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第十七話 浴衣の裾と焼きそばの匂い

土曜日の夕方、若草荘はいつもより少しだけ落ち着かなかった。


昼間の暑さがまだ壁に残っている。けれど日が傾きはじめると、風の匂いが少し変わる。遠くから、祭りの準備の音も聞こえてきた。金属の台を組む音、マイクの試し声、子どもたちのはしゃぐ声。近くの公園で開かれる町内会の夏祭りは、まだ始まっていないのに、もう町の空気を少し変えていた。


階段の下では、ユイがいつもの場所で丸くなっていた。


灯りはまだついていない。けれど、上の部屋から落ちてくる気配がいつもと違う。ドアの開け閉めが多い。足音も少し急いでいる。洗面所の水の音、引き出しを開ける音、誰かが「それどこ?」と言う声。ユイは目を閉じたまま、その落ち着かなさを聞いていた。


いちばん先に支度を始めたのは、一〇三号室だった。


「じっとして」

「してる」

「してない」

「してるもん」

「回らない」

「ちょっとだけ」

「だめ」


早苗の声と、美空の声が交互に聞こえる。しばらくしてドアが開き、美空が飛び出してきた。去年の浴衣は丈が足りなかったので、今年は甚平になったらしい。白地に小さな金魚の柄。髪は左右で少しだけ結ばれている。


「見て!」


誰に向けたのかわからない声だったが、ちょうど二〇一号室のドアが開いた。真帆が出てくる。薄い紺色のワンピースに、髪をいつもより少しだけまとめている。浴衣ではないが、いつもより少しだけ祭りの顔だった。


「かわいい」

「ほんと?」

「ほんと」

「金魚だよ」

「見ればわかる」

「わかるようにしてるの」

「えらい」


美空は満足そうだった。早苗もそのあとから出てくる。淡い色のブラウスにロングスカート。こちらも浴衣ではない。動きやすさ優先なのだろう。


「浴衣じゃないんですね」

「着る余裕がなかったです」

「わかります」

「真帆さんも」

「私も無理でした」

「仲間」

「仲間です」


その会話に、二〇三号室のドアが開く。


相馬だった。黒っぽいシャツに、いつもより少しだけましなパンツ。祭りだからといって特別おしゃれをしたわけではないが、部屋着ではない、くらいの気合いはある。


真帆がすぐに気づく。


「ちゃんとしてる」

「何ですか、その言い方」

「祭り行く人の格好してる」

「行くんで」

「ほんとに来るんだ」

「来ますよ」

「疑ってた」

「ひどい」

「でもちょっとだけ」

「ちょっとだけならいいです」


相馬はそう言いながら、少しだけ落ち着かない顔をしていた。こういう場所に行くのは久しぶりなのかもしれない。


一〇二号室のドアも、少し遅れて開いた。


片岡だった。白いシャツに、黒っぽいズボン。いちばん無難で、いちばん片岡らしい格好だった。まだ体調を気にしているのか、手には小さなペットボトルを持っている。


「片岡さんも行くんですね」

「少しだけ」

「便利ですね」

「便利なんで」


真帆が笑う。片岡も少しだけ笑った。


こうして見ると、若草荘の住人たちが同じ時間に同じ方向を向いているのは、やはり少し不思議だった。普段はそれぞれ別の部屋で、別の仕事や事情を抱えて暮らしている人たちが、今日は「祭りに行く」というだけで廊下に並んでいる。


「じゃあ、行きますか」

「団体行動だ」

「大家さんみたいなこと言わないでください」

「大家さんも来るんじゃないですか」

「手伝いで先に行ってるって」

「ほんとに手伝うんだ」

「逃げられなかったんでしょうね」


真帆が言うと、早苗が笑った。


公園までは歩いて十分もかからない。


夕方の道には、同じ方向へ向かう人が少しずつ増えていた。子どもは浴衣や甚平、大人は普段着のままの人も多い。遠くから、焼きそばのソースの匂いが流れてくる。まだ会場に着いていないのに、その匂いだけで祭りの輪郭が見える気がした。


美空は最初こそ早苗の手を引いていたが、すぐに前へ出たがる。


「走らない」

「走ってない」

「早歩き」

「だめ?」

「だめじゃないけど、転ぶ」

「転ばない」

「浴衣じゃなくてよかったね」

「じんべいだもん」

「そうだね」


真帆がその横を歩きながら、少しだけ笑う。相馬と片岡は少し後ろを歩いていた。


「人、多そうですね」

「ですね」

「帰りたくなったら帰っていいですからね」

「何で俺に言うんですか」

「言いそうだから」

「言いませんよ」

「ほんとに?」

「……少しは思うかもしれないですけど」

「正直」

「便利なんで」

「便利に使いすぎです」


片岡が小さく笑った。


公園に着くと、思ったよりちゃんと祭りだった。


提灯が何本も下がり、中央には小さなやぐらが組まれている。端には焼きそば、たこ焼き、かき氷、フランクフルト、くじ引き。町内会の人たちが忙しそうに動き回り、子どもたちはもう走っている。スピーカーからは少し古い盆踊りの音楽が流れていた。


「わあ……」


美空が立ち止まる。目の前の全部を一度に見ようとして、少しだけ口が開いている。早苗がその肩に手を置いた。


「はぐれないでね」

「うん」

「ほんとに?」

「ほんと」

「今日の“ほんと”は信用できない」

「できるよ」


真帆が笑う。相馬は会場を見回して、少しだけ目を細めた。


「思ったよりちゃんとしてる」

「失礼ですね」

「いや、町内会の祭りってもっとこう」

「しょぼいと思ってた?」

「言ってないです」

「顔に書いてある」

「書いてないです」


そのとき、焼きそば屋台の向こうから三浦の声が飛んできた。


「おまえら、来たのか」


見ると、三浦がエプロン姿で鉄板の前に立っていた。頭にタオルまで巻いている。あまりにも似合っていて、真帆が吹き出した。


「似合う」

「笑うな」

「いや、でも」

「手伝いだ」

「焼いてる」

「見りゃわかる」

「大家さん、焼きそば屋さんみたい」

「町内会だ」


三浦は不機嫌そうだったが、鉄板の上の焼きそばを返す手つきは妙に慣れていた。ソースの匂いが強く立ちのぼる。美空の目がさらに丸くなる。


「たべたい」

「早い」

「でも食べたい」

「それはそう」


早苗が財布を出しかけると、三浦が顎で横を指した。


「先にくじ引きでも行っとけ。今は混む」

「指示が的確」

「現場だからな」

「何の現場ですか」

「焼きそばの現場だ」


真帆はまた笑った。


美空はくじ引きの屋台へまっすぐ向かった。早苗がついていく。真帆も「私も行こう」と言って一緒に行った。相馬と片岡は少し遅れて歩く。


「こういうの、久しぶりです」

「祭り?」

「はい」

「俺もです」

「何か、思ったより」

「何ですか」

「悪くないですね」

「そうですね」


片岡のその返事は、前より少しだけ自然だった。


くじ引きの屋台では、美空が真剣な顔でひもを選んでいた。


「これ!」

「ほんとにそれでいいの?」

「いい」

「あとで違うって言わない?」

「言わない」

「ほんとに?」

「ほんと」


引いた先についていたのは、小さな光るブレスレットだった。美空は一瞬だけ微妙な顔をしたが、すぐに腕につけてもらって機嫌を直した。


「ひかった!」

「よかったね」

「うん!」


子どもの気持ちは切り替えが早い。


そのあと、焼きそばを買い、かき氷を買い、真帆が「食べすぎじゃない?」と言い、早苗が「祭りだから」と返し、相馬が紙皿を持たされ、片岡が少し離れたところで人混みを避けながら食べる。そんなふうに時間が流れた。


焼きそばの匂いは、ずっと会場の真ん中にあった。


ソースの甘い匂い、鉄板の熱い匂い、油の匂い。祭りの匂いというのは、たぶんああいうものだ。あとで何を思い出すかといえば、提灯の色より先に、あの匂いかもしれない。


「おいしい」

「よかったね」

「三浦さんがつくった?」

「たぶん」

「じゃあ、すごい」

「すごいね」

「大家さん、何でもできる」

「何でもではないでしょ」

「焼きそばはできる」

「限定的」


真帆が笑う。相馬も少しだけ笑って、紙皿の端を見た。


「こういうの、外で食べると何でうまいんですかね」

「祭りだからじゃないですか」

「便利ですね」

「便利なんで」


片岡が返す。二人とも、もうそのやりとりに慣れていた。


日が落ちると、提灯の明かりが少しずつ目立ってきた。


赤と白の丸い灯りが、会場の上にやわらかく浮かぶ。やぐらのまわりでは、盆踊りが始まっていた。輪の中に入る人もいれば、外から見るだけの人もいる。美空は最初、じっと見ていたが、やがて体がうずうずし始めたらしい。


「おどりたい」

「え」

「おどりたい」

「踊れるの?」

「しらない」

「知らないのに?」

「でもやりたい」

「……行く?」

「行く!」


早苗が少し迷っていると、真帆が背中を押した。


「端っこなら大丈夫ですよ」

「ほんと?」

「たぶん」

「便利にしないで」

「じゃあ、大丈夫」


美空は輪のいちばん外側に入って、見よう見まねで手を動かし始めた。全然合っていない。でも本人は真剣で、楽しそうだった。早苗は少し離れたところで見守り、真帆はその横で笑っている。


相馬はその光景を見て、ふと片岡に言った。


「何か、いいですね」

「何がですか」

「こういうの」

「祭り?」

「祭りもですけど」

「……そうですね」


片岡は短く答えたが、その声はやわらかかった。


帰り道は、行きより少し静かだった。


美空が疲れて、早苗の手にぶら下がるみたいに歩いている。腕には光るブレスレット。真帆は「眠そう」と笑い、相馬は紙コップの残りを捨てる場所を探し、片岡は少しだけ息を整えながら歩く。


若草荘が見えてくると、みんな少しほっとした顔になった。


門の前には、ユイがいた。


階段の下の灯りのそばで、いつものように丸くなっていたが、足音に気づいて顔を上げる。美空が最後の元気を振りしぼる。


「ただいまー!」


ユイは耳を動かした。真帆が小さく言う。


「おかえり、だね」

「うん」

「ユイも行った気分かな」

「行ってないけどね」

「でも匂いはついたかも」

「焼きそばの?」

「焼きそばの」


たしかに、みんな少しずつ祭りの匂いを持ち帰っていた。ソース、汗、夜風、提灯の下の空気。そういうものが服や髪に残っている。


その夜、若草荘はいつもより少しだけ遅くまで起きていた。


一〇三号室では、美空が「たのしかった」と何度も言っている。

二〇一号室では、真帆が髪をほどく音がする。

二〇三号室では、相馬が買ってきた焼きそばを少し遅れて食べているらしい。

一〇二号室では、片岡が窓を少しだけ開けていた。


祭りは、特別な出来事のようでいて、終わってしまえばただの一日だ。

けれど、その一日に同じ場所で同じ匂いを吸ったことは、あとから少しずつ効いてくる。


浴衣ではなくても、

踊れなくても、

人混みが得意でなくても、

焼きそばを食べて、提灯を見て、同じ帰り道を歩いた。


それだけで、若草荘の住人たちはまた少しだけ「一緒にいたこと」の量を増やしたのだった。


ユイは階段の下の灯りの中で目を閉じた。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。


公園から帰る人たちの浴衣の裾が、夜風に揺れていた。

焼きそばの匂いだけが、少し遅れて若草荘まで帰ってきた。

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