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第十六話 夏祭りの紙

回覧板は、思ったよりちゃんと回った。


一〇二号室から一〇三号室へ、一〇三号室から二〇一号室へ、二〇一号室から二〇三号室へ。途中でどこかに置きっぱなしになるかもしれない、と三浦は少し思っていたが、そうはならなかった。ポストの上に置かれた茶色いクリアファイルは、そのたびに少しずつ位置を変え、最後にはちゃんと三浦の手元へ戻ってきた。


「えらい」


三浦がそう言うと、真帆が笑った。


「誰目線ですか」

「大家目線だ」

「偉そう」

「大家だからな」

「それはそう」


その日の夕方、三浦は回覧板の中身を確認しながら、最後の一枚で手を止めた。


町内会の夏祭りのお知らせだった。


近くの公園で開かれる、小さな地域の祭り。盆踊り、屋台、子ども向けのくじ引き、町内会の焼きそば。毎年やっているらしいが、若草荘の住人たちが参加していた気配はあまりない。けれど今年は、回覧板の紙がちゃんと住人たちの手を通ったせいか、その一枚だけ少し存在感があった。


「夏祭りか」


三浦がつぶやく。ユイは階段の下から顔を上げた。紙の匂いと一緒に、夕方の湿った風が流れてくる。


ちょうどそのとき、一〇三号室から美空が出てきた。


「なつまつり?」


耳ざとく聞きつけたらしい。早苗が後ろから「勝手に出ない」と言いながら追ってくる。美空はもう三浦の持っている紙を見上げていた。


「おまつりあるの?」

「あるらしい」

「いきたい!」

「早い」

「まだ何も言ってない」

「でも行きたい」

「そうだろうね」


早苗は苦笑した。美空の目はもう完全に祭りの目になっている。屋台も盆踊りも、まだ紙の上にしかないのに、頭の中ではもう始まっているのだろう。


真帆も二〇一号室から顔を出した。


「夏祭り?」

「町内会の」

「へえ」

「近くの公園だって」

「いいですね」

「いいのか」

「美空ちゃん好きそう」

「好きです!」


美空が即答する。相馬も二階の廊下に出てきて、手すり越しに紙をのぞいた。


「祭りですか」

「興味なさそうな顔」

「いや、ありますよ」

「ほんとに?」

「屋台はちょっと」

「ちょっとあるんだ」

「焼きそばとか」

「具体的」


片岡も一〇二号室のドアを少し開けて、外の声を聞いていた。まだ完全には元気ではないが、最近はこうして廊下の気配に混ざることが増えた。


「いつですか」

「今度の土曜」

「もうすぐですね」

「そうだな」


三浦は紙を見ながら答える。そこには日時と場所、それから小さく「町内会役員・手伝い募集」と書いてあった。


真帆がそこに気づく。


「あ、手伝い募集」

「見るな」

「見えますよ」

「見なかったことにしろ」

「大家さん、逃げます?」

「逃げん」

「でも嫌そう」

「嫌だ」

「正直」


早苗が笑う。相馬も少しだけ口元をゆるめた。


「でも、こういうのって誰か出るんですか」

「町内会の人がやるんだろ」

「三浦さんも町内会ですよね」

「まあな」

「じゃあ出るんですか」

「……たぶん」

「便利ですね」

「便利なんで」


その返しに、今度は片岡が小さく笑った。


夏祭りの紙は、その日から若草荘の空気に少しだけ居座ることになった。


美空は何度も「あと何日?」と聞いた。早苗はカレンダーを見せて説明し、そのたびに「まだ」と言った。真帆は「浴衣あるの?」と聞き、美空は「ある!」と答えたが、去年着られたものが今年も着られるかは怪しかった。相馬は「人多いですかね」と言い、片岡は「多そうですね」と返した。


ユイには祭りの意味はわからない。けれど、住人たちの声が少し浮き立っていることはわかる。楽しみにしている匂いは、少しだけ落ち着かない。


翌日、夕方の涼しくなりかけたころ、早苗は一〇三号室の前で美空に浴衣を着せてみていた。


「腕、上げて」

「こう?」

「そう」

「きつい?」

「……ちょっと短い」

「え」

「去年より大きくなったから」

「やった」

「やったじゃない」

「なんで?」

「新しいの考えないと」

「かわいいのがいい」

「知ってる」


そのやりとりを、真帆が廊下から見ていた。


「見せていいですか」

「どうぞ」

「かわいい」

「でも丈が」

「ほんとだ、ちょっと足りない」

「ですよね」

「でも美空ちゃん、似合う」

「にあう?」

「似合うよ」

「やった」


美空はすぐ機嫌を直した。子どもは「似合う」でだいたい立ち直る。


相馬が二階からその様子を見て、少しだけ言う。


「祭り、行くんですね」

「行きますよ」

「相馬さんは?」

「……どうしようかな」

「行けばいいのに」

「一人で?」

「一人じゃなくても」

「誰とですか」

「若草荘で」

「団体行動みたいですね」

「嫌ですか」

「嫌ではないですけど」

「じゃあ決まり」

「決まってないです」


真帆は楽しそうに言う。相馬は困ったような顔をしたが、完全には否定しなかった。


片岡は一〇二号室の前で、その会話を聞いていた。


「片岡さんも行きます?」

「人多いの、ちょっと」

「ですよね」

「でも、少しなら」

「少しなら行きましょうよ」

「少しなら」

「便利ですね」

「便利なんで」


真帆が笑う。片岡も少しだけ笑った。


その夜、三浦は軽トラックの荷台に何かを積んでやってきた。


段ボール箱がいくつかある。真帆が気づいて声をかける。


「何ですか、それ」

「祭りの提灯」

「え」

「町内会の倉庫にあったやつ」

「大家さん、手伝うんですか」

「手伝うことになった」

「逃げられなかった」

「うるさい」


箱の中には、折りたたまれた赤白の提灯が入っていた。紙と針金の匂いがする。美空が目を輝かせる。


「ちょうちん!」

「触るなよ」

「なんで」

「壊れる」

「こわさないよ」

「ほんとか」

「ほんと」


その「ほんと」はだいたい信用ならない。早苗がすぐに美空の肩を引いた。


「見るだけ」

「はーい」

「返事が軽い」

「軽くないよ」


三浦は箱を抱え直しながら、少しだけ住人たちを見た。


「土曜の夕方からだ」

「はい」

「行くなら勝手に行け」

「はい」

「迷子になるな」

「誰がですか」

「全員だ」

「雑ですね」


真帆が笑う。相馬も少しだけ笑った。片岡は「迷いそうですね」と小さく言った。


祭りというのは、不思議な力がある。


まだ始まってもいないのに、人の会話を少し変える。何を着るか、何を食べるか、行くか行かないか、誰と行くか。普段なら話さないようなことが、紙一枚をきっかけに少しずつ口に出る。


若草荘でも、それは同じだった。


いつもなら「おはよう」と「おかえり」と、せいぜい天気の話くらいで終わるところに、「祭り行きます?」が混ざる。たったそれだけで、会話の先が少し伸びる。


夜、階段の下の灯りがつく。


ユイはその下で丸くなりながら、上から落ちてくる声を聞いていた。


一〇三号室では、美空が「わたあめあるかな」と言っている。

二〇一号室では、真帆が「焼きそばは絶対ある」と答えている。

二〇三号室では、相馬がスマホで祭りの場所を調べているらしい。

一〇二号室では、片岡が静かに窓を開けた。


まだ何も始まっていない。

けれど、始まる前の気配だけが、もう建物の中に入ってきていた。


夏祭りの紙は、ただのお知らせではなかった。


それは、若草荘の住人たちに「同じ時間に同じ場所へ行くかもしれない」という予定を持ちこんだ。今までは、同じ建物に住んでいても、それぞれ別の時間を生きていた。仕事の時間も、帰宅の時間も、休みの日も違う。けれど祭りの日だけは、少しだけ時間が重なる。


その重なりを、みんなまだうまく言葉にできないでいる。


でも、美空だけは違った。


寝る前に窓から階段の下を見て、ユイに向かって言う。


「ユイもおまつり行く?」


ユイは目を閉じたままだった。けれど耳だけは立っていた。


たぶん行かない。

でも、その問いかけがあるだけで、祭りはもう若草荘の中に半分来ているのだった。


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