馥は立派で謹厳な士大夫として振る舞って来た。こういう姿を見せるのははじめてである。
「使君、如何なさいました?」
泪授の問いに、韓馥は天井を見上げたまま答えた。
「劉兗州から封泥が来ました」
兗州刺史の劉岱から密書が来た、という。
「董相国を倒す為に兵を挙げる。協力せよ。袁本初を旗頭にするので伝えて欲しい、と」
「そんな大事を封泥したとは言え郵で?……ああ、黒山賊ですか」
郵の経路は洛陽を中心に放射状に延びている。行政文書である竹簡は郵から隣の郵へ運ばれるが、戦や反乱があった場合に郵側の判断で迂回路を取ることがある。だが、今冀州の西半分は黒山賊が占拠している。そちらには迂回できない以上、郵の経路は黄河の南岸を通るしかない。
「おそらくこの反乱に東郡太守が加わっているんでしょうね」
黄河南岸は兗州東郡の領域である。駅伝も郵も兗州を通るのでは冀州から密告はできない。
「しかし使君。これは義挙ですぞ。協力してさしあげてよろしいのではありませんか?」
「いやいや。反乱は反乱です。そんな恐ろしい事、考えたくもない」
泪授の考えでは韓馥にとってこの義挙に参加するのが最善手であり、反乱側としても最善だと思われた。だが同時に遵法を規範としようとする韓馥の気持ちも理解できた。であれば、泪授の忠は主の意図を最大限に尊重するべきだろう。
「承知しました。では黙殺、という事でよろしいですね」
反乱軍の味方にはならないが、敵にもならない。そのぐらいが安全な所だろう。
「いいえ、いいえ。あなたが勃海へ行き、袁本初の動向を監視し、報告するのです」
泪授にはそれは州刺史の副官である別駕従事の仕事ではない気がしたが、考えてみれば
反乱と言う一大事に関する事である。現場判断も必要であろうし秘匿も考えねばなるまい。
「急ぎ、発ちます」
泪授は立ち上がった。
***
衛茲の募兵は順調であり、そして曹操を落胆させるものだった。
(少ない……)
このままでは五千に届くかどうか?
衛茲の声望と経済力、そして蜂起までの時間を考えるとこんなものであろうとは思う。
(この数でどれほど活躍できるか……)
いつも周囲に自信満々な虚勢を張っている曹操だが、内心、焦りはある。
曹操、当年とって三十五歳。議郎にはなれても学者にはなれず、騎都尉校尉にはなれても将軍にはなれず、実戦に出ても大功をあげたことはなく、中央官の高位を占めた事もなければ地方官を歴任した事もない。
自分が大器であるという確信は消えていないが、おそらくそれを信じてくれているのは夏侯惇だけだろう。この機会に曹操ここにありを見せなければ、今後は無い。そう思っている。
その覚悟が徴募兵の吟味に表れ、精鋭を求める余り兵数を頭打ちにしていることに曹操は気付いていなかった。
厳しい目で兵の募集、受け入れ、編成、訓練を繰り返す曹操の元に、意外な来客がやって来た。
「よう」
沛の幼馴染み、丁斐である。
「馬が要るだろ?乗れる奴」
彼が馬を連れてやってきたのである。
「ありがたい!」
指揮をする上で騎乗用に馴致した馬が足りなかったので僅かな数でも助かる。馬車馬を転用することはできないからだ。
「出世払いな」
丁斐らしいひとことに曹操は苦笑した。
そして後ろの馬に乗っていた人物を見て曹操は驚いた。
「来たわよ」
譙郊外の別宅に居る筈の妻の丁氏である。それも男装で騎上の人となっていた。
「……そうしていると昔みたいで素敵だよ、お前」
地上の曹操はそういって両手を広げ、腕の中に迎え入れようとしていた。
「ちょっ!この格好でないと馬に乗れないんだって!」
丁氏は嫌がって馬を横歩させて逃げようとするが曹操はずいずいと馬を追い込む。
「父上、どうかその辺で」
その後ろに居た長男の曹昂がさすがに見咎めた。
「俺もいるよ!」
曹洪、字は子廉。従弟である。
「牧場に匿われるのにも飽きたんだ。加えてくれよ」
最後尾の車に長女と次男が居るのも見えた。沛に残っていた家族が一斉にやってきたのだ。だが曹操は一抹の寂しさを感じていた。
夏侯淵が居ない事が、である。
(判っている)
妙才は自分が譙に残ることで、道半ばにすらたどり着いていない曹操達の帰る場所を守ろうとしてくれていることは。
だが、だからといって曹操の寂しさは消えてはくれないのだ。
長女と次男が乗る車が近付いて来る。久々に二人を抱き上げようと近付いた曹操は、車内に見慣れない幼児がちょこんと座っていることに気付いた。
「この子は?」
皆が黙りこくる中、丁氏が答えた。
「妙才が言っていたわ。この子はあなたの失策だって」
***
(孟徳……これはお前の失策だぞ……)
夏侯淵は血の海となった家に入り込んだ。桓邵の手下達はすでに帰った後で、死体も運ばれていった後だった。死体はおそらく市で晒されるのだろう。
曹操から夏侯淵に使者が来ていた。譙で兵を集め、己吾に来て欲しいと。
夏侯淵が使者に預けた答えは「今はそんな事ができる状態じゃない」その一言だった。国相の袁忠とその部下桓邵の締めつけはそれだけ厳しかったのである。
焦った曹操は夏侯淵ではなく、秦邵に同じ依頼をしたらしい。秦邵の妻は曹操の族妹で、親戚付き合いをしていたからである。
秦邵は曹操への友誼から計画実行に移した。反董卓の活動に参加しているわけでもない譙で兵を集めるなど民衆反乱の準備と見倣されて仕方が無い。
夏侯淵がそれを知り、やめさせようとやって来た時はもう全てが終わっていた。
桓邵の部下に急襲されて秦邵は一家まるごと誅されたのである。
惨劇の跡にため息を付いた夏侯淵は、無駄足に終わった事を嘆きつつ帰ろうとした。
その時である。小さな、ほんの小さな泣き声……すすり泣きが夏侯淵の耳に入った。
くるり。
夏侯淵は踵を返すと秦邵の家の中を捜しはじめた。血を踏んだ足と敷石の間でニジニジといやな感触がする。
夏侯淵の足が止まった。一番泣き声の大きくなった場所は厨房の土壁の前である。トンッと壁をたたくと壁が四角く外れた。
(幼児か……)
真っ暗な壁の奥。幼児が膝を抱えてしゃくりあげていた。秦邵か妻かが、とっさに我が子を二重壁に隠したのであろう。
(せめてこの子だけは)
夏侯淵は性根として、子供を見捨てる事のできる人間ではない。
夏侯淵の家はそれほど裕福ではないのに、実子だけでなく、夭折した弟の娘まで引き取って育てていて、妻は手一杯だった。夏侯淵の妻は丁氏の妹である。見兼ねた丁氏が引き取ったのである。
「伯南が!俺のせいで!済まない!代わってこの子は立派に育てよう!」
曹操は激情のあまり涙を浮かべた。
(しかも妙才をも危険に晒していたのか。俺はあまりに考え無しだ)
自分の選択した行動で親族に被害が出る。それは曹操にとって初めての経験だった。そして最後の経験ではない。




