2 相国(永漢元年十一月)
「公覆!そっちへ行ったぞ!」
小屋の中から孫堅の叫び声が上がった。いつのまにか小屋の横の葦束が倒れていて、そこにあった穴から盗賊が飛び出してきた。黄蓋は落ち着いて追いかけた。眼前に盗賊の背中があった。反射的に斬った。
刀の刃先が肋骨のでこぼこをなぞる感触がした。盗賊は悲鳴を上げながら転倒し、そこらを転げ回る。盗賊の背の断ち切れた麻布の間に肉の断面を見た黄蓋は自分が何をしたのか実感し凍り付いた。
小屋から出て来た孫堅が事も無げに黄蓋の横を通り、盗賊の肋間に刃を入れる。盗賊が動かなくなるのを待って孫堅は剣を抜いて鞘に収める。
ぽんっと黄蓋の肩を叩くと
「初陣にしちゃ上出来上出来」
そう言って戻って行った。
孫堅は長沙賊區星の制圧の為に長沙へ派遣された臨時の太守である。區星は駆逐したが残党は分散、独立し、江南宗賊としてそれぞれが蔓延っている。基本的に政務は苦手なのでこうやって江南宗賊退治にあけ暮れているのが常である。
黄蓋は故郷の泉陵で孫堅に救われた恩を忘れられず、自ら配下になることを志願したのだが、果してこれでよかったのか疑問がないわけではなかった。
***
長沙郡の治所、臨湘。留守を守り(孫堅の嫌がる)政務を代行していた程普が孫堅に一枚の竹簡を差し出した。
「いいよ、お前に任せる」
「こいつは読んだほうがいいですぜ」
そう言われてさえ孫堅は読む気がないようだ。ずいっと差し出された竹簡を手に取ると見もせずぽいっと黄蓋に投げ渡した。黄蓋は代わりに読んで……よく判らなかったので質問する。
「徳謀さん、これ相国が復活したって詔ですよね?」
相国は蕭何と曹參が就いた家臣としての最上位であり、この二人への遠慮からながらく空位のままだった。
「帝が替わったり、次々改元されたり、三日で二回大赦があったり。いったい都はどうなってるんだ?」
孫堅がつぶやいた。
孫堅としては悪人は処刑してしまいたい。大赦など嫌なこった、なのである。そして収監した罪人を解き放つのが大赦なので、数日で連続されても無意味なのである。都がなんだか変なことになっているのは孫堅でも理解していたが、少々ひとごとの雰囲気を漂わせていた。だがその暢気な声も黄蓋が読み上げる名を聞くまでだった。
「じゃあ今後、うちから上書する時はこの董仲穎って相国を宛ててしなきゃいけないんですか?」
孫堅の動きがぴたりと止まり、くるりと振り向いて黄蓋から竹簡を取り上げる。
しばらく読んでいた孫堅は宙空に向かって語りかけた。
「封郿侯、入朝不趨、参拝不名、剣履上殿か……あの男が?」
郿侯、というのは郿に食邑を与えるということである。郿は長安の西、右扶風にある。
入朝不趨、というのは帝の前で趨しなくて良いという事.
参拝不名、というのは帝に対する自称に諱を使用しないでいいし、呼ばれることもないと言う事。
剣履上殿、というのは帯剣したまま帝の前に出て良いと言う事。
どれも臣下の分を超えた待遇である。
「昔、張公が俺の言うことを聞いてくれていたら、朝廷は今の難を逃れられたのにな」
孫堅は太尉の張溫に董卓を殺すよう上申した事がある。
黄蓋は程普が孫堅を黙って見つめているのに気付いた。だがその程普は見つめるだけで口出ししてくれないので黄蓋が尋ねた。
「府君。董相国となにかあったんですか?」
孫堅はニッと笑って答えた。
「不倶戴天」
眼は笑っていなかった。そして叫んだ。
「徳謀!兵を集めろ。糧秣と荷駄もだ!」
「どちらへ?」
「……判らんか?洛陽だ洛陽!殺される前に殺しに行くぞ!」
孫堅が張溫に董卓を殺すよう上申したのは董卓の眼前である。権力を握った董卓が孫堅をそのままにしておくとは思えなかった。
「そうこなくちゃ大将!」
元気に答えた程普が笑っているのに黄蓋は気付いた。




