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第十一話 救急車を呼ぶ手

片岡が若草荘に戻ってきたのは、昼を少し過ぎたころだった。


軽トラックの音が門の前で止まり、ユイが階段の下から顔を上げる。三浦が運転席から降り、そのあとから片岡がゆっくりと出てきた。病院の帰りらしく、白いビニール袋をひとつ持っている。中には薬か、書類か、その両方かもしれない。顔色はまだよくないが、前に運ばれた夜ほどの危うさはなかった。


「おかえり」


二〇一号室の窓から真帆が声をかけた。今日は夜勤明けで、まだ部屋にいたらしい。片岡は少し驚いたように顔を上げ、それから小さく会釈した。


「……ただいまです」

「大丈夫そうですか」

「たぶん」

「たぶん」

「便利なんで」


二階の廊下にいた相馬が言うと、真帆が吹き出した。片岡も少しだけ笑った。三浦は「笑ってる場合か」と言いながら、一〇二号室の鍵を開ける。


「医者には何て言われた」

「水分とれって」

「当たり前だ」

「あと、ちゃんと食べろって」

「それも当たり前だ」

「……はい」


片岡は怒られているのに、前より少しだけ素直だった。病院で点滴を受けて、少しだけ体の中の時間が戻ったのかもしれない。


ユイは一〇二号室の前まで歩いていき、片岡の足元で止まった。片岡はそれを見下ろし、少しだけしゃがむ。


「ただいま、ユイ」


ユイは耳を動かした。片岡はその反応を見て、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


その日の若草荘は、どこか気をつかう空気に包まれていた。


誰も大げさにはしない。けれど、みんな少しずつ片岡の様子を見ている。真帆は二階の廊下から何度か一〇二号室の前を見たし、相馬はコンビニへ行くついでにスポーツドリンクを一本多く買ってきた。早苗は夕方、美空に「今日は静かにね」と言い、美空は「片岡さん、ねてるの?」と小声で聞いた。


「休んでるの」

「じゃあ、ユイも静かにする?」

「ユイはもともと静か」

「そっか」


美空は納得したような、していないような顔でうなずいた。


夕方、真帆は出勤前に一〇二号室のドアを軽く叩いた。


「真帆です」

「……はい」


中から返事がある。それだけで少し安心する。真帆はドア越しに言った。


「何かあったら、夜でも呼んでください」

「夜勤じゃないんですか」

「今日は夜勤です」

「じゃあ、いないじゃないですか」

「いないですけど」

「……変なこと言いますね」

「言いましたね」


ドアの向こうで、片岡が少し笑った気配がした。真帆もつられて笑う。


「じゃあ、相馬さんでも、早苗さんでも、三浦さんでも。とにかく誰か呼んでください」

「はい」

「水分、ちゃんと取って」

「はい」

「食べて」

「はい」

「エアコンつけて」

「……はい」

「ほんとに?」

「たぶん」

「そこは便利にしないでください」


真帆はそう言って、少しだけ安心した顔で階段を下りた。ユイがその足元を見上げる。


「見ててね、ユイ」


犬に頼んでも仕方がない。けれど真帆はそう言って出勤していった。


夜になると、昼間の気づかいは少しずつそれぞれの部屋へ戻っていった。


一〇三号室では、美空が学校の話をしている。二〇三号室では、相馬がパソコンに向かっているらしく、キーボードを打つ音がときどき聞こえる。一〇二号室は静かだが、完全な無音ではない。人のいる気配がある。ユイは階段の下の灯りの中で丸くなり、その気配を聞いていた。


夜の空気は、少し蒸していた。


昼間ほどではないが、風が弱い。古い建物は熱をためこみやすい。階段の下の灯りは静かについていて、ユイの背中をやわらかく照らしている。


二二時を過ぎたころ、二〇三号室のドアが開いた。


相馬だった。コンビニへ行くつもりらしく、Tシャツの上に薄いパーカーを羽織っている。階段を下りる途中で、ふと一〇二号室の前を見た。ドアの下から、明かりが漏れていない。


「寝たのかな」


小さくつぶやく。ユイは顔を上げた。相馬はそのまま門のほうへ向かいかけて、少しだけ立ち止まった。何となく気になったのかもしれない。けれど、ドアを叩くほどではない。相馬はそのまま外へ出た。


コンビニから戻ってきたのは、十五分ほどあとだった。


袋の中には缶コーヒーとおにぎり、それからスポーツドリンクが一本入っている。片岡のことを思い出して、つい手に取ったのかもしれない。門をくぐると、ユイが階段の下から出てきた。


「何だよ」


相馬が言う。ユイは一〇二号室のほうを見る。相馬もつられてそちらを見る。ドアは閉まっている。明かりはついていない。けれど、何かが少し違う気がした。


静かすぎる。


相馬は眉をひそめた。ユイは一〇二号室の前まで歩いていき、そこで止まる。相馬も近づく。


「片岡さん?」


返事はない。


相馬は袋を持ったまま、ドアを軽く叩いた。


「片岡さん、大丈夫ですか」


返事はない。ユイが低く鳴く。前に聞いたのと同じ声だった。短く、切るような声。相馬の背中に、あの夜の感覚が戻る。


「……まじか」


もう一度、今度は少し強く叩く。


「片岡さん!」


中で、何かが擦れるような音がした。返事ではない。けれど完全な無反応でもない。相馬は一瞬だけ迷う。救急車を呼ぶほどなのか。前回のように倒れているのか。ただ眠っているだけではないのか。判断がつかない。


そのとき、一〇三号室のドアが開いた。


早苗だった。まだ起きていたらしい。相馬とユイが一〇二号室の前にいるのを見て、すぐに顔つきが変わる。


「どうしました」

「返事がなくて」

「また?」

「わからないです」

「片岡さん?」

 

早苗もドア越しに呼びかける。返事はない。中で、かすかな息の音のようなものがした気もする。早苗は相馬を見る。


「どうします」

「……呼んだほうがいいですかね」

「前もそうだったんですよね」

「はい」

「じゃあ、呼んだほうがいいと思います」


その言葉で、相馬の迷いは少しだけ形を失った。スマホを取り出す。前回より、指は震えなかった。番号を押し、住所を言い、状況を説明する。片岡が数日前にも熱中症で搬送されたこと、今日戻ってきたばかりであること、今また反応が薄いこと。


電話を切ると、早苗が小さく息を吐いた。


「来ますか」

「来ます」

「よかった」

「よかった、でいいのかな」

「呼ばないよりは」


相馬はうなずいた。ユイはまだドアの前にいる。


救急車が来るまでの数分が、妙に長かった。


早苗は一〇三号室に戻って、美空が起きないよう窓を閉めた。相馬は一〇二号室の前で、何度か声をかけた。


「片岡さん、救急車呼びました」

「聞こえてますか」

「今、来ますから」


返事はない。けれど、完全な沈黙ではない。中に人がいて、苦しそうにしている気配だけがある。


遠くでサイレンが鳴り始めた。


その音に気づいたのか、二〇一号室の窓が開いた。真帆ではない。空室のはずの窓が開くわけもない。相馬は一瞬だけ変な気分になって、それから、真帆がいないことを改めて思い出した。こういうとき、あの人ならもっと迷わず動くのだろうか、と。


けれど今ここにいるのは自分だった。


救急車が若草荘の前に止まる。赤い光がまた古い壁を照らす。救急隊員が降りてきて、状況を聞く。相馬は前回より落ち着いて説明できた。早苗も横で補足する。三浦にも連絡が入り、少し遅れて駆けつけた。


「またか」

「すみません」

「おまえが謝るな」


三浦はそう言って鍵束を取り出す。ドアを開ける。中の空気は、前回ほど熱くはなかった。エアコンはついている。けれど片岡は布団の上でぐったりしていて、意識がはっきりしない。薬の袋が枕元に置かれ、水の入ったコップが半分残っていた。


「脱水気味かもしれませんね」

「食事は?」

「わかりません」

「搬送します」


救急隊員の声は落ち着いている。片岡はうっすら目を開けたが、焦点が合わない。担架に乗せられるとき、相馬のほうを見た気がした。


「……また」

「はい」

「また、呼びました」

「……すみません」

「だから、いいです」


相馬は前回と同じことを言った。けれど今度は、少しだけ違う気持ちだった。前はただ必死だった。今は、迷いながらでも、自分で決めて呼んだ。


救急車が出ていったあと、若草荘の前にはしばらく静けさが残った。


三浦は一〇二号室の中を見回し、ため息をついた。


「戻ってきたばっかりでこれか」

「無理してたんですかね」

「たぶんな」

「たぶん多いですね」

「便利なんで」


相馬が言うと、早苗が少しだけ笑った。こんなときに笑うのもどうかと思ったが、笑わないと張りつめたままになってしまう。


「相馬さん」

「はい」

「さっき、すぐ呼べてましたね」

「……前よりは」

「すごいです」

「いや」

「すごいですよ」


相馬は返事をしなかった。けれど、その「すごい」は前より少しだけ受け取れた。


三浦が一〇二号室の鍵を閉める。ユイはその様子を少し離れたところから見ていた。灯りの下で、犬の影が小さく伸びている。


「おまえ、また気づいたのか」


三浦が言う。ユイは答えない。相馬がその横顔を見る。


「たぶん」

「便利に使うな」

「便利なんで」


三浦は鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わなかった。


真帆がそのことを知ったのは、翌朝だった。


夜勤明けで帰ってきたとき、門の前の空気で何かを察したらしい。相馬が二階から下りてきて、昨夜のことを話す。真帆は途中で何度か目を伏せたが、最後まで黙って聞いた。


「また運ばれたんだ」

「はい」

「今度は相馬さんが?」

「はい」

「……そっか」


真帆は少しだけ息を吐いた。疲れているはずなのに、その顔には別の疲れも混じっていた。


「ありがとう」

「いや」

「ありがとう、でいいんだよ」

「でも」

「呼ぶのって、簡単じゃないから」

「……そうですか」

「そうだよ」


真帆はそう言って、少しだけ笑った。


「前より、ちゃんと隣人ですね」

「何ですか、それ」

「褒めてる」

「変な褒め方」

「でもほんと」


相馬は何も言わなかった。ユイが階段の下から二人を見ている。朝の光の中で、昨夜の赤いサイレンの名残はもうどこにもない。けれど、何もなかったことにはならない。


誰かの異変に気づくこと。

迷いながらも声を上げること。

大丈夫かどうかわからない相手のために、救急車を呼ぶこと。


それは大げさな英雄的行為ではない。むしろ、できれば一生やりたくない種類のことだ。間違っていたらどうしよう、迷惑だったらどうしよう、考えすぎだったらどうしよう。そういうためらいが、必ず先に来る。


それでも呼ぶ。


その手は、少しずつ隣人の手になっていくのかもしれなかった。


ユイは灯りの消えた朝の階段の下で丸くなった。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。


二〇一号室へ上がる途中、真帆が小さく言う。


「助ける理由って、あとからつくのかもね」


相馬はその言葉に返事をしなかった。けれど、少しだけ立ち止まってから、また階段を上がった。


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