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第十五話 回覧板の名前

その日の午後、三浦はめずらしく紙の束を持って若草荘に現れた。


軽トラックから降りるときも、いつもの工具箱ではなく、茶色いクリアファイルを脇に抱えている。ユイは階段の下の灯りの消えた影の中から顔を上げた。紙の匂いは、木や土や洗剤の匂いとは違う。少し乾いていて、少しだけ古い匂いがする。


「何ですか、それ」


二〇一号室の前で洗濯物を取りこんでいた真帆が気づいて声をかけた。三浦は面倒そうな顔でファイルを持ち上げる。


「回覧板だ」

「回覧板」

「町内会の」

「まだあるんですね」

「あるだろ」

「あるんだ……」


真帆は少しだけ感心したように言った。今どき珍しい、という顔だった。三浦は「珍しがるな」と言いながら、階段の手すりにファイルを軽く当てる。


「今月から回すことになった」

「今まで回してなかったんですか」

「前は空き部屋も多かったし、面倒でやめてた」

「正直」

「正直で悪いか」

「悪くないです」


そのやりとりを、一〇三号室の窓から美空が聞いていた。


「かいらんばんってなに?」

「順番に回すやつ」

「なにを?」

「紙を」

「なんで?」

「……なんでだろうね」


早苗が少し困ったように答える。説明しようとすると意外と難しい。町内会のお知らせ、ゴミ出しの注意、防災訓練の日程、夏祭りの案内。そういうものを、順番に読んで次の人へ渡す仕組み。けれど子どもに言うと、たしかに「なんで紙を回すのか」は少し不思議だった。


三浦は一階の共用ポストの上にファイルを置いた。


透明な表紙の下に、何枚かのプリントが見える。町内清掃のお知らせ、防災訓練、資源ごみの出し方、夏祭りの手伝い募集。どれも、若草荘の住人たちが積極的に参加しそうには見えない内容だった。


「順番どうするんですか」

「部屋番号順でいいだろ」

「一〇二、一〇三、二〇一、二〇三?」

「そうだ」

「二〇二は」

「空きだ」

「そうでした」


真帆はうなずいた。片岡、早苗、真帆、相馬。たしかにその順番が自然だ。けれど三浦は、そこで少しだけ言いにくそうな顔をした。


「で、名前を書く欄がある」

「はい」

「読んだら印でもいいんだが、できれば名前」

「へえ」

「誰が見たかわかるように」

「まあ、そうですよね」


真帆はそこで、ふと表情を変えた。若草荘の住人たちは、互いの顔は知っていても、フルネームまでは知らないことが多い。名字だけで呼び合っているし、そもそも呼び合う機会も多くなかった。


「……名前、並ぶんですね」

「並ぶな」

「ちょっと変な感じ」

「何がだ」

「いや、なんか」

「今さら?」


二階の廊下から相馬が下りてきた。話を聞いていたらしい。Tシャツに短パンのまま、手すりに寄りかかる。


「確かに、名字しか知らないです」

「おまえら、そんなもんか」

「そんなもんですよ」

「片岡さんの下の名前、知らないかも」

「俺も知らないです」

「早苗さんは?」

「早苗さんは、早苗さんって感じだから」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味です」


早苗が一〇三号室から出てきて、少しだけ笑った。美空も後ろからついてくる。


「わたし、知ってるよ」

「何を?」

「お母さんの名前」

「それはそう」

「真帆さんの名前も知ってる」

「なんで?」

「お母さんが言ってた」

「何て?」

「真帆さん」

「それ下の名前じゃない?」

「そうだよ」

「名字は?」

「……しらない」

「でしょ」


美空は少し悔しそうな顔をした。


そのとき、一〇二号室のドアが開いた。


片岡だった。まだ本調子ではないのか、部屋着のままだが、顔色は前よりよくなっている。廊下に人が集まっているのを見て、少しだけ足を止めた。


「……何か」

「回覧板です」

「町内会の」

「名前書く欄があるんですって」

「名前」


片岡はその言葉を繰り返した。三浦がファイルを差し出す。


「おまえからだ。一〇二だから」

「はい」


片岡は受け取る。透明な表紙の下にある紙を見て、それから確認欄を見る。そこには、部屋番号と名前を書くための空白が並んでいた。


一〇二 ____

一〇三 ____

二〇一 ____

二〇三 ____


片岡は少しだけ黙った。


「どうしました?」

「いや」

「名前、書きにくいですか」

「……久しぶりで」

「何がですか」

「こういうのに、自分の名前書くの」


その言い方が少し意外で、みんな一瞬だけ黙った。片岡は気まずそうに視線を落とす。


「会社辞めてから、あんまり書いてなくて」

「ああ」

「病院の書類くらいで」

「それはちょっとわかるかも」


相馬が小さく言った。就職活動中の今、名前を書く機会はあっても、それはたいてい審査されるための名前だ。生活の中で、ただ「ここに住んでいます」と示すために書く名前とは少し違う。


真帆がやわらかく言う。


「でも、住人欄に書く名前って、ちょっといいですね」

「いいですか」

「なんか、ちゃんと住んでる感じがする」

「……そうかも」


早苗もうなずいた。


「わかります。宅配便の伝票とか、保育園の書類とかは、ただの手続きですけど」

「はい」

「こういうのって、“ここにいます”って書く感じがある」

「ここにいます、か」

「変ですか」

「いや」

「ちょっとわかります」


三浦はその会話を黙って聞いていたが、照れくさくなったのか、ぶっきらぼうに言った。


「大げさだな、ただの回覧板だ」

「でも名前は名前ですよ」

「そうですけど」

「大家さんも書くんですか」

「何で俺が」

「確認した人として」

「書かん」

「逃げた」

「逃げてない」


真帆が笑う。三浦は不機嫌そうな顔をしたが、完全には否定しなかった。


片岡は部屋に戻ってペンを取ってきた。ファイルをポストの上に置き、少しだけ姿勢を正す。みんなが見ているのが気になるのか、「そんな見なくていいです」と小さく言ったが、美空だけは興味津々でのぞきこんでいる。


「書くの?」

「書きます」

「なんて?」

「名前」

「しってる」

「そう」

「でも見たい」

「だめです」

「なんで」

「恥ずかしいから」

「なんで?」

「……なんでだろうな」


片岡は少し困ったように笑って、それから欄に名前を書いた。


一〇二 片岡 恒一


「へえ」


真帆が思わず声を出す。片岡は少しだけ肩をすくめた。


「へえ、って何ですか」

「いや、恒一さんなんだって」

「そうですけど」

「片岡さんって感じだったから」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味です」

「さっきと同じですね」


相馬が言う。早苗も少し笑った。


「恒一さん、って感じですね」

「どっちですか」

「どっちもです」

「便利ですね」

「便利なんで」


その流れで、一〇三号室の欄も早苗が書くことになった。


一〇三 高橋 早苗


「高橋さんなんですね」

「言ってませんでしたっけ」

「聞いてなかったです」

「私も」

「美空は?」

「みそら・たかはし!」

「フルネーム言えた」

「言えるよ」


美空は得意そうだった。


続いて真帆が書く。


二〇一 藤沢 真帆


「藤沢さん」

「そうです」

「真帆さんって感じが強かった」

「それ、さっきから何なんですか」

「雰囲気です」

「雑」


最後に相馬がペンを受け取る。少しだけ迷ってから書いた。


二〇三 相馬 恒一


一瞬、空気が止まった。


「え」

「え」

「え」


真帆と早苗と美空が、順番に声を出した。片岡も少しだけ目を上げる。相馬は嫌な予感がして、自分の書いた字を見た。


片岡 恒一

相馬 恒一


「……同じだ」

「同じですね」

「同じだね」

「おなじ!」


美空がいちばん喜んだ。相馬は少しだけ顔をしかめる。


「まじか」

「まじか、ですね」

「知らなかった」

「俺も今、ちょっと変な感じです」

「恒一さんが二人」

「ややこしいですね」

「呼ぶときどうする?」

「今まで通り片岡さんと相馬さんでいいでしょ」

「それはそう」


真帆が笑う。片岡も少しだけ笑っていた。自分と同じ名前の人が、同じアパートの二階に住んでいた。そんなことを、回覧板の紙一枚で知る。


「すごいね」

「何が」

「名前、おそろい」

「おそろいって言うのかな」

「言うよ」

「そうか」

「じゃあ、なかよし?」

「それは別問題です」

「なんで」

「なんでだろうな」


相馬が言うと、片岡が少しだけ吹き出した。前なら、こんなふうに同じ場で笑うことはなかったかもしれない。


回覧板はそのあと、順番に回ることになった。


片岡が読み、早苗に渡し、早苗が真帆に渡し、真帆が相馬に渡す。たったそれだけのことだ。けれど、その紙にはもう、四人の名前が並んでいる。


名字だけではなく、下の名前まで。

ただの住人ではなく、それぞれの名前として。


夜、階段の下の灯りがつくころ、ユイはいつもの場所で丸くなっていた。


ポストの上には、次の部屋へ渡される前の回覧板が置かれている。透明な表紙の下に、四つの名前が見える。紙の上に並んだ文字は、声よりも少し静かで、でも消えにくい。


若草荘では、これまで互いの気配を先に知っていた。


足音。

咳払い。

洗濯物の匂い。

帰ってくる時間。

ドアの開け方。

そういうもので、「誰か」を知っていた。


けれど名前は、少し遅れてやってくる。


そして名前を知ると、その人は少しだけ輪郭を持つ。今までと同じ顔、同じ声、同じ部屋なのに、名前があるだけで少し違って見える。


片岡は恒一で、

相馬も恒一で、

早苗は高橋で、

真帆は藤沢だった。


そんな当たり前のことが、回覧板の紙一枚で急に現実になる。


三浦は帰り際に、ポストの上の回覧板を見て小さく鼻を鳴らした。


「ちゃんと書いたな」

「書きましたよ」

「当たり前だ」

「大家さんも書けばよかったのに」

「書かん」

「逃げた」

「だから逃げてない」


真帆がまた笑う。三浦は不機嫌そうな顔のまま軽トラックに戻ったが、その足取りは少しだけゆるんでいた。


ユイは灯りの下で目を閉じた。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。


ポストの上の回覧板が、夜風にあおられて、かすかに紙の音を立てた。


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