84、永遠の別離の挨拶
喋らなくなった海の王に代わり、東海竜王が沙胡蝶に返事を返した。
「おお、初めて言葉を交わすな!沙胡蝶、この度は本当にお前には悪いことをしてしまったな」
東海竜王の言葉に、沙胡蝶は黙って頭を小さく横に振る。沙胡蝶は本当に体が辛いのだろう。沙胡蝶の真っ青な顔色が東海竜王には痛々しかった。
「大叔父様。これで。良かった。のです」
小さな体で呼吸も浅い沙胡蝶の様子に、東海竜王は胸を締め付けられるような罪悪感を抱いた。足のある姿を毛嫌いしていたが、実際会ってみると嫌悪感など少しも感じなかった。それどころか、ずいぶん幼げな沙胡蝶の姿が甥以上に愛らしく見えて仕方がなかった。それに沙胡蝶の黒髪と黒目を見た東海竜王は、心が浮き立つような思いに駆られた。何故ならば黒髪と黒目というのは、竜族の始祖の竜と同じ色合いだったからだ。
まるで始祖の黒竜の再来のようではないか!と喜びつつ、沙胡蝶の幼い顔をよく見てみれば、竜族に相応しい際だった美しさだったので、東海竜王は沙胡蝶の美貌の中に、自分と同じ竜の血のつながりをまざまざと感じた。しかも……だ!大勢いる甥の子達の中で唯一感じる聡明さも沙胡蝶から感じられるのだ。
何と惜しいことだ!と東海竜王は一瞬考えた。確かに沙胡蝶は魔力は無いが、王の器というものを沙胡蝶から感じられると東海竜王は思ったからだ。しかし、こうも思う。今は三界竜王で支えている海の結界にもいつかは限界が訪れるはずだ。そうなったら近い将来4人の竜王で支えなければならないため、次の竜王になる者は必ず、強大な魔力持ちでなければならない。
だから魔力のない沙胡蝶に無理やり、海の王の逆鱗を飲ませて竜体に転身させたところで、海の結界を支えられる魔力を持てる可能性は少ないだろう。竜王達は海の王のときのような失敗は、もう繰り返してはならないのだ。……それに何より東海竜王は今も恐ろしい眼差しで睨んでくる陸の悪魔が……孫悟空が、とてつもなく怖い。それ故、孫悟空が気に入っている沙胡蝶とは、今後も出来るだけ関わるな!と自分の生存本能が全力で訴えかけてきて、先程から冷や汗が止まらないのだ。東海竜王は孫悟空の怒りを買わないか、ヒヤヒヤしながら沙胡蝶に確認を取った。
「お前との初めての挨拶が最後の挨拶になるのは、いささか残念だが仕方がない。お前は海の国に帰るつもりはないんだろう?」
沙胡蝶は辛そうに、だがはっきりと首を縦に振る。
「私。ここで。生き。ます。」
「そうか……。わし達も二度とお前を海の国に留めようとはしない。お前のためにも。わし達のためにも、な。今までの不遇、すまなかったな。お前はこれからは陸で生きよ。……最後に、自身の父に何か言いたいことはあるか?」
東海竜王の言葉に、沙胡蝶は萎んで項垂れている海の王を見た。小さな弱々しい声が別れの言葉を紡ぐ。
「父様。命を。くれて。ありがと。ござ。ます。もう。お会い。しない。お元気で。くださ。い」
{……}
萎んだままの状態の海の王は、別れを告げる我が子の声にも反応せず、顔を上げて沙胡蝶の顔すら見ることもなく、沙胡蝶の別れの言葉にも何も言葉を返さなかった。沙胡蝶は動かない海の王を見つめた後、孫悟空の胸に顔を埋めてしまった。東海竜王は体の辛さを堪えて別れの挨拶を終えた甥の子に感心しつつ、甥の醜態には眉をしかめた後、竜体となって幌金縄で縛った甥を乱暴に掴んで、皆に別れの挨拶をした。
「世話になった。こんなことを言えた義理ではないが沙胡蝶を……わしの姪孫を頼む。いや、お願いします」
東海竜王は深く深く頭を下げ、今、この場には正式な誓いが成立する顔ぶれが揃っているのは良い機会だと考え、自分の決意表明をしておこうと大きな声で宣言した。
『四海竜王が治める4つの海の国の者達に、二度と沙胡蝶に危害を加えさせないことを東海竜王の名前にかけて誓おう!そして沙胡蝶を未来永劫、竜王族に引き入れることもけしてさせない!』
東海竜王は神使の前で正式に誓った後、キョトンとした顔をした沙胡蝶を見た。沙胡蝶には、母親がいない。父親は、このざまで沙胡蝶の異母兄姉達は、沙胡蝶のことを嫌っていた。ということは沙胡蝶には、自分以外に頼れる血縁者はいないのだ……という思いが東海竜王の保護欲に火をつけた。どうしようもない甥や甥の他の子ども達には感じなかった庇護欲を急速に沸き上がらせた東海竜王は、口の中でボキッ!……と音をたてると一本の小さな牙を吐きだした。
『沙胡蝶には”東海竜王の竜牙”を与える。海での困り事があれば、わしを呼んでくれ。海であれば、どのように遠い場所でも直ぐに馳せ参じよう。今までの不遇の詫びだ』
沙胡蝶は未だグッタリしている様子だったので、代わりに沙悟浄が懐紙に包んで受け取った。後で流砂河でよく洗ってから渡そうと沙悟浄は思った。こうして沙胡蝶は、本当の意味で海の王の魔の手から永遠に解放されることが、東海竜王の正式な誓いによって確約されたのである。
今回のお話の中で、沙胡蝶は自身の父に直接別れを告げていますが、
これはお話としてそうなっただけですので、
現実では、虐待を受けている子どもが、その親に別離を直接伝えるのは、
危険を呼ぶかもしれない行動になる可能性があるのでご注意下さい。
現実では親から何らかの虐待を受けている、もしくは受ける危険のある
子どもが、自分自身でその事に気づいて自分だけで自分の身を守ろうとする行動は、
言葉に出来ないくらい、苦しくて辛くて孤独で困難なことだと思われます。
逆上した親にさらに危害が加えられる危険があるかもしれません。
対処の仕方は、各専門機関に問い合わせてご相談して下さい。
ご理解のほど、よろしくお願いいたします。




