第十八話 祭りのあとの朝
翌朝、若草荘は少しだけ静かだった。
祭りの夜は、帰ってきてからもしばらくそれぞれの部屋に灯りがついていた。美空のはしゃぐ声、真帆の笑い声、廊下を歩く足音、窓の開く音。いつもより少し遅くまで建物の中に人の気配が残っていたせいか、朝になっても空気のどこかに昨夜の続きが薄く残っている。
階段の下では、ユイが丸くなっていた。
朝の光はまだ斜めで、建物の影が長い。灯りは消えている。けれど、コンクリートの床には昨日の夜のぬくもりが少しだけ残っているように見えた。もちろん、そんなものはもうないのかもしれない。ただ、祭りの翌朝というのは、何でも少しだけ残っているように感じる。
いちばん先にドアを開けたのは一〇三号室だった。
早苗がゴミ袋を持って出てくる。その後ろから、美空も眠そうな顔でついてきた。髪はまだ少し寝ぐせがついていて、昨日の光るブレスレットはもう腕にはない。
「おはよう」
「おはようございます」
「おはよう……」
美空の声だけが半分寝ていた。早苗が笑う。
「昨日、寝るの遅かったから」
「しってる」
「知ってるんだ」
「おまつりだったから」
「そうだね」
ゴミを出しに行く途中でも、美空はまだ完全には起きていないようだった。けれど階段の下のユイを見つけると、少しだけ目が開く。
「ユイ」
「起こさないの」
「おきてるよ」
「寝てるよ」
「でもみみある」
「耳はあるね」
ユイは目を閉じたままだったが、たしかに耳だけは立っていた。
二〇一号室のドアが開いたのは、その少しあとだった。
真帆が洗濯かごを抱えて出てくる。Tシャツにゆるいパンツ、髪はまだ適当にまとめただけで、完全に休日の顔だった。階段の下の二人に気づいて、少し笑う。
「おはよう」
「おはようございます」
「おはよう」
「眠そう」
「誰が?」
「美空ちゃん」
「ねむくない」
「ほんと?」
「ほんと」
「信用できない」
「できるよ」
昨日と同じやりとりに、真帆が笑う。
「祭り、楽しかった?」
「たのしかった」
「何がいちばん?」
「やきそば」
「そこなんだ」
「あと、ひかるやつ」
「くじの?」
「うん」
「踊りじゃないんだ」
「おどりも」
「いっぱいあるね」
「いっぱいある」
子どもの記憶は、順番がない。楽しかったものが全部同じ高さで並んでいる。
真帆は洗濯機のある共用スペースへ向かいながら、ふと昨日の夜のことを思い出していた。提灯の明かり、焼きそばの匂い、輪の外で踊る美空、エプロン姿の三浦。どれも大した事件ではないのに、妙にくっきりしている。
二階の廊下では、相馬が手すりにもたれてスマホを見ていた。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
「おはようございます」
「起きてたんですね」
「まあ」
「寝不足そう」
「ちょっとだけ」
「祭り疲れ?」
「そんな子どもみたいな」
「でもちょっとあるでしょ」
「……あります」
相馬は素直に認めた。昨日は帰ってきてからも、何となくすぐには寝つけなかった。祭りのあとというのは、部屋に戻ってもまだ外の音が耳の奥に残っている。静かになったあとで、逆に落ち着かなくなる。
「焼きそば、まだ匂いしません?」
「しませんよ」
「する気がするんですけど」
「気のせいです」
「ですよね」
「でも、ちょっとわかる」
「どっちですか」
「便利なんで」
「便利に使わないでください」
真帆が笑う。相馬も少しだけ笑った。
一〇二号室のドアが開いたのは、その会話のあとだった。
片岡が出てくる。昨日と同じく、少しゆっくりした動きだが、顔色は悪くない。手には小さなゴミ袋と、飲み終えたペットボトルが一本。
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます」
片岡は階段を下りながら、少しだけ周りを見た。昨日の祭りの話題がまだ建物の中に残っているのがわかる。こういう翌朝の感じは、少し久しぶりだった。何かがあった次の日に、その続きを共有できる相手がいるというのは、思っていたより変な感じがする。
真帆がすぐに聞く。
「片岡さん、昨日どうでした?」
「どう、って」
「祭り」
「……思ったより」
「悪くなかった?」
「はい」
「出た」
「何がですか」
「思ったより悪くなかった、いただきました」
「そんなメニューみたいに言わないでください」
「片岡さん、焼きそば食べてましたよね」
「食べました」
「おいしかったですか」
「おいしかったです」
「三浦さん、聞いたら喜びますよ」
「言わないでください」
「なんで」
「なんとなく」
「わかる」
相馬が小さく言った。
そのとき、軽トラックの音がして、門の前に三浦が現れた。
今日は作業着のままだが、昨日のエプロン姿の印象がまだ少し残っている。真帆がそれを思い出して、また少し笑いそうになるのをこらえた。
「何だ、朝からいるな」
「住んでるんで」
「そうだった」
「大家さんこそ早いですね」
「片づけだ」
「祭りの?」
「提灯とか机とか」
「ちゃんと最後まで働いてる」
「当たり前だ」
「えらい」
「子ども扱いするな」
三浦はそう言いながら、ポストの上に何かを置いた。昨日の祭りでもらったらしい、余ったうちわが何枚か重なっている。町内会の名前が入った、白地の安いうちわだった。
美空がすぐに反応する。
「うちわ!」
「いるか」
「いる!」
「やる」
「やった」
三浦は一枚渡す。美空はそれを受け取って、すぐにぱたぱたあおぎ始めた。朝のまだそこまで暑くない空気が少しだけ動く。
「昨日、楽しかったか」
「たのしかった!」
「そうか」
「やきそばたべた」
「知ってる」
「おどった」
「それも知ってる」
「ひかるのもした」
「何だそれ」
「くじ」
「そうか」
三浦の返事はぶっきらぼうだが、少しだけやわらかい。早苗がその横顔を見て、ほんの少し笑った。
「お世話になりました」
「何がだ」
「焼きそば」
「町内会だ」
「でも焼いてたの三浦さんでしたよね」
「まあな」
「おいしかったです」
「……そうか」
三浦はそれだけ言って、軽トラックの荷台を見た。照れくさいときの顔だった。
朝の若草荘には、昨日の祭りの名残がいくつか落ちていた。
美空の話の中に。
真帆の笑い方の中に。
相馬の寝不足の目の下に。
片岡の「思ったより悪くなかった」の言い方の中に。
三浦の少しだけゆるんだ声の中に。
大きな変化ではない。誰かの人生が急に変わったわけでもない。今日も洗濯物は干さなければならないし、ゴミも出さなければならないし、仕事に行く人は行く。祭りの翌朝だからといって、生活が免除されるわけではない。
それでも、同じ場所で同じ夜を過ごした翌朝は、少しだけ違う。
若草荘の住人たちは、これまで互いの生活の断片だけを知っていた。帰宅時間、足音、咳払い、洗剤の匂い。けれど昨日は、同じ提灯を見て、同じ焼きそばの匂いを吸って、同じ帰り道を歩いた。
そのことは、朝になると静かに効いてくる。
たとえば、何でもない会話が少しだけ続く。
たとえば、昨日のことを前提に笑える。
たとえば、相手がどんな顔で祭りを見ていたかを知っている。
それだけのことなのに、建物の中の距離がほんの少し変わる。
早苗がゴミ出しから戻ってくると、美空はうちわを持ったままユイの前にしゃがみこんでいた。
「ユイ、これいる?」
「いらないと思うよ」
「なんで?」
「手がないから」
「あるよ」
「前足ね」
「じゃあ、あおいであげる」
美空はうちわでそっと風を送る。ユイは迷惑そうに片目だけ開けて、それからまた閉じた。
「やさしい」
「やさしいでしょ」
「たぶんちょっと迷惑」
「なんで」
「寝てるから」
「そっか」
美空は納得したような、していないような顔でうちわを止めた。
二階では、相馬がそろそろ部屋に戻ろうとしていた。今日は午後から面接の準備をするつもりだった。祭りの翌朝でも、現実はちゃんと続いている。けれど、昨日までより少しだけ、気持ちの置き場がある気がした。
片岡も一〇二号室へ戻る前に、階段の下を見た。ユイと、美空と、うちわ。何でもない朝の光景だ。けれど、昨日の前なら、たぶん少し違って見えていた。
真帆は洗濯物を干しながら、風に揺れるTシャツの向こうに二階の廊下を見た。相馬がいて、片岡がいて、下には早苗と美空がいて、三浦の軽トラックが門の前にある。みんなそれぞれ別のことをしているのに、同じ朝の中にいる。
若草荘は相変わらず古くて、狭くて、壁も薄い。
でも、昨日の祭りのあとから、少しだけ「ただ住んでいるだけの場所」ではなくなっていた。
ユイは階段の下で目を閉じたまま、耳だけを動かした。
うちわの紙がぱたぱた鳴る音。
洗濯ばさみのはさまる音。
軽トラックの荷台を閉める音。
誰かが笑う声。
祭りは終わった。
でも、その翌朝の静かな続きが、まだ若草荘の中に残っていた。




