第八話 呼びかける声
夜の空気は、昼よりも少しだけ正直だった。
昼間の若草荘には、洗濯物の匂いや、子どもの声や、出入りする足音がある。古さも傷みも、そのにぎやかさの中では少しだけ目立たなくなる。けれど夜になると、建物は隠していたものを静かに見せる。壁の薄い染み、階段の錆び、雨どいの奥に残った詰まり。人の気配が減るぶんだけ、そういうものの存在がよくわかった。
その夜は、蒸していた。
昼間は晴れていたのに、日が落ちてから空気が重くなった。風はほとんどなく、若草荘のまわりに湿気だけがたまっている。ユイは階段の下で目を覚ました。眠っていたわけではない。目を閉じていただけだ。毛布の上に体を丸めていても、地面の熱がまだ少し残っている。
二〇一号室の明かりは、まだついていなかった。
真帆は夜勤の日だった。夕方に出ていって、帰るのはたいてい明け方か、朝に近い時間になる。ユイはそれを知っている。帰りの遅い足音も、疲れた匂いも、もう覚えていた。
一〇三号室からは、美空の声が少し前まで聞こえていたが、今は静かだ。寝たのだろう。二〇三号室では相馬がまだ起きているらしく、窓の開け閉めする音がした。一〇二号室は暗い。けれど人のいる匂いはある。片岡は最近、完全に気配を消すことが少なくなった。
夜が深くなるにつれて、若草荘はさらに静かになった。
遠くでバイクの音がして、また消える。どこかの家のエアコンの室外機が低く唸る。ユイは耳を立てたまま、目を閉じていた。
そのとき、一〇二号室の中で、何かが落ちる音がした。
小さな音ではなかった。硬いものが床に当たって、少し遅れて何かが倒れるような音。ユイはすぐに目を開けた。頭を上げ、一〇二号室のほうを見る。中の気配が乱れている。人が急に動いた匂い。息の浅くなる匂い。汗の匂い。
ユイは立ち上がった。
一〇二号室のドアの前まで行き、鼻先を近づける。中で、かすかなうめき声がした。ユイは耳を伏せ、それから一歩下がる。もう一度、ドアの前へ行く。中の気配は落ち着かないままだった。
ユイは低く鳴いた。
普段ほとんど声を出さない犬の、小さな、短い声だった。けれど夜の若草荘では、それだけで十分目立った。
二〇三号室の窓が開く音がした。
「……何」
相馬の声だった。眠ってはいなかったらしい。ユイは一〇二号室の前から動かない。もう一度、今度は少し強く鳴く。
「え」
相馬の足音がする。二階の廊下を急いで下りてきて、一階の一〇二号室の前で止まる。ユイがドアの前にいる。相馬は眉をひそめた。
「どうした」
犬に聞いても仕方がない。けれどユイは相馬を見て、それからまたドアを見る。中から、何かを押し殺すような息の音がした。
相馬はドアを軽く叩いた。
「片岡さん?」
返事はない。もう一度叩く。
「片岡さん、大丈夫ですか」
今度は、かすかに何かが動く音がした。けれど返事にはならない。相馬の顔つきが変わる。ドアノブを回す。鍵はかかっていた。
「……まじか」
相馬は一瞬だけ迷った。それから二〇一号室を見上げる。真帆はいない。三浦を呼ぶべきかとも思ったが、この時間にすぐ来られるかわからない。救急車、という言葉が頭をよぎる。けれどそこまでなのか判断がつかない。
ユイがまた鳴いた。
今度はさっきよりはっきりした声だった。短く、切るような声。相馬はその音に背中を押されるみたいに、スマホを取り出した。
一一九番を押す指が、少しだけ汗ばんでいた。
呼び出し音のあと、落ち着いた声が出る。相馬は住所を言い、アパート名を言い、一〇二号室の住人が中で倒れているかもしれないこと、返事がないことを伝えた。自分でも驚くほど、声はちゃんと出た。途中で一度だけ言葉に詰まったが、相手の声が急かさなかったので、何とか最後まで話せた。
「意識はありますか」
「わかりません」
「呼びかけに反応は」
「ほとんどないです」
「呼吸音は聞こえますか」
「……たぶん、少し」
「救急隊を向かわせます。可能なら引き続き声をかけてください」
電話を切ると、相馬は一度だけ深く息を吸った。ユイはまだドアの前にいる。
「片岡さん、救急車呼びました」
返事はない。けれど中で、かすかに何かが動いた気配がした。相馬はもう一度ドアを叩く。
「聞こえてますか。今、来ますから」
その声は、自分に言い聞かせているようでもあった。
数分後、一〇三号室のドアが開いた。
早苗だった。寝巻きの上にカーディガンを羽織り、眠そうな顔のまま廊下に出てきたが、一階のただならない空気にすぐ気づいた。
「どうしたんですか」
「片岡さんが」
「え」
「中で倒れてるかもしれなくて、救急車呼びました」
「真帆さんは」
「夜勤です」
「そう……」
早苗は階段を下りてきた。ユイが一〇二号室の前にいるのを見て、少しだけ息をのむ。
「何かできることありますか」
「……わからないです」
「美空、起きちゃうかも」
「すみません」
「いや、そういうことじゃ」
早苗はそう言って、ドアの前に立った。中へ向かって声をかける。
「片岡さん、早苗です。聞こえますか」
女の声のほうが届くこともあるかもしれないと思ったのかもしれない。返事はなかった。けれど、さっきより少しだけ、呼吸の音が近く感じられた。
遠くでサイレンが鳴り始めた。
夜の住宅街では、その音は思ったより早く近づいてくる。相馬は門の外へ出て、手を上げた。救急車が若草荘の前で止まる。赤い光が古い外壁を照らし、壁の染みまで一瞬だけ鮮やかに浮かび上がらせた。
救急隊員が二人、すぐに降りてくる。
状況を聞かれ、相馬が説明する。住所、部屋番号、返事がないこと、さっき物音がしたこと。隊員のひとりがドアを叩き、呼びかける。もうひとりは器具を準備する。やがて三浦も、連絡を受けたのか軽トラックで駆けつけた。寝間着の上に上着だけ羽織っている。
「どうなってる」
「中で倒れてるかもしれないって」
「鍵は」
「あります」
三浦は管理用の鍵束を取り出した。手が少し荒く震えている。鍵穴に差し込み、回す。古い錠前が重く鳴って開いた。
ドアの向こうから、こもった熱気が流れ出た。
部屋の中は暗かった。救急隊員がライトを向ける。片岡はベッドの脇に座りこむように倒れていた。完全に意識を失ってはいないらしく、呼びかけにわずかに反応する。床には空のペットボトルと、倒れたマグカップ。エアコンはついていなかった。
「熱中症の可能性ありますね」
「搬送します」
隊員たちの声は早いが落ち着いていた。片岡は担架に乗せられるとき、うっすら目を開けた。焦点の合わない目が、ドアの外にいる相馬のほうを一瞬だけ見た気がした。
「……すみません」
かすれた声だった。相馬は首を振る。
「いいです」
それしか言えなかった。
救急車が出ていくまで、若草荘の前には赤い光が回っていた。美空は途中で起きてしまったらしく、一〇三号室のドアの隙間から不安そうにのぞいていた。早苗が肩を抱いて中へ戻す。真帆はいない。こういうときに限って、いちばんいてほしい人がいないのだと、相馬は思った。
三浦は救急車を見送ったあと、しばらく門の前に立っていた。
「……暑さか」
「たぶん」
「エアコンつけてなかったみたいです」
「電気代気にしたか」
三浦は苦い顔をした。相馬は何も言わない。言えることがなかった。
「おまえ、呼んだのか」
「はい」
「そうか」
三浦はそれだけ言った。褒めるでもなく、責めるでもなく、ただ事実として受け取る声だった。けれど相馬には、その「そうか」が少し重く、少しだけ救いにも聞こえた。
一〇二号室のドアは開いたままだった。
救急隊が出入りしたあとで、部屋の中の空気が少し入れ替わっている。三浦は中を見て、窓を少し開けた。相馬も手伝う。床に落ちたマグカップを起こし、倒れたペットボトルを片づける。勝手に触っていいのか迷ったが、そのままにしておくほうがひどい気がした。
ユイは敷居の外に座っていた。
中には入らない。ただ、じっと見ている。相馬はその横顔を見て、小さく言った。
「おまえが鳴かなかったら、気づかなかったかもな」
ユイは答えない。耳だけが少し動いた。
夜がさらに深くなって、ようやく若草荘は静けさを取り戻した。
一〇三号室では、美空を寝かしつける早苗の低い声がする。二〇三号室では相馬が窓を閉める音がした。三浦は一〇二号室の鍵をかけ直し、明日病院へ連絡すると言って帰っていった。
真帆が帰ってきたのは、空が少し白み始めたころだった。
門をくぐった瞬間、空気の違いに気づいたらしい。ユイが階段の下から出てくる。真帆はしゃがみこみかけて、すぐに一〇二号室のほうを見た。ドアの前の空気が、いつもと違う。
「何かあった?」
二〇三号室のドアが開き、相馬が顔を出した。たぶんほとんど眠っていない。
「片岡さん、運ばれました」
「え」
「夜、倒れて」
「大丈夫なんですか」
「意識はあったみたいです。熱中症かもって」
「……そっか」
真帆はしばらく何も言わなかった。夜勤明けの顔に、疲れとは別の影が落ちる。自分がいなかったことを責めているのかもしれない。相馬はそれを見て、少しだけ言い足した。
「ユイが気づいたんです」
「ユイが?」
「珍しく鳴いて」
「……そうなんだ」
真帆はユイを見る。ユイはただ見上げているだけだ。
「それで、相馬さんが呼んだの?」
「はい」
「すごいね」
「いや」
「すごいよ」
真帆はそう言って、少しだけ笑った。無理に明るくした笑いではなく、ちゃんと相馬に向けたものだった。
「片岡さん、助かるといいね」
「はい」
その返事は短かったが、前より少しだけまっすぐだった。
朝の光が、若草荘の壁を薄く照らし始める。夜のあいだだけ強く見えていたものが、また昼の顔に戻っていく。けれど、何もなかったことにはならない。
その夜、若草荘では、誰かが誰かのために声を上げた。
ユイが鳴いたこと。
相馬が救急車を呼んだこと。
早苗が起きてきたこと。
三浦が鍵を開けたこと。
どれかひとつ欠けても、たぶん少し違う夜になっていた。
ユイは階段の下へ戻り、毛布の上に丸くなった。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。
二〇一号室の前で、真帆が小さくつぶやく。
「ありがとう、ユイ」
ユイは目を閉じたまま、ほんの少しだけ耳を動かした。




