73、孫悟空の報告②春香天女について
この回も長くなりました。
「蟠桃園の見張り番の仕事について2日目に、俺は桃の木の陰に隠れている春香天女と出会いました」
500年以上前のことを、孫悟空は鮮明に話し出す。今までずっと忘れていたその記憶を、ついこの間のことのように孫悟空が鮮明に語れるのは、実は真珠を頭から外した沙胡蝶の本当の姿を見たときに、春香天女のことを思い出したからだ。春香天女との思い出は、天界にいたときの孫悟空の記憶の中で、唯一の穏やかな思い出だった。
「おい、そこの天女。お前はそれで隠れているつもりなのか?お尻が丸見えだぞ」
地上で仙術の天才と持て囃されていた孫悟空は、ぜひ天界に士官してくれと天界に請われたので、そこまで請うのならと思い、天界に来てみれば、士官とは名ばかりの馬番を命じられ、そこにいた上司と名乗る天界人に馬鹿にされた。自分を馬鹿にするために天界に呼んだのかと怒った孫悟空を取りなしたのは太上老君だった。
太上老君が天界の者と掛け合うと、今度こそ本当に重要な仕事を孫悟空に任せると言われ、命じられたのが蟠桃園の見張り番だった。孫悟空はこれが、本当に斉天大聖孫悟空の名にふさわしい仕事なのだろうかと、首をかしげつつも真面目に見張り番に2日目に、孫悟空はおかしな侵入者を見つけた。辺り一面に広がる桃園の中で一番古い木の陰に頭を羽衣で隠した若い天女が蹲って隠れていたのだ。天界の者でも隠れんぼをして遊ぶのかと思いながら声をかけると、パッと振り向いた天女と目が合った孫悟空は、その天女の美しさに息を呑んだ。
少女からようやく抜け出たような、蕾から今まさに花が綻ぶような初々しい美しさが、まるで彼女自身からにじみ出ているように孫悟空は感じた。天女の髪の色は、まるで蜂蜜で出来ているのではないかと思えるような透明感のある琥珀色だった。天界の天女は、きちんと髪を結っている者ばかりだったが、彼女はまるで起き抜けであるかのように何も結わず、腰まである豊かな髪が多少乱れていた。それでも美しさは少しも損なわれていなかった。
細い眉も長いまつげも髪よりもやや濃い色の琥珀色だった。大きく丸い目は花果山にいるリスの持つ丸ドングリみたいに大きい。その瞳は萌える緑色をしていて、まるで蟠桃園の若葉の色にそっくりだった。瞳だけは大きいが、その小さな顔に相応しい小さな形の良い鼻に小さめの耳が、あるべき場所にバランス良くあり、肌の色は他の天女よりも真っ白く、肌理が細かそうな肌だった。そこへきて、頬は薄い桜色だった。桃色珊瑚のような色合いを持つ、艶やかな美しい小さな唇は、とても愛らしかった。
背は孫悟空よりも拳二個分くらい低い天女は、長い袖から見える手の指先も細くて、さらに小さい桜貝のような爪がチラリと見えた。その体格は小柄なのにメリハリがあり、思わず二度見してしまうぐらいに魅力溢れる体型だった。みずみずしい若さが弾けるような印象を受ける。天界に来て、わずかながらに他の天女達を遠目で見てきた孫悟空は、天界人が美しいのは理解していたが、ここまでの美しさを持つ天女に会ったのは初めてでつい、凝視してしまった。
天女は、その美しい顔を真っ赤にして歪めた途端、泣き顔になったかと思ったら、いきなり泣き始めた。ワンワンとその美しい姿からは想像も出来なかった子どものようなマジ泣きに、孫悟空は引きつった。どうやって泣き止ませたらいいだろうと焦っていると、誰かを探す男の声が聞こえてきた。
「春香天女ー、どこですかー!春香天女-?」
声が聞こえた途端、天女は泣くのをピタッとやめて、カタカタ震えながら羽衣で顔を隠したのを見て、どうやら天女は声の主から逃げているのだと察した孫悟空は、自分の分身を一体作って、それを春香天女に化けさせた。
「いいか、俺がいいというまで、そこで大人しくしてな」
そう言って桃の古木に仙術をかけて、天女の姿が見えないように目眩ましをかけた。孫悟空は天女に化けさせた分身に、男の声が聞こえる方とは反対の方角に行くように指示をした。しばらくして、声の主である男がやってきた。
「春香天女-、どこですか-?贈り物があるんです!それに美味しい果実酒もありますよー!しゅん……げ!陸の悪魔か!?なんでお前がここにいる!行儀見習いか?」
「なんだ。竜王の所の馬鹿甥か。俺は天界に是非にと請われて、ここで働いているんだよ。行儀見習いは、お前の方だろ?聞いたぞ、お前、竜宮で不実な恋愛ばかりに嵌まって騒動を起こしまくったらしいな。東海のおっさんがあちこちで嘆いているらしいぞ」
「あれは思春期特有の大人の恋に引かれたって奴さ!今は違う!もうあんな馬鹿なことはしないさ!私には彼女がいる!真実の愛を見つけたんだ!そうだ、お前、春香天女を見なかったか?私の逆鱗で作った媚薬の残りを売った金で、彼女に高価な櫛を買ったんだ!きっと今度こそ彼女は喜んでくれる!」
「俺は春香天女という天女を知らない」
「ふん、お前は粗暴な猿だからな!繊細な天女は怖がって近寄らないだろうな。……そうだな、ここなら春香天女の匂いが隠れてしまうから、ここに彼女は逃げたかと思ったんだが、ここにお前がいるなら彼女は怖がって、ここにはこないだろうな……」
「失礼だな!お前だって見境ない常時発情期の蛇だって天界中で嫌われてるらしいぞ!」
「ふん!もてない男のひがみを聞くほど私は暇じゃないんでね。お前は、本当に女を見なかったか?」
「ああ、女なら、俺を見て慌ててあっちに逃げていったな」
悟空は自身の分身がいる方角を教えた。竜王の甥は、礼も言わずに立ち去った。暫くして孫悟空が目眩ましの術を解くと、天女は深く感謝の礼をしてきた。顔を上げた天女は感謝の気持ちで瞳をキラキラと輝かせている。天界の女人は確かに粗暴な猿にあまりいい顔をすることがなかったので、ここまで感謝されると少々、気恥ずかしさを感じた孫悟空は、照れくさいからと天女に礼を止めさせた。天女は自分は春香天女と名乗り、蟠桃園の桃で、酒を造る仕事をしていると言った。
「どうやって酒を造るんだ?」
すると春香天女は恥ずかしそうにしながら酒の作り方を孫悟空に教えてくれた。天界の酒は地上の酒とは作り方が若干異なるという。天界では、天界に生まれた天女の中で、生まれたときに果実のような甘い匂いを放って生まれてきた者が酒造りの巫女になるというのだ。甘い匂いを放って生まれてきた子は、その生まれた季節の名を付けられて、母親の母乳を飲まなくなった頃から、口に入れるのは決められた果実や花蜜のみで、それらを一生涯食べ続けることを定められる。そして自身の食した物を使っての口噛み酒を造る。巫女達が作る酒には、その酒を作った巫女の名前がつけられて、天界の各季節の祝宴で振る舞われる。
「うげっ!けったいな酒を天界では作るんだな!?」
「……そうでしょ?実は私もそう思ってるの」
とにかく恥ずかしくても、それは芳香を放つ天女として生まれた者の定め故、やらねばならない。生まれもって芳香を持つ者は、他者との肉体的な交わりを行うと、芳香が消えてしまうため、一生涯、処女であらねばならないとされている。だが最近、天界にやってきた竜人が春香天女を見初めて、自分の本妻になってくれと言い寄ってきて、彼女はすごく困っていると話した。
「何度も説明をして、お断りをしているのですが聞き入れてくれなくて……」
自身の言葉だけでは説明が足りないかと、酒造りの先輩の天女達に相談し、彼女達からも話をしてもらっても通じない。四六時中付きまとわれ、昨夜は夜這いまでされてしまい、慌ててここまで走り逃げてきて、一晩中隠れていたのだと春香天女は打ち明けた。それを聞き、ならば朝飯はまだだろうと思った孫悟空は、手弁当の甘藷と水が入った竹筒を春香天女に差し出した。
「これは甘藷と言って、地上で取れる甘い芋だ。水は水簾洞の清水で、どちらも旨いぞ。甘露は聞いた果実と甘さは変わらないし、肉では無いから酒の味も変わらないと思うぞ」
春香天女は孫悟空に礼を言って、甘藷を食べ出した。果物以外の初めての味だと言って、春香天女はとても喜んだ。春香天女は手弁当をくれた礼だと言って、蟠桃園の桃を孫悟空に一つ手渡した。
「いいのかい?俺は桃を食べるなと言われていたんだが?」
「私が食べる分は、いつでも許されているんです」
ニッコリ微笑んだ春香天女は人差し指を唇に当てた。私達だけの内緒です!……と小声でつぶやいて。それならと孫悟空が桃をそのまま食べようとしたら、春香天女に慌てて止められた。
「桃は産毛がありますし、今食べるなら剥きますから、少し待っててもらえますか?」
「え?……あ、ああ」
春香天女は懐から小刀を出してきて、桃の皮をクルクルと、あっという間に剥いてくれた。彼女が剥いてくれた桃は、とても甘かった。彼女の親切を嬉しく思った孫悟空は、食べられない種でさえ捨てる気になれず、そっと懐紙に包んで、自分の袂にしまい込んだ。
「あ……ありがとよ。ごちそうさん、美味かったよ」
春香天女は孫悟空が桃を食べ終わるまで嬉しそうに孫悟空を見ていたが、孫悟空が食べ終わると憂鬱そうにため息を吐いた。孫悟空が、どうしたのかと春香天女に尋ねると、あの竜人は素行が悪すぎて、あと7日間したら海に戻るのが決まっているのだが、それまで逃げ回れるか不安だと春香天女は言った。
あまりにしつこく言い寄られるので、酒造りの先輩の天女達にも、仕事の邪魔になるから7日間は仕事に来るなと言われていると、しょげている春香天女を見て、それならばと孫悟空は、ある提案をした。
「それで俺は、俺が仙術の修行をしているときに偶然見つけた遠い東の島国の隠れ里に、彼女を匿うことにしたんです」
そこは人里から離れた山深い所だった。山深い所に、一面の桃の木が広がる不思議な場所。ここなら甘い匂いの天女がいても、わからない。そこに隠れ住んでいたのは、その島国の王位継承の争いの混乱に乗じて逃げ出した元第一王太子と、護衛官の家族だった。仙術の修行をしているときに、筋斗雲に乗る楽しさで、ついつい遠出をしてしまった猿の姿の孫悟空を見ても畏れることもなく、面白そうに話しかけてくる変わった男が元第一王太子であると知ったときは驚いたが、猿の化生を畏れない人間なら、甘い匂いを放つ天女も畏れないだろうと思い、その男に7日間だけ春香天女を預かってもらうことにしたのだ。竜人が海に帰ったら、迎えに来ると約束して……。
「でも俺は、その次の日に天界の役人が俺の悪口を言っているのに腹を立ててしまって……」
その提案に乗った天女を隠れ里に連れて行った次の日。あの馬鹿な竜から身を守るために隠れることにした春香天女のことを心配させてはならないだろうと思った孫悟空は、彼女の先輩だけには居場所を伝えておこうと考えて、天界の官庁を訪れた所、偶然、天界人達が自分の悪口を言っているのを聞いてしまった。
『仙術の天才である孫悟空の力を恐れた天帝の命により、孫悟空を見張るために、ここでくだらない仕事をさせていると知らずに、真面目に仕事をしている馬鹿な猿だ!あの猿は死ぬのが怖くて不老長寿を目指して仙人になったらしい。本当に愚かな猿め!不老長寿の妙薬は、お前が見張る蟠桃園の桃が元になっているとも知らず、一口も食べるなという厳命を真面目に守り、地上のつまらない芋を手弁当にして、己の夢が叶う桃をボウッと守っているのだからな!』
それを聞いた孫悟空の頭から天女のことは消えてしまった。怒りの感情のままに蟠桃園の桃を食い散らかした孫悟空は天界の中を暴れ回って、そして天帝に宣誓布告して戦が始まり……、その後、孫悟空は釈迦如来に敗れて500年間、罰を受けていたのだ。
「俺は約束を忘れて、春香天女を迎えにいかなかったんです」
その後の春香天女がどうなったか、孫悟空も他の天界人達も誰も知らない。天界では行方不明となった彼女の残した酒を幻の銘酒と呼ぶようになった。でも春香族と呼ばれる一族は、17年前まで存在していたのは、確かなことだった。
「春香天女に執着していた海の王は500年近く経っても、彼女を忘れなかったのでしょう。白蘭の匂いに、かすかに春香天女を感じた海の王は白蘭に愛を囁き、寵妃にしたけれど、初夜を終えた彼女からは匂いが消えてしまっていた。白蘭はとても美しい人間の女人だったそうですが、彼女を知る者達からの聞き取りや資料や記録簿、姿絵などを比較しても、俺の知る春香天女と白蘭は容姿が似ていない。海の王は途端に、ただの人間となった白蘭への恋慕は一夜にして消え失せてしまったのでしょう。それでも、またあの芳香を放つかもしれないと考えて、海の王は彼女を後宮に留め置いた。白蘭は一夜だけの契りで子を宿しました。でも不幸なことに子を出産した時に、大量の出血により白蘭は命を落とし、赤ん坊は一瞬だけ芳香を放って産声を上げたそうです」




