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第十二話 おかえりのない夜

真帆が倒れたのは、夕方だった。


その日は朝から暑かった。空はよく晴れていたのに、風がほとんどなく、若草荘の古い壁は昼の熱をそのままためこんでいた。二階の廊下の手すりに触れると、金属がまだぬるい。階段の下の灯りは昼間は消えているが、その場所だけ影が濃く、ユイはそこでじっとしていた。


真帆は日勤のあと、そのまま遅番の人と少し交代して帰ってくるはずだった。


最近、勤務が詰まっているらしいことは、住人たちもなんとなく知っていた。夜勤明けの日にまた出ていくこともあったし、帰ってきても部屋の明かりがすぐ消える日が増えていた。けれど本人はいつも「大丈夫です」と笑っていた。笑っている人に、それ以上踏みこむのは難しい。


夕方、若草荘の門の前で、自転車のブレーキがきしんだ。


ユイが顔を上げる。真帆だった。制服のまま、肩からバッグを下げている。けれどいつもと違って、門をくぐったところで一度立ち止まった。自転車を降りる動きが少し遅い。鍵を外す手も、どこか頼りない。


ユイは階段の下から出てきた。


真帆はそれに気づいて、少しだけ笑おうとした。


「ただいま、ユイ」


声がかすれていた。ユイは耳を動かす。真帆は自転車を押して階段の横まで来たが、そこでふらついた。バッグが肩からずれ、片手で手すりをつかむ。けれど支えきれない。膝が折れるみたいに、その場にしゃがみこみかける。


ちょうどそのとき、二〇三号室から相馬が下りてきた。


コンビニへ行くつもりだったのか、財布だけ持っている。階段の途中で真帆の様子に気づき、足を止めた。


「……真帆さん?」


真帆は返事をしようとしたが、うまく声にならなかった。相馬は一気に階段を下りる。


「大丈夫ですか」

「……ちょっと」

「ちょっとじゃないですよね」

「うん」

「立てますか」

「たぶん」

「たぶん多いですね」


そう言いながらも、相馬の声は少し強ばっていた。真帆は笑おうとしたが、うまくいかない。手すりをつかんだまま、顔色が悪い。汗もひどい。


一〇三号室のドアが開いた。


早苗だった。美空を迎えに行く支度をしていたらしく、バッグを持っている。階段の下の空気を見て、すぐに顔つきが変わった。


「どうしたんですか」

「真帆さんが」

「え」

「ちょっとじゃないです」

「ちょっとじゃないです」


真帆が自分で繰り返して、少しだけ苦しそうに笑った。その笑い方が、かえって危なかった。


早苗はすぐに階段を下りてきた。


「真帆さん、座れますか」

「もう座ってる」

「そうですね」

「すみません」

「謝らないでください」


早苗はしゃがみこみ、真帆の顔を見る。熱があるのか、顔が赤い。けれど唇は少し白い。相馬はどうしていいかわからず、立ったまま真帆のバッグを持っていた。


「水、あります?」

「部屋に……」

「鍵は」

「ここ」


真帆はポケットから鍵を出そうとして、うまくつかめなかった。相馬が受け取る。早苗が言う。


「相馬さん、部屋開けてもらえますか」

「はい」

「エアコンつけて、水持ってきてください」

「はい」


相馬は二〇一号室へ駆け上がった。鍵を開ける。部屋の中はむっとしていた。昼の熱がこもっている。相馬はエアコンのスイッチを入れ、キッチンでコップを探し、水を入れる。冷蔵庫を開けると、スポーツドリンクが一本入っていた。それも持つ。


下では、早苗が真帆の背中を支えていた。


「呼吸、苦しいですか」

「ちょっと」

「気持ち悪い?」

「少し」

「病院、行ったほうがいいかも」

「やだ」

「やだじゃないです」

「寝れば治る」

「治らない顔してます」

「ひどい」

「今はひどく言います」


真帆はまた笑おうとして、今度はうまく笑えなかった。相馬が水を持って戻ってくる。早苗が受け取り、少しずつ飲ませようとするが、真帆は一口飲んで顔をしかめた。


「だめ」

「飲めないですか」

「気持ち悪い」

「……救急車、呼びます」

「大げさ」

「大げさじゃないです」


早苗の声は静かだったが、迷いがなかった。相馬がすぐにスマホを取り出す。もう番号を押す手は覚えている。住所も、アパート名も、説明の順番も。


「女性が帰宅後にふらついて座りこんで、顔色が悪くて、水分も取れません」

「意識はありますか」

「あります」

「呼吸は」

「ありますけど、少し苦しそうです」

「救急隊を向かわせます。涼しい場所で安静にしてください」


電話を切ると、相馬は少しだけ息を吐いた。早苗がうなずく。


「ありがとうございます」

「いや」

「真帆さん、救急車来ます」

「……やだな」

「あとで文句言ってください」

「言う」

「聞きます」


そのやりとりのあいだ、ユイは少し離れたところからじっと見ていた。吠えもしない。ただ、いつもと違う空気を見ている。


救急車はすぐに来た。


赤い光が若草荘の壁を照らす。最近よく見る光だった。けれど、今夜は少し違って見えた。運ばれるのが片岡ではなく、真帆だからかもしれない。いつも誰かを気にかけていた人が、今は担架に乗せられている。


真帆は救急隊員に名前を聞かれ、勤務先を聞かれ、症状を聞かれ、途中で少しだけ目を閉じた。相馬と早苗がわかる範囲で補足する。過労かもしれないこと、最近勤務が詰まっていたこと、帰ってきてすぐ倒れそうになったこと。


「搬送します」

「……すみません」

「だから謝らないでください」


早苗が言う。真帆は担架の上で、少しだけ目を開けた。相馬のほうを見る。


「部屋……」

「閉めます」

「洗濯……」

「知りません」

「ひどい」

「あとで聞きます」

「……うん」


それが最後のやりとりだった。救急車のドアが閉まり、赤い光が遠ざかっていく。


若草荘の前に残ったのは、急に広くなった静けさだった。


早苗はしばらく門の前に立っていた。相馬も隣にいる。ユイは階段の下へ戻らず、まだそこにいた。


「……行っちゃいましたね」

「はい」

「大丈夫だといいですけど」

「大丈夫じゃないから運ばれたんですよね」

「そうですね」


二人とも、何を言っても少しずれる気がした。


そのとき、美空が帰ってきた。


学童からの帰りらしく、近所の子と別れて門の前まで走ってくる。けれど、いつもと違う空気にすぐ気づいた。


「お母さん?」

「いるよ」

「どこ」

「部屋」

「真帆さんは?」

「病院」

「え」


美空は目を丸くした。早苗はしゃがんで目線を合わせる。


「ちょっと具合悪くなって、病院で休んでるの」

「だいじょうぶ?」

「たぶん」

「たぶん多い」

「そうだね」


美空は少し考えてから、階段の下のユイを見る。


「ユイ、見てた?」

 

ユイは耳を動かした。


「見てたね」

「うん」

「じゃあ、だいじょうぶかな」

「……そうだといいね」


早苗はそう言って、美空の手を引いた。


その夜、若草荘は妙に静かだった。


二〇一号室の明かりがつかない。それだけで、建物の空気が少し違う。真帆の部屋は、いつもなら帰宅後に一度だけ物音がして、マグカップを置く音や、シャワーの音や、窓を開ける音がする。けれど今夜は何もない。


一〇三号室では、美空が何度か「真帆さん、いつ帰るの」と聞いた。早苗は「今日は帰らないかも」と答えた。二〇三号室では、相馬がパソコンを開いたまま、あまり画面を見ていなかった。


階段の下の灯りがつく。


そのやわらかな明るさの中で、ユイは丸くなっていた。けれど、いつもより何度も顔を上げる。門のほうを見る。二〇一号室の窓を見る。誰かを待っているようにも見えた。


相馬はコンビニへ行く気になれず、部屋に戻ったあとも何度か窓から下を見た。真帆がいない、というだけで、こんなに落ち着かないのかと思う。別に毎日長く話すわけではない。特別親しいわけでもない。けれど、あの人がいると、若草荘のどこかにひとつ余分な明るさがある気がしていた。


早苗も同じことを思っていた。


美空を寝かしつけたあと、静かになった部屋で洗い物をしながら、二〇一号室の暗い窓を何度も見てしまう。真帆は、いて当たり前の人ではなかったはずだ。たまたま同じアパートに住んでいるだけの人だ。けれど、困ったときに最初に顔が浮かぶ人になっていた。


その不在は、思ったより大きかった。


夜の十時を過ぎたころ、三浦が軽トラックでやってきた。


連絡を受けたらしい。門の前でエンジンを切り、二〇一号室の暗い窓を見上げる。


「運ばれたって?」

「はい」

「そうか」

「過労かもしれないって」

「……あいつ、無理するからな」


三浦はそれだけ言って、しばらく黙った。大家としての言葉なのか、もっと別の立場の言葉なのか、よくわからない声だった。


「明日、病院に連絡してみる」

「お願いします」

「おまえら、何か聞いてるか」

「何も」

「そうか」


三浦は短くうなずき、帰る前に階段の下の灯りを見た。ユイがその下で丸くなっている。


「おまえも待ってるのか」


ユイは答えない。けれど、門のほうを見たままだった。


その夜、若草荘には「おかえり」がなかった。


誰かが帰ってきて、誰かがそれに気づいて、短くても声をかける。そんな小さなやりとりが、このアパートにはいつのまにか増えていた。だからこそ、それがひとつ欠けるだけで、夜の形が変わる。


真帆がいない。

二〇一号室が暗い。

階段の下のユイが、何度も顔を上げる。


それだけのことが、建物全体を少しだけ心細くする。


ユイは灯りの下で目を閉じた。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。


二〇一号室の暗い窓は、その夜ずっと暗いままだった。


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