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第十四話 片岡の留守番電話

片岡から電話がかかってきたのは、翌日の昼だった。


正確には、若草荘に電話がかかってきたわけではない。三浦の携帯に入ったのだ。病院からの帰り道らしく、片岡は少しかすれた声で「今日、戻れそうです」と言ったらしい。三浦は「そうか」とだけ返し、ついでに「今度は倒れる前に言え」と言って、片岡は「はい」と答えたという。


その話を、三浦は夕方になってから若草荘で短く伝えた。


「片岡、今日戻る」

「ほんとですか」

「さっき電話あった」

「よかった」

「よかったですね」


真帆が二〇一号室の前でそう言い、早苗が一〇三号室のドアのところでうなずき、相馬が二階の手すりにもたれて「そうですか」と言った。みんな反応は少しずつ違うのに、言っていることはだいたい同じだった。


ユイは階段の下からその声を聞いていた。


一〇二号室は、ここ数日ずっと静かだった。人のいない部屋の匂いは、日に日に薄くなる。けれど完全に消えるわけではない。片岡の部屋には、まだ片岡の匂いが残っていた。戻ってくる予定のある不在は、空っぽとは少し違う。


「何時ごろですか」

「知らん」

「迎えとかいらないですか」

「病院じゃあるまいし」

「でも荷物とか」

「自分で持てるだろ」

「そうですね」


真帆はそう言ったが、少しだけ気にしている顔だった。相馬も同じだった。早苗は美空に「今日は片岡さん帰ってくるって」と伝え、美空は「おかえりって言う」と言った。


夕方が少しずつ濃くなっていく。


けれど片岡はなかなか帰ってこなかった。日が傾き、階段の下の影が長くなり、やがて灯りがつく時間になっても、一〇二号室の前は静かなままだった。


「遅いですね」

「病院、時間かかるんじゃないですか」

「そうかも」

「それか途中で休んでるとか」

「ありそうですね」


真帆と早苗がそんな話をしている横で、相馬は何も言わなかった。けれど門のほうを見る回数が少し多い。ユイも、いつもより何度か顔を上げていた。


夜の七時を過ぎたころ、三浦がまたやってきた。


軽トラックを降りるなり、少しだけ眉をひそめる。


「まだ戻っとらんのか」

「まだです」

「電話では戻るって」

「何かあったんですかね」

「知らん」


三浦はそう言いながら、自分の携帯を取り出した。片岡に電話をかける。呼び出し音が鳴る。けれど出ない。しばらくして、自動音声に切り替わった。


「出ませんね」

「出ん」

「大丈夫ですか」

「知らんと言っとる」


三浦は少し苛立ったように言ったが、その苛立ちは心配の裏返しでもあった。電話を切ろうとして、ふと止まる。留守番電話サービスにつながっていた。


三浦は一瞬だけ迷った顔をした。


「……何て入れればいいんだ」


そのつぶやきに、真帆が思わず笑いそうになる。けれど笑う場面でもない。相馬が手すりから身を起こす。


「普通でいいんじゃないですか」

「普通って何だ」

「戻るって言って戻ってないぞ、とか」

「それ普通か」

「大家としては」

「大家としては、か」


留守番電話の案内音が鳴る。三浦は少しだけ顔をしかめ、それから低い声で言った。


「三浦だ。戻るって言ってまだ戻っとらん。着いたら連絡しろ。……無理なら無理で、それも言え」


最後の一言だけ、少しだけ声がやわらいだ。録音が終わる。三浦は携帯を耳から離し、何とも言えない顔をした。


「入れられるじゃないですか」

「うるさい」

「でもよかったです」

「何がだ」

「ちゃんと心配してる感じで」

「心配はしとる」

「知ってます」

「なら言うな」


真帆は少しだけ笑った。早苗も口元をゆるめる。三浦は不機嫌そうな顔のまま、門のほうを見た。


そのとき、遠くからゆっくり歩いてくる人影が見えた。


街灯の下を、少しずつ近づいてくる。肩にバッグをかけ、手に白い袋を持っている。歩く速さは遅いが、ふらついてはいない。


「……片岡さん?」


相馬が先に気づいた。みんなの視線がそちらへ向く。片岡だった。


門の前まで来ると、少しだけ息を整える。顔色はまだ白いが、ちゃんと自分の足で帰ってきた顔をしている。


「すみません」

「おまえな」


三浦がすぐに言う。怒鳴るほどではないが、声は低い。


「電話」

「気づかなくて」

「戻るって言っただろ」

「途中で、少し休んでて」

「それなら連絡しろ」

「……はい」


片岡は素直にうなずいた。その様子があまりにも素直で、三浦もそれ以上強く言えなくなる。


真帆が階段を下りてきた。


「おかえりなさい」

「……ただいまです」

「大丈夫ですか」

「たぶん」

「便利にしないでください」

「じゃあ、ちょっと疲れました」

「それはそうでしょうね」


早苗も一〇三号室の前から声をかける。


「おかえりなさい」

「どうも」

「無事でよかったです」

「すみません」

「だから謝らないでください」


美空が早苗の後ろから顔を出す。


「片岡さん!」

「……はい」

「おかえり!」

「ただいま」

「病院こわかった?」

「ちょっと」

「いたかった?」

「少し」

「でも帰ってきたね」

「うん」


片岡はそう言って、ほんの少しだけ笑った。子ども相手だと、返事が短くてもちゃんと会話になる。


相馬は二階から下りてきて、片岡の手の袋を見た。


「持ちますか」

「大丈夫です」

「ほんとに?」

「軽いんで」

「便利ですね」

「便利なんで」


片岡が言うと、今度は相馬が少し笑った。前なら、こんな返しはしなかったかもしれない。


三浦はまだ少し不機嫌そうだったが、片岡の顔を見て、結局ため息をついた。


「部屋、開けるぞ」

「はい」

「今度から遅れるなら連絡しろ」

「はい」

「倒れそうならその前に言え」

「はい」

「“はい”ばっかりだな」

「……はい」


その返事に、真帆が吹き出した。早苗も笑う。片岡も困ったように口元をゆるめた。三浦だけが「何がおかしい」と言いながら、少しだけ肩の力を抜いていた。


一〇二号室の鍵が開く。


片岡はドアの前で一度だけ立ち止まり、それから中へ入った。数日ぶりの自分の部屋だ。空気は少しこもっているだろうし、静かすぎるかもしれない。けれど、帰る場所ではある。


ユイが足元まで来る。


片岡はしゃがみこみ、犬の頭をそっと撫でた。


「ただいま」


ユイは耳を動かした。灯りの下で、その仕草がよく見えた。


その夜、若草荘にはまたひとつ、戻ってきた気配が増えた。


一〇二号室に明かりがつく。

窓が少しだけ開く。

中でコップを置く音がする。

人のいる部屋の匂いが、また廊下ににじむ。


それだけのことなのに、建物の空気が少し変わる。空いていた席に誰かが戻ってきたみたいに、見えない隙間が埋まる。


夕食のあと、真帆は二〇一号室の前から一〇二号室へ小さく声をかけた。


「何か足りないものあったら言ってくださいね」

「はい」

「食べられそうですか」

「少しなら」

「ゼリーとかありますよ」

「……じゃあ、ひとつだけ」

「はい」


そのやりとりを、相馬が二階の廊下から聞いていた。早苗も一〇三号室の窓を少し開けて、何となく気配を聞いている。誰も見張っているつもりはない。ただ、戻ってきた人の声がちゃんとあることを、少し確認したいだけだった。


三浦は帰る前に、もう一度だけ携帯を見た。


「留守電、消しとけよ」

「え」

「残ってるだろ」

「たぶん」

「たぶんじゃない」

「聞いてみます」

「聞かんでいい」

「でも」

「恥ずかしいだろ」

「大家さんが?」

「うるさい」


片岡は少しだけ笑った。その笑い方は、前よりずっと自然だった。


留守番電話というのは、不思議なものだ。


相手が出ないときに残す声。

今ここにいない相手に向けて、あとで届くように置いていく言葉。

それは少し間抜けでもあり、少し切実でもある。直接言えないぶんだけ、気持ちが変に残る。


三浦の留守番電話も、たぶんそうだった。


戻るって言って戻っていないことを怒っていて、でも無理なら無理で言え、と最後に付け足す。その順番が、いかにも三浦らしかった。


若草荘では、心配の仕方も人それぞれだ。


真帆はすぐ声をかける。

早苗は静かに様子を見る。

相馬は迷いながらも動く。

三浦は怒ったみたいな声で気にかける。

美空はまっすぐ「おかえり」と言う。

ユイは何も言わず、ただそこにいる。


その全部が、少しずつこの建物の空気をつくっていた。


ユイは階段の下の灯りの中で丸くなった。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。


一〇二号室の中で、しばらくしてから小さく再生音が鳴った。

たぶん、片岡が留守番電話を聞いたのだろう。


そのあとで、ほんの少しだけ笑うような気配がした。


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