83、孫悟空、芳香の正体を告げる
皆が見守る中、林の奥から孫悟空の声だけが聞こえてくる。
「おい、大丈夫か?ああ、まだ顔色が悪いなぁ。声もか細い。無理に声を出さなくても俺には聞こえるから、そのままでいいぞ。馬鹿牛がおやつ直後にお前のお腹を肩に担いで激しく上下左右に揺れて走っていたモノなぁ。どうだ、動けるか?少しだけでも顔を見せられるか?俺質の話し声は聞こえていたんだろう?……ああ、そうだよ。お前の大叔父が詫びたいとさ。でもお前の顔色が本当に悪いのが心配なんだよなぁ。……ん?少しなら大丈夫か?え?あんまり喋らないなら大丈夫だって?よし、わかった!それなら俺が抱き上げて連れて行ってやるから……、よし、そっと動くから気分が悪くなったら言えよ」
暫くして孫悟空が、そっと気遣うように沙胡蝶を抱きかかえてやってきた。沙胡蝶は4才くらいの幼子の姿で、孫悟空の腕の中にいた。東海竜王と縛られている海の王は真っ青な顔色の幼子に目をむいて驚きの声を上げた。
「何と!?沙胡蝶はこんなにも小さい子どもだったのか!?こんなに小さいのに、わしのおつかいで一人っきりで旅に出たのか!?何と健気な……」
{沙胡蝶はまだ子どもだったのか……。それに沙胡蝶は春香天女の匂いがしない……何故?}
孫悟空は彼らの誤解を解くことにした。
「沙胡蝶が小さいのは、太上老君の試練に使われた宝具の瓢箪に、事故で入ってしまったからさ。あれは時間が経つと中に入ったものが溶けてしまう悪趣味な仕掛けがあって、沙胡蝶はこの大きさまで溶けて小さくなってしまったんだ」
「何と!?太上老君の瓢箪に入ってしまったというのか!それは何とも気の毒に……」
神使の二人が申し訳なさそうに、沙胡蝶に向かって頭を下げるのを見て、東海竜王は沙胡蝶に同情を寄せる。
「ああ、本当に東海のおっさんの言う通りだ。でも、まぁ、幸いなことに沙胡蝶の中身は幼くはなっていないのだけが救いだったがな。……それで、だ!ここから一番重要な話をしよう!やい!元・海の王!そこにいる沙胡蝶からは、お前の好きな春香天女の匂いがしないだろう?」
{ああ。だが、何故だ?他の者からは春香天女の匂いがするのに!}
海の王の声に孫悟空はニヤリと笑った。
「簡単なことさ!沙胡蝶は元々匂いのない子どもだ。あの匂いは、太上老君の瓢箪に入っていた”春香天女の舞”という酒の匂いだったのさ!俺が太上老君の試練で、あの瓢箪から出るときに街全体に瓢箪に入っていた酒が吹き飛んだのさ!……それで、そこにいるお前の周りにいる、春香天女の匂いがする者達は、その酒をかぶって濡れた者達だったということさ。きっと沙胡蝶が赤ん坊の頃に、一瞬だけ春香天女の匂いがしたのは、多分、白蘭の命の最後の灯火が香っただけだったということさ。良いか、海の王!春香天女は、もういないんだ。そして春香天女の匂いを放つという春香族も、もうどこにもいない……」
{そんなのは嘘だ!だって春香族の最後の生き残りが沙胡蝶ではないか!}
吠える海の王から庇うように、孫悟空は抱きかかえている沙胡蝶の顔を自身の肩で隠してから、春香天女についてのある秘密を話し出した。
「天界で酒を造ることが定められている巫女の天女は、芳香を放って生まれてくる者だけがなれる。でもそれだけじゃダメなのさ。酒造りの巫女になった者は、赤子の頃に母乳を飲んで大きくなってからは果物と花の密のみしか口に出来ないんだ。沙胡蝶の母親の白蘭の一族である春香族は、男女ともに結婚するまでは、その伝統を守っていたのさ。……どっかの馬鹿猿が、約束通りに天女を迎えに来たときに天女の代わりに天界に行けるように……って、な。白蘭が15歳になるまでは、その伝統が守られていたが、白蘭は攫われてからは、果物も花の密も一切、口にはしていない。さらに沙胡蝶は春香族であった母の乳も飲めず、それに海の国に、果実も花の密も存在していないから、それらは一切、口にしたことはなかった。……だから沙胡蝶は、春香族の呪縛から逃れた、普通の人間となったんだ。あの春香天女の芳香は、春香族の母乳を飲み、限定された食物しか食さないことで放つことが出来るものだったんだ。だから、過去もこれからの未来も沙胡蝶が、春香天女の匂いを放つことはない。良いか、よく覚えておけ!沙胡蝶は普通の人間なんだ!そしてだな!沙胡蝶の、その子も孫からも、未来永劫、春香族は生まれてこない!お前はこの先も、永遠に春香天女を手に入れることはけしてないんだ!」
孫悟空のその言葉を聞いて、幽体の元・海の王はそれきり口をきかなくなった。身じろぎもせす、急に萎んで大人しくなった。静かになったその場に、弱々しい幼い声が聞こえた。
「と、父様。お、大叔父様。……沙胡蝶です」
孫悟空の腕の中で、顔色の悪い沙胡蝶が辛そうに頭を下げた。その頭上には真珠色に輝くハゲはなかった。ただ黒々としたおかっぱの髪が、さらさらと揺れていた。




