第十三話 帰ってきた声
真帆が若草荘に戻ってきたのは、翌日の夕方だった。
門の前にタクシーが止まり、ユイが階段の下から顔を上げる。後部座席からゆっくりと真帆が降りてきた。私服に着替えている。病院の帰りらしく、肩には小さなバッグ、手には白いビニール袋。顔色はまだ少し悪いが、昨日のような危うさはなかった。
「ありがとうございました」
タクシーに頭を下げる声が、少しかすれている。ユイは立ち上がり、門のほうへ歩いていく。真帆はそれに気づいて、少しだけ笑った。
「ただいま、ユイ」
その声を聞いた瞬間、二〇一号室の窓が開いた。
――ではなく、開いたのは一〇三号室だった。美空がいちばん先に気づいたのだ。
「真帆さん!」
窓から身を乗り出しかけて、すぐに早苗に引き戻される。
「危ない」
「でも帰ってきた!」
「見ればわかる」
「ただいまって言ってる!」
「聞こえてる」
早苗も窓のところへ来て、下を見た。真帆と目が合う。
「おかえりなさい」
「ただいまです」
「大丈夫ですか」
「たぶん」
「便利にしないでください」
「じゃあ、ちょっとだけ大丈夫です」
真帆はそう言って笑った。その笑い方が、昨日よりずっといつものものに近くて、早苗は少しだけ肩の力を抜いた。
二〇三号室のドアも開いた。
相馬だった。たぶん部屋にいたのだろう。階段の上から真帆を見下ろし、一瞬だけ何か言いそびれた顔をする。それから、少し遅れて口を開いた。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
「大丈夫ですか」
「昨日よりは」
「それはそうでしょうね」
「そうだね」
真帆は笑う。相馬は階段を下りてきた。何か荷物を持つべきか迷ったのか、真帆の手のビニール袋を見て、それからユイを見る。
「持ちますか」
「軽いから大丈夫」
「そうですか」
「でも気持ちは受け取ります」
「……何ですか、それ」
「いい言葉でしょ」
「便利ですね」
「便利なんで」
そのやりとりに、美空が窓のところで笑った。
真帆はゆっくりと階段を上がった。昨日、自分がふらついた場所を通るとき、少しだけ足を止める。相馬がさりげなく横に立つ。支えるほどではない。ただ、もしまたふらついたら手が届く距離にいる。それだけだった。
二〇一号室の前まで来ると、真帆は鍵を取り出した。
「部屋、閉めてくれてありがとう」
「いや」
「洗濯、知りませんって言われた」
「言いましたね」
「ひどい」
「緊急時だったんで」
「それはそう」
真帆はドアを開ける。中の空気は、昨日よりずっとましだった。相馬がエアコンを切っていってくれたのか、部屋は閉め切られていたが、変な熱気はない。真帆は一歩中へ入って、それから振り返った。
「ほんとにありがとう」
「……はい」
「救急車、呼んでくれて」
「早苗さんもいたんで」
「でも呼んだのは相馬さんでしょ」
「まあ」
「そこ便利にしない」
「はい」
相馬は少しだけ照れたように視線をそらした。
そのころ、一〇三号室では美空が落ち着かなくなっていた。
「行っていい?」
「だめ」
「なんで」
「帰ってきたばっかりだから」
「でもおかえり言いたい」
「さっき言ったでしょ」
「近くで言いたい」
「近くで言う“おかえり”って何」
「近くのやつ」
「雑」
早苗はそう言いながらも、少しだけ笑っていた。美空がそわそわしているのは、自分も同じだからだ。真帆が戻ってきた。それだけで、建物の空気が少し元に戻った気がする。
結局、三十分ほどしてから、早苗は小さなゼリー飲料をひとつ持って二〇一号室を訪ねた。
「これ、食べられそうなら」
「ありがとうございます」
「美空が持っていきたいって」
「わたしがえらんだ」
「そうなんだ」
「りんご味」
「いいね」
「だいじょうぶ?」
「うん、ちょっと休めば」
「ほんと?」
「ほんと」
美空は真帆の顔をじっと見た。子どもは、言葉より先に顔色を見ることがある。真帆はその視線に気づいて、少しだけ背筋を伸ばした。
「昨日、ごめんね」
「なんで」
「びっくりしたでしょ」
「した」
「ごめん」
「でも帰ってきたからいいよ」
「そっか」
「ユイも待ってた」
「うん、ただいまって言った」
「聞いた」
「窓から?」
「うん」
「すごいね」
「すごいでしょ」
美空は得意そうだった。早苗はその横で、少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「無理しないでくださいね」
「はい」
「ほんとに」
「はい」
「仕事、休めるんですか」
「少しだけ」
「少しだけか」
「便利じゃない現実です」
「笑えないやつ」
「ですね」
二人は少しだけ笑った。笑えるくらいには戻ってきた、ということでもあった。
夜になると、若草荘は久しぶりにいつもの音を取り戻した。
二〇一号室で、マグカップを置く小さな音がする。窓が少しだけ開く音もする。真帆はまだ本調子ではないだろう。けれど、その生活音があるだけで違う。相馬は自分の部屋でパソコンを開きながら、何度かその音に耳を向けた。早苗は美空を寝かしつけながら、二〇一号室の明かりがついているのを見ていた。
一〇二号室はまだ空いたままだった。
片岡はもう一晩入院するらしい、と三浦から連絡があった。戻ってくる人もいれば、まだ戻らない人もいる。若草荘の暮らしは、そうやって少しずつずれている。全員が同じ速さでは戻れない。
それでも、その夜は昨日よりずっとましだった。
「おかえり」があったからだ。
誰かが帰ってきて、その声に別の誰かが応える。たったそれだけのことが、建物の輪郭を少しはっきりさせる。ここはただ部屋が並んでいるだけの場所ではなくて、帰ってくる人がいて、それに気づく人がいる場所なのだと、そういうふうに思えてくる。
夜の九時を過ぎたころ、三浦が軽トラックでやってきた。
門の前でエンジンを切り、二〇一号室の明かりを見上げる。ユイが階段の下から出てきた。
「戻ったか」
「戻りましたよ」
二階の廊下から真帆が顔を出した。部屋着に着替えている。三浦は少しだけ目を細めた。
「医者は何て言った」
「休めって」
「当たり前だ」
「あと、ちゃんと食べろって」
「それも当たり前だ」
「みんな同じこと言う」
「同じこと言われるうちは聞いとけ」
「はい」
真帆は素直に返事をした。三浦はそれ以上何も言わず、階段の下の灯りを見た。ユイがその下に戻っていく。
「おまえも安心したか」
ユイは答えない。ただ、いつもより少しだけ落ち着いた足取りで毛布の上に丸くなった。
その夜、若草荘にはまた声が戻っていた。
一〇三号室からは、美空の「真帆さん、りんご味たべたかな」という声。
二〇三号室からは、相馬が窓を閉める音。
二〇一号室からは、マグカップにお湯を注ぐ音。
どれも小さな音だった。けれど昨日の静けさを知ったあとでは、その小ささがかえって確かだった。
不在は、人の形をはっきりさせる。
いつもいると思っていた人がいない夜に、はじめてその人の声や足音や気配の大きさがわかる。そして戻ってきたとき、その人がただそこにいるだけで、建物の空気が少し整う。
真帆は特別なことをしたわけではない。ただ帰ってきただけだ。けれど、その「帰ってきただけ」が、若草荘にはちゃんと意味を持っていた。
ユイは灯りの下で目を閉じた。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。
二〇一号室の窓から、しばらくして小さな声が落ちてくる。
「おやすみ、ユイ」
ユイは目を開けなかった。けれど、耳がほんの少しだけ動いた。




