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第十話 階段の下の灯り

その日の朝、若草荘は少しだけ静かだった。


いつもと同じように朝は来ていた。二階の廊下には薄い日差しが差しこみ、古い手すりの錆びた部分だけが妙に赤く見える。壁の染みは乾いて薄くなっていたが、消えたわけではない。階段の下のブルーシートも、朝の光の中ではいっそう安っぽく見えた。けれどユイにとっては、もうそこが自分の寝床だった。


一〇二号室は、まだ空いたままだった。


片岡は病院から戻っていない。三浦の話では、熱中症そのものは軽く済んだが、念のため一日二日は様子を見るらしい。真帆はそれを聞いて「よかった」と言い、相馬は「そうですか」とだけ返した。早苗は美空に「片岡さんは病院で休んでるの」と説明し、美空は「ユイも会いたいかな」と言った。


ユイは朝の匂いの中に、片岡の部屋の不在を感じていた。


人がいない部屋は、すぐにわかる。空気が動かない。音がない。匂いが薄くなる。ドアの向こうに誰かがいるときの、あのわずかな熱のようなものがない。ユイは一〇二号室の前まで行って、少しだけ立ち止まった。それからまた階段の下へ戻る。


二〇一号室のドアが開いた。


真帆だった。今日は日勤らしく、髪をきちんとまとめ、白いスニーカーを履いている。階段を下りる途中でユイを見つけると、少しだけしゃがんだ。


「おはよう」


ユイは顔を上げる。真帆は頭を撫で、それから一〇二号室のほうを見た。


「今日あたり戻れるといいね」


犬に言っても仕方のないことを言うのは、もうこのアパートでは珍しくなかった。ユイは何も答えない。ただ耳を動かす。真帆は立ち上がり、門のほうへ向かったが、途中で振り返った。


「夜、帰るの遅いかも」

 

それもまた、犬に言うことではない。けれどユイはその声を聞いていた。


昼前、相馬が二階から下りてきた。


今日は面接もなく、Tシャツにハーフパンツという気の抜けた格好だった。コンビニへ行くつもりらしい。階段の途中で立ち止まり、下を見た。


「……暗いな」


昼間なのに、階段の下は薄暗かった。建物の向きのせいで、午後になるほど影が濃くなる。ブルーシートがついてからは、なおさらだった。雨よけにはなっているが、そのぶん光も遮っている。


相馬は少しだけ眉をひそめた。ユイはその暗がりの中で丸くなっている。目が慣れていれば見えるが、ぱっと見では気づきにくい。


「夜とか、もっと見えないだろ」


誰に言うでもなくつぶやく。ユイは顔を上げた。相馬は少しだけ気まずそうに視線をそらし、そのままコンビニへ出ていった。


午後、美空が学校から帰ってきた。


門をくぐるなり、いつものように階段の下を見る。けれど今日は少し曇っていて、影が濃い。美空は一瞬だけ立ち止まった。


「あれ、ユイ?」


ユイはそこにいた。けれど暗くて見えにくい。美空は少しだけ不安そうな顔をして、階段の近くまで寄る。


「いた……」


その声に、早苗が「いるでしょ」と言ったが、少しだけ同じ気持ちだったらしい。階段の下をのぞきこみ、眉を寄せる。


「ほんと、暗いね」

「見えなかった」

「ブルーシートで余計かな」

「ユイ、こわくない?」

「犬は暗いの平気じゃない?」

「でも見えないのやだよ」

「そうだね」


早苗はそう言って、少しだけ階段の下を見た。ユイはいつも通り落ち着いているように見える。けれど、見えにくいというだけで、人の気持ちは少しざわつく。


その夕方、三浦が軽トラックでやってきた。


いつものようにぶっきらぼうな顔で降りてきて、建物のまわりを一度見回す。雨どい、壁、手すり。最近は来るたびにどこかを見ている。ユイは階段の下から出てきて、少し離れたところに座った。


「おまえ、そこ暗いだろ」


三浦が言う。ユイは答えない。ちょうどそこへ、相馬がコンビニから戻ってきた。手には小さな袋。三浦とユイを見て、少しだけ足を止める。


「大家さん」

「何だ」

「階段の下、暗いですね」

「見りゃわかる」

「いや、だから」

「だから何だ」

「……灯りとか、つけられないですか」


三浦は相馬を見た。相馬は言ってから少し後悔したような顔をしている。余計なことを言ったかもしれない、という顔だった。けれど三浦は怒らなかった。ただ階段の下を見て、それからブルーシートを見た。


「電源がない」

「じゃあ無理ですか」

「無理とは言ってない」

「そうですか」

「ソーラーのやつならあるかもしれん」

「あるんですか」

「知らん。探せば」


その会話を、二階の廊下から真帆が聞いていた。今日は遅番で、まだ出勤前だったらしい。手すりにもたれ、下を見下ろしている。


「いいですね、灯り」

「おまえもそう思うか」

「思います。夜、ほんと見えにくいし」

「美空ちゃんもさっき言ってました」


一〇三号室のドアが開き、早苗も顔を出した。


「何の話ですか」

「ユイのとこ、暗いから灯りつけられないかって」

「へえ」

「いいですね」

「でも大家さんが嫌がるかと思って」

「何で俺が嫌がる」

「嫌がりそうだから」

「勝手に決めるな」


三浦はそう言ったが、完全には否定しなかった。美空も早苗の後ろから顔を出す。


「ライトつけるの?」

「つけるかもしれない」

「ユイのおうち、ぴかってなる?」

「ぴかっていうほどじゃない」

「でも見える?」

「見えるようにはなるだろ」

「やった」


美空はすぐに喜んだ。三浦はその反応に少しだけ困った顔をしたが、もう後には引けない空気になっていた。


「……ちょっと待ってろ」


そう言って軽トラックの荷台を探り始める。工具箱の奥から、小さな箱が出てきた。前にどこかで使おうとして余ったものらしい。ソーラー式の簡易ライトだった。少し古いが、まだ使えそうだ。


「あるじゃないですか」

「たまたまだ」

「便利ですね」

「便利なんで」


相馬が言うと、真帆が吹き出した。三浦は不機嫌そうな顔をしたが、箱を開けて中身を確かめる。小さなライトと、取り付け用の金具。説明書は少し折れていた。


「これ、どこにつけるんですか」

「日が当たるとこじゃないと充電せん」

「じゃあ上?」

「上だな」


三浦は脚立を持ってきた。相馬が自然にそれを押さえる。真帆は下から見上げ、早苗は美空が近づきすぎないよう肩を抱く。ユイは少し離れたところから、その一連の動きを見ていた。


「そこ、危なくないですか」

「危なくない場所なんかこのアパートにあるか」

「それはそうですけど」

「そうなの?」

「よくない意味でね」


真帆が苦笑する。三浦は脚立に乗り、階段脇の柱の上のほうにライトを取りつけた。日中は太陽光を受け、暗くなると自動で点くタイプらしい。配線はいらない。古い建物には、そのくらい簡単なもののほうが合っていた。


「これでいい」

「もう点くんですか」

「夜になればな」

「楽しみ」

「遊ぶもんじゃないぞ」

「遊ばないよ」

「ほんとか」

「ほんと」


美空はそう言いながら、もう十分楽しそうだった。


夕方が夜に変わるころ、若草荘の空気は少しだけそわそわしていた。


誰も口には出さないが、みんな少し気にしている。真帆は出勤前に一度階段の下を見に来たし、相馬はコンビニへ行くふりをして外へ出たついでに確認した。早苗は美空に「まだ点かないよ」と言いながら、自分も何度か窓からのぞいていた。


そして、空が完全に暗くなったころ。


ふっと、小さな灯りがついた。


強い光ではなかった。白すぎず、黄色すぎない、やわらかな灯りだった。階段の下全体を照らすほどではない。けれどユイの寝床と、そのまわりの地面がちゃんと見える。ブルーシートの青も、毛布の色も、犬の丸い背中も、暗がりの中に浮かび上がった。


「ついた!」


一〇三号室の窓から、美空の声がした。すぐに窓が開く。


「ほんとだ」

「見えるね」

「ユイ、いる!」


二〇一号室の廊下から真帆も顔を出した。出勤前の制服姿のまま、手すりに身を乗り出す。


「わ、いい」

「ちゃんと点いたな」

「三浦さん、すごい」

「すごくはない」

「でも、なんかいいですね」

「まあな」


相馬も二階の廊下に出てきて、下を見た。昼間よりも、夜のほうがその灯りの意味ははっきりした。暗くて見えなかった場所に、ちゃんと「いる」とわかる明るさがある。それだけのことなのに、少し安心する。


ユイは灯りの下で顔を上げた。


まぶしがる様子はない。ただ、いつもと違う明るさを確かめるように、少しだけ目を細める。美空が窓から呼ぶ。


「ユイー!」


ユイは耳を動かした。


「見えた!」

「見えてるよ」

「おうちみたい」

「前からおうちでしょ」

「でも、もっとおうち」


早苗のその言葉に、真帆が少しだけ黙った。相馬も何も言わない。三浦だけが、階段の下の灯りを見ていた。


もっとおうち。


子どもの言葉は、ときどき説明より先に本当のことを言う。雨よけのブルーシートだけだった場所に、灯りがつく。たったそれだけで、そこは少しだけ「寝床」ではなくなる。誰かが気にして、誰かが見えるようにして、誰かが帰ってきたときにそこにいるとわかる場所になる。


真帆は時計を見て、「そろそろ行かなきゃ」と言った。けれど階段を下りる前に、もう一度だけユイを見た。


「いってきます」


ユイは顔を上げる。灯りの下で、その目がちゃんと見えた。


「今日は見えるね」

「前から見えてたろ」

「見えてたけど、違うんです」

「何が」

「ちゃんといるって感じがする」

「……そうか」


三浦はそれだけ言った。けれど否定はしなかった。


夜が深くなっても、灯りは静かについていた。


一〇三号室の窓が閉まり、二〇一号室の明かりが消え、二〇三号室のパソコンの光だけがしばらく残る。若草荘はいつもの夜に戻っていく。けれど階段の下だけは、昨日までと少し違った。


暗い場所に、小さな灯りがある。


それは建物全体から見れば、ほんのわずかな変化だった。雨漏りが直るわけでもない。壁の染みが消えるわけでもない。片岡がすぐ戻るわけでもない。誰かの悩みがなくなるわけでもない。


それでも、そういう小さなことが、暮らしを少しだけ変える。


見えなかったものが見えるようになる。

気にしていたものに、手が入る。

誰かのいる場所が、少しだけはっきりする。


若草荘では、そういう変化が少しずつ増えていた。


ユイは灯りの下で丸くなった。毛布の端に顎をのせ、目を閉じる。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。


夜の静けさの中で、その小さな灯りだけが、階段の下にまだ誰かがいることを知らせていた。


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