第十九話 空き缶と面接結果
昼すぎ、若草荘の廊下は静かだった。
夏の午後は、音が少ない。遠くで車が通る音と、どこかの家のエアコンの室外機が回る音。それから、ときどき蝉が思い出したように鳴く。日差しは強いのに、建物の中は少しだけ薄暗い。古い廊下の影は、昼間でもどこか夕方みたいだった。
二〇三号室のドアが開いたのは、その静けさの中だった。
相馬が出てくる。手にはスマホ。顔の表情は、あまりよくない。別に青ざめているわけではないが、何かを見たあと特有の、表情の置き場がなくなった顔をしていた。
階段を下りて、途中で止まる。
またスマホを見る。
短い文面だった。
選考の結果、今回はご期待に添えない結果となりました――。
丁寧な言い方をしていても、意味はひとつしかない。相馬は画面を閉じて、また開いて、もう一度だけ見た。見直したところで文面が変わるわけではないのに、そういうことをしてしまう。
「……はあ」
ため息は、思ったより大きく出た。
階段の下では、ユイが寝そべっていた。相馬はその近くの段差に腰を下ろす。コンクリートは少しぬるい。スマホをポケットにしまって、両手をだらんと下げた。
落ちるたびに、別に初めてじゃないと思う。
落ちるたびに、でも少しずつ削られていく。
自分に向いていないのかもしれない、という考えと、まだ数を受けていないだけだ、という考えが、頭の中で何度も入れ替わる。どちらも本当のようで、どちらも言い訳のようだった。
ユイは目を開けて、相馬を見た。
それから、特に興味がなさそうにまた目を閉じた。
「冷たいな」
相馬が言う。
もちろん返事はない。
しばらくして、一〇二号室のドアが開いた。
片岡だった。今日は少しだけ外へ出るつもりらしく、シャツを着て、財布を持っている。階段を下りかけて、途中で相馬に気づいた。
「……どうしました」
「どうもしないです」
「そうですか」
「はい」
「じゃあ、どうかしてますね」
「何でですか」
「顔」
「そんなにですか」
「そんなにです」
片岡はそこで少し止まった。前なら、そのまま出かけていたかもしれない。けれど今は、少しだけ迷ってから、階段を下りきった。
「何かあったんですか」
「面接」
「はい」
「だめでした」
「……そうですか」
「そうです」
それ以上、相馬は言わなかった。言えば少し楽になるのかもしれないが、うまく言葉にすると余計に本当になってしまう気がした。
片岡は少しだけ考えてから、「ちょっと待っててください」と言って一〇二号室に戻った。
相馬はその背中を見送る。
何だろう、と思ったが、聞く気力もなかった。
数分して、片岡が戻ってくる。手には缶コーヒーが二本あった。冷蔵庫に入っていたらしい。片方を相馬に差し出す。
「どうぞ」
「……いいんですか」
「はい」
「何で」
「何でって」
「いや」
「飲みたそうだったので」
「そんな顔してました?」
「してました」
「今日、顔に出すぎだな……」
相馬は缶を受け取った。冷たい。指先にその冷たさがじわっと移る。プルタブを開ける音が、静かな廊下に小さく響いた。
一口飲む。
甘い。
思っていたより甘い。
「甘いですね」
「甘いです」
「ブラックじゃないんだ」
「今日はこっちの気分でした」
「片岡さんにもそういう日あるんですね」
「ありますよ」
「人間だ」
「失礼ですね」
相馬は少しだけ笑った。
片岡も少しだけ笑った。
それで会話が終わってもよかったのだが、今日は少しだけ続いた。
「何社目ですか」
「え」
「今回」
「ああ……ちゃんと受けたのは、四つ目くらいです」
「四つ」
「多いのか少ないのか、よくわかんないですけど」
「まだ四つです」
「慰めてます?」
「事実です」
「でも、四つ落ちるとまあまあ来ますよ」
「来ますね」
「来ますよね」
「はい」
片岡は缶コーヒーを見ながら言った。
「自分がだめだって言われてる気がしますよね」
「……そうなんですよ」
「会社が合わないとか、タイミングとか、いろいろあるんでしょうけど」
「頭ではわかるんです」
「でも、来ますよね」
「来ます」
相馬は少し驚いて片岡を見た。
片岡は前を向いたままだった。
「片岡さんも?」
「前に」
「就活?」
「というか、仕事探してたとき」
「そうなんだ」
「だめだった日は、缶コーヒー飲んでました」
「それで甘いやつ」
「たぶん」
「効きます?」
「少しだけ」
「少しだけか」
「でも、ないよりは」
「そうですね」
ユイが寝返りを打つ。
その音だけで、会話が少し途切れた。
夏の午後の空気は重い。けれど、誰かと並んで座っていると、その重さが少しだけ分散する。相馬は缶を両手で持ちながら、ぼんやり前を見た。
「何か、向いてないのかなって思うんですよね」
「何がですか」
「働くのが」
「大きく出ましたね」
「いや、でも」
「面接が、じゃなくて?」
「それもあるけど」
「働くの全部?」
「……たまに」
「それは、たぶん疲れてるだけです」
「そうですかね」
「そうじゃなかったら、もっと前から諦めてると思います」
「厳しいな」
「厳しいですか」
「でも、ちょっとわかる」
「便利ですね」
「便利なんで」
相馬が言うと、片岡は少しだけ笑った。
そのとき、二〇一号室のドアが開いた。
真帆が買い物袋を提げて戻ってくる。階段の下に二人並んで座っているのを見て、少し目を丸くした。
「何してるんですか」
「見ての通りです」
「見てもわかんない」
「缶コーヒー飲んでます」
「それは見ればわかる」
「じゃあ合ってるじゃないですか」
「そういうことじゃなくて」
真帆は階段の途中で止まり、二人の顔を見比べた。
それから、何となく察したらしい。
「……だめだった?」
「はい」
「そっか」
「はい」
「そっかあ」
真帆はそれ以上、軽い慰めを言わなかった。
その代わり、買い物袋の中を少し見てから、アイスを一本取り出した。
「これ、食べます?」
「何で持ってるんですか」
「買ったから」
「そうじゃなくて」
「一本多かった」
「絶対うそだ」
「ばれた」
「ばれますよ」
「じゃあ、残念賞」
「何の」
「今日の」
「雑だなあ」
「でも甘いの、今ちょっといいでしょ」
「……いいです」
相馬は受け取った。缶コーヒーのあとにアイス。慰め方として正しいのかはわからないが、悪くない気がした。
真帆はそのまま階段に腰を下ろした。
買い物袋を脇に置く。
「次、いつですか」
「まだ決まってないです」
「じゃあ、今日は落ち込む日ですね」
「許されます?」
「今日だけなら」
「明日は?」
「少しだけ」
「明後日は?」
「動いてください」
「急だな」
「急じゃないです」
「でも、そうですね」
「そうです」
片岡は黙って缶コーヒーを飲んでいた。
三人でいるのに、会話は不思議と騒がしくならない。若草荘では、こういう沈黙はあまり気まずくない。
しばらくして、一〇三号室のドアが開いた。
美空が出てくる。後ろから早苗の声がする。
「ひとりで行かない」
「しただけ」
「何を」
「みただけ」
「何を」
「みんな」
美空は階段の下をのぞきこんで、三人を見つけた。
「なにしてるの?」
「落ち込んでる」
「真帆さん」
「違うよ、相馬さん」
「なんで?」
「ちょっとね」
「いたいの?」
「痛くはない」
「じゃあだいじょうぶ」
「その理屈いいな」
「いいでしょ」
美空は満足そうにうなずいた。
早苗も出てきて、下の様子を見て少しだけ苦笑する。
「すみません、騒がしくて」
「いえ」
「相馬さん、大丈夫ですか」
「まあ、たぶん」
「たぶん」
「たぶんです」
「じゃあ、今日はたぶんでいいんじゃないですか」
「そうします」
早苗のその言い方は、真帆の励まし方とも、片岡の寄り添い方とも少し違った。大丈夫と言い切らないで、でもそのまま置いていかない感じだった。
美空は階段を一段下りて、相馬の前まで来た。
「げんきだして」
「ありがとう」
「アイスたべたらなおるよ」
「今食べてる」
「じゃあなおる」
「そうか」
「うん」
子どもの言葉は、ときどき乱暴なくらいまっすぐだ。
でも、そういうまっすぐさに助けられる日もある。
相馬はアイスを一口かじった。
冷たさが頭に少し来る。
「つめた」
「でしょ」
「知ってた?」
「アイスだから」
「そうだった」
美空が笑う。
真帆も笑う。
片岡も少しだけ口元をゆるめた。
その日の午後、相馬は結局、すぐには次の応募をしなかった。
部屋に戻って、少しだけ横になった。
それから夕方になって起きて、パソコンを開いた。
すぐに前向きになれたわけではない。
自信が戻ったわけでもない。
でも、昼間に階段の下で缶コーヒーを飲んだことは、思っていたよりちゃんと残っていた。
落ちたことは変わらない。
だめだった事実も消えない。
それでも、だめだった日の記憶が「一人でスマホを見て終わった日」ではなくなったことは、少し違った。
夜、階段の下ではユイがまた丸くなっていた。
昼間と同じ場所。
同じコンクリート。
同じような姿勢。
けれど、その場所には昼間、相馬と片岡が座っていた。
真帆がアイスを渡して、美空が「げんきだして」と言った。
若草荘では、そういうことが少しずつ積もっていく。
大きな励ましではない。
人生を変える言葉でもない。
ただ、落ちた日に誰かが隣に座って、甘い缶コーヒーを渡してくれる。
それだけのことが、次の日を少しだけましにする。
ユイは目を閉じたまま、耳だけを動かした。
二〇三号室では、キーボードを打つ音がしていた。
ゴミ箱には、昼間飲んだ甘い缶コーヒーの空き缶が一本だけ転がっていた。
明日には捨てられるだろう。
けれど今日だけは、その空き缶も「少しだけましだった一日」の証拠みたいに、部屋の隅に残っていた。




