第九話 同じ傘の下
夕方の空は、朝の時点ではまだ持ちそうに見えていた。
雲は多かったが、雨の色ではなかった。湿気はあるものの、風も少しあって、若草荘の古い壁や手すりにまとわりつくような重さはない。ユイは階段の下で目を覚まし、鼻先を上げた。洗濯物の匂い、土の匂い、遠くの車の排気の匂い。雨の気配は、まだ薄い。
一〇二号室は静かだった。
片岡は昨夜病院に運ばれた。朝方に真帆が帰ってきて、相馬と少し話し、三浦が病院へ連絡すると言っていた。詳しいことはまだ誰も知らない。ただ、命に別状はないらしい、ということだけが、昼前に三浦の口から短く伝えられた。
「点滴して、今日は戻らんらしい」
「そうですか」
「大事ではないって」
「よかった……」
真帆がそう言って、ほんとうに少しだけ肩の力を抜いたのを、ユイは階段の下から見ていた。相馬は何も言わなかったが、門のほうを見ていた視線が少しだけ下がった。
その日の午後、相馬は面接に出かけた。
紺のスーツに、少しだけくたびれたネクタイ。鏡の前で何度も結び直したのか、結び目がいつもよりきれいだった。二階から下りてくると、真帆がちょうどゴミを出しに出てきたところだった。
「面接ですか」
「はい」
「今日、暑いから気をつけて」
「片岡さんみたいにですか」
「笑えないやつ」
「すみません」
「でも、ほんとに。水分ちゃんと取ってください」
「はい」
真帆は少しだけ笑って、それからユイを見た。
「ユイ、いってらっしゃいって」
「犬に言われても」
「でも見てる」
「見てますね」
相馬はそう言って、階段の下のユイを見た。ユイは顔を上げている。
「……行ってきます」
誰に向けたのか、自分でもはっきりしない声だった。けれど真帆は何も言わず、ただ「いってらっしゃい」と返した。
面接は、悪くなかった。
少なくとも相馬自身はそう思った。手応えがあった、というほどではない。けれど、前みたいに途中で言葉が空回りする感じは少なかった。前職を辞めた理由も、今の空白期間も、少しは自分の言葉で話せた気がする。面接官の反応も、ひどく冷たくはなかった。
駅を出たとき、空気が変わっていた。
風が止み、湿気が一気に濃くなっている。見上げると、雲の色が朝とは違っていた。灰色が低く垂れこめ、遠くで一度だけ雷が鳴る。相馬は足を止めた。
「……まじか」
折りたたみ傘は持っていない。朝は降らないと思った。コンビニで買うか少し迷ったが、駅から若草荘までは歩けない距離ではない。走れば何とかなるかもしれない。そう思って歩き出したとき、ぽつ、と一滴落ちた。
その一滴は、すぐに二滴、三滴になった。
相馬が商店街のアーケードの下へ駆けこんだころには、もう本降りになっていた。夏の夕立だった。空が急に近くなったみたいな雨で、道路の色が一瞬で変わる。屋根を打つ音が大きい。相馬は濡れた前髪をかき上げ、ため息をついた。
「最悪だ」
同じアーケードの下には、何人か雨宿りの人がいた。買い物帰りの主婦、学生、スーツ姿の男。みんな空を見上げて、同じような顔をしている。相馬も壁際に寄り、スマホで雨雲レーダーを見た。しばらくやみそうにない。
そのとき、少し離れたところで聞き覚えのある声がした。
「相馬さん?」
振り向くと、早苗だった。
仕事帰りらしく、肩にバッグをかけ、片手で美空の手を引いている。もう片方の手には大きめの傘。美空はランドセルを背負ったまま、少しだけ濡れていた。
「……どうも」
「雨宿りですか」
「見ればわかるやつですね」
「ですね」
早苗は少し笑った。美空が相馬を見上げる。
「相馬さん、ぬれてる」
「ちょっとな」
「傘ないの?」
「ない」
「なんで?」
「朝、降らないと思ったから」
「だめじゃん」
「だめだったな」
美空は真剣な顔でうなずいた。早苗が空を見上げる。
「これ、しばらくやまなそうですね」
「そうですね」
「若草荘まで帰るんですよね」
「まあ」
「よかったら、駅から一緒に帰ります?」
相馬は一瞬、意味がわからなかった。早苗は傘を少し持ち上げる。大人二人と子ども一人では、十分な大きさとは言えない。相馬はすぐに首を振った。
「いや、さすがに狭いでしょう」
「狭いですけど、ずぶ濡れよりはましです」
「でも」
「相馬さん、こっち」
美空がもう決めたみたいに、傘の端を持ち上げる。相馬は困った顔で早苗を見る。早苗は少しだけ笑った。
「美空を真ん中にします。相馬さんは外側で。肩は濡れると思いますけど」
「……それ、ほとんど濡れるやつじゃないですか」
「頭は守れます」
「現実的ですね」
「現実的です」
相馬は少し迷ってから、「じゃあ、すみません」と言った。
三人で傘に入ると、やはり狭かった。美空が真ん中、早苗が片側、相馬がもう片側。相馬の肩と腕はどうしても傘の外にはみ出す。それでも、雨が直接顔に当たらないだけでだいぶ違った。
歩き出すと、自然に歩幅を合わせることになった。
美空は水たまりを踏みたがるし、早苗はそれを止めるし、相馬はなるべく二人を濡らさないように少し外側へ寄る。たったそれだけのことなのに、一人で歩くときより気を使う。
「まっすぐ歩いて」
「歩いてる」
「歩いてない」
「歩いてるもん」
「傘が揺れるから」
「ごめんなさい」
「素直」
相馬が小さく言うと、美空が見上げる。
「相馬さん、今日どこ行ってたの」
「面接」
「めんせつってなに」
「仕事の話するやつ」
「おしごと決まるの?」
「決まるかもしれないし、決まらないかもしれない」
「ふーん」
「ふーんって」
「むずかしいね」
「そうだな」
早苗が少しだけ笑う。
「美空、そういうときは応援するの」
「じゃあ、がんばって」
「ありがとう」
「決まったら教えてね」
「何で」
「お祝いするから」
「何で」
「何でって、うれしいから」
「……そうか」
相馬は少しだけ言葉に詰まった。子どもにまっすぐ言われると、うまく返せない。
雨は強いままだった。
道路の端を水が流れ、車が通るたびにしぶきが上がる。傘の布を打つ音が近い。早苗は相馬がなるべく濡れないように少し傘を寄せるが、そのぶん自分の肩が濡れる。相馬はそれに気づいて、少し外へずれる。
「いや、そっち濡れます」
「相馬さんも」
「俺はいいです」
「よくないです」
「でも」
「風邪ひかれても困るので」
「何で」
「同じアパートの人だからです」
「……そうですか」
その返事は、相馬自身にも少し意外だった。もっと気の利いたことを言えればよかったのかもしれない。けれど、早苗の言葉はそれで十分だった。
若草荘が見えてきたころには、三人とも少しずつ濡れていた。
門の前には、ユイがいた。
いつもなら階段の下にいる時間なのに、今日は雨の音が気になったのか、軒のぎりぎりのところまで出てきている。三人の姿を見つけると、耳を立てた。
「ユイー!」
美空が声を上げる。早苗が「走らない」と言う前に、美空は門をくぐっていた。相馬がとっさに傘を傾ける。早苗も急いで追う。結局、最後の数歩はみんな少し濡れた。
「ただいま、ユイ!」
「おかえり」
「相馬さんもおかえり」
「……ただいま?」
相馬は自分で言って、少し変な顔をした。早苗が笑う。
「いいんじゃないですか」
「何か変な感じです」
「でも帰ってきたんだし」
「まあ」
「また“まあ”」
「便利なんで」
そのやりとりを聞いていたのか、二〇一号室の窓が開いた。真帆だった。今日は遅番で、まだ出勤前らしい。
「わ、びしょびしょ」
「夕立です」
「見ればわかるやつですね」
「さっきも言われました」
「相馬さん、傘なかったの?」
「なかったです」
「それで一緒に帰ってきたんです」
「へえ」
真帆は少しだけ目を細めて、三人を見た。美空が得意そうに言う。
「同じ傘だったよ」
「そうなんだ」
「せまかった」
「でしょうね」
「でも帰れた」
「よかったね」
ユイは三人の足元を順番に嗅いでいた。濡れた靴、雨の匂い、外の道の匂い。相馬のスーツの裾からは、駅前のアスファルトの匂いがした。
「ユイもぬれてない?」
「大丈夫そう」
「三浦さんの屋根、役立ってるね」
「ほんとだ」
早苗がそう言って、ブルーシートを見た。安っぽい青い屋根は、こういうときにはちゃんと役に立っている。
その夜、相馬は自分の部屋でネクタイを外しながら、夕方のことを思い出していた。
面接のことより、帰り道のことのほうが頭に残っている。美空の「お祝いするから」という声。早苗の「同じアパートの人だからです」という言い方。門の前で「おかえり」と言われたこと。
たったそれだけのことなのに、妙に引っかかる。
若草荘に住んでいても、これまで相馬は、ここを「帰る場所」とはあまり思っていなかった。ただ寝るための部屋がある場所。家賃が安くて、駅から遠すぎない場所。それだけだった。けれど今日、雨の中で同じ傘に入って帰ってきたとき、門の前に犬がいて、窓から真帆が顔を出して、美空が「おかえり」と言った。その一連のことが、少しだけ違う意味を持ってしまった。
一〇三号室では、まだ美空の声がしている。
「相馬さん、ほんとにぬれてたんだよ」
「そう」
「だから入れてあげたの」
「お母さんがでしょ」
「でもわたしも言った」
「そうだね」
「ユイも見てた」
「ユイは見てたね」
二〇一号室では、真帆が出勤の支度をしている音がする。階段の下では、ユイが毛布の上で丸くなっている。
雨はもうやんでいた。
けれど、夕方に濡れた道はまだ乾いていない。若草荘の手すりにも、細い水滴が残っている。そういう半端な濡れ方が、相馬には少しだけ今日の気分に似ていると思えた。何かがはっきり変わったわけではない。けれど、まったく同じでもない。
同じ傘に入る、というのは、思っていたより距離が近い。
肩が触れそうになること。
歩幅を合わせること。
相手が濡れないように少し寄ること。
そういう小さな調整の積み重ねで、ようやく一緒に帰れる。
たぶん、隣人になるというのも、そういうことなのかもしれなかった。
ユイは目を閉じた。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。
二階のどこかで、濡れた傘をたたむ音がした。




