第二十話 真帆の休日
その日、真帆は休みだった。
前の晩に夜勤が入っていたわけでもなく、呼び出しもなく、最初から決まっていた休みだった。だから本当なら、少しうれしくてもよかった。目覚ましをかけずに寝て、昼近くまで布団の中にいて、洗濯は気が向いたらして、食事も適当に済ませる。そういう一日を過ごしても、誰にも何も言われない。
けれど、朝の八時を過ぎたころには、真帆はもう起きていた。
習慣というのは、休みの日にも容赦がない。目が覚めてしまうと、もう眠れない。天井を見ながらしばらく転がっていたが、結局起き上がってカーテンを開けた。
外はよく晴れていた。
若草荘の向かいの家の屋根が白く光っている。洗濯日和だな、と思う。思った時点で、もう負けた気がした。休みの日に「洗濯日和」と考えてしまう人間は、たぶん休むのがあまり上手ではない。
真帆は顔を洗って、髪をひとつにまとめた。Tシャツと短パンのまま、部屋の隅に置いた洗濯機に洗濯物を放り込む。洗剤を入れて、ふたを閉めて、スイッチを押す。ほどなくして、水のたまる音が狭い部屋の中に響きはじめた。
その音を聞きながら、真帆は小さく息をつく。
休みの日の朝に聞く洗濯機の音は、嫌いではない。生活が勝手に動き出していく感じがする。自分が何かを頑張らなくても、とりあえず洗濯物だけはきれいになっていく。そのことに少しだけ助けられる。
窓を開けると、外の空気が入ってきた。
二階の部屋から見下ろすと、階段の下のいつもの場所にユイがいた。朝の光が斜めに差して、コンクリートの床に建物の影が落ちている。ユイはその影の中で丸くなっていた。
「おはよう」
真帆が小さく言う。
もちろん、返事はない。
「休みなんだけど」
「……」
「何もしない予定なんだけど」
「……」
「たぶん無理だよね」
「……」
ユイは片耳だけ動かした。
肯定とも否定ともつかない反応だった。
洗濯が終わるまでのあいだ、真帆は麦茶を飲んで、ベッドに寝転がって、スマホを見た。見たいものがあるわけではないのに、指だけが動く。ニュース、天気、どうでもいい動画、通販サイト。何となく見て、何となく閉じる。
静かだ。
静かすぎる。
仕事の日は休みたいと思うのに、いざ休みになると、何をしていいかわからない。何もしないことに落ち着かない。真帆はスマホを胸の上に置いて、天井を見た。
「向いてないな……」
休むことに、と思う。
やがて洗濯機が止まった。真帆は洗濯物をかごに移して、ベランダに出る。狭い物干しにシャツやタオルを一枚ずつかけていく。風は弱いが、日差しは十分だった。
最後のタオルを干したところで、下から声がした。
「まほさん!」
見下ろすと、美空がいた。一〇三号室の前から、顔だけ上げてこちらを見ている。後ろで早苗が「大きい声出さない」と言っていた。
「おはよう」
「おはよう!」
「元気だね」
「げんき」
「知ってる」
「なんで?」
「見ればわかるから」
「わかるの?」
「わかるよ」
美空は満足そうにうなずいた。
「おしごと?」
「今日は休み」
「ほんと?」
「ほんと」
「ずっと?」
「ずっとではない」
「じゃあ、ひまだ」
「そういうことになるね」
「やった!」
何がやったなのか、真帆にはすぐわかった。
「だめです」
「まだなにもいってない」
「たぶん当たってる」
「ちょっとだけ」
「ちょっとでもだめ」
「なんで」
「今日は何もしない日だから」
「なにもしないの?」
「そう」
「つまんない」
「ひどいな」
早苗が苦笑しながら前に出る。
「すみません、朝から」
「いえ」
「真帆さん、休みなんですね」
「はい。今日は本気でだらだらするつもりです」
「いいですね」
「そのつもりです」
「美空、困らせないの」
「こまらせてない」
「今から困らせる顔してる」
「してないよ」
していた。
真帆は洗濯物を干し終えて部屋に戻った。
麦茶をもう一杯飲んで、ベッドに座る。何もしない休日のはずなのに、さっきのやりとりだけで少しだけ一日が動き出してしまった気がする。
それでもまだ午前中だった。
そのとき、ドアがこんこんと鳴った。
嫌な予感しかしない。
開けると、案の定、美空が立っていた。後ろに早苗もいる。
「こんにちは」
「まだ午前中だよ」
「じゃあ、おはよう」
「もう遅い」
「真帆さん」
「はい」
「もし迷惑じゃなかったらなんですけど」
「はい」
「お昼、うちでそうめん茹でるんですけど」
「はい」
「よかったら一緒にどうですか」
「……」
「美空が」
「うん」
「ずっと」
「うん」
「真帆さん、ひまだって」
「言ってました」
「言ってない」
「言ってた」
「言ってないけど、まあ、暇ではある」
「じゃあ、来る?」
「その聞き方ずるいなあ」
真帆は少し迷ったふりをした。
でも、断る理由はあまりなかった。部屋で一人でだらだらする予定は、すでに少しだけ失敗している。
「じゃあ、お言葉に甘えます」
「やった!」
「よかったです」
「でも手伝いますよ」
「助かります」
「そうめん、まぜて」
「混ぜるものじゃないかな」
「じゃあ、みる」
「それはできるね」
一〇三号室は、昼前の匂いがしていた。
鍋に湯が沸く音。きゅうりを切る音。めんつゆの甘い匂い。狭い台所に二人立つと少し窮屈だが、その窮屈さが妙に落ち着く。早苗がそうめんを茹でて、真帆が薬味を切る。美空は椅子に座って、その一部始終を見ている。
「見てるだけなんだ」
「みてる」
「えらい」
「えらいよ」
「自分で言うんだ」
「うん」
早苗が笑う。
「真帆さん、休みの日って何してるんですか」
「何もしてないです」
「今日みたいに?」
「今日みたいに」
「それで落ち着きます?」
「……あんまり」
「ですよね」
「わかります?」
「少し」
「早苗さんも?」
「休める日は休みたいんですけど、結局何かしてます」
「同じだ」
「同じですね」
そうめんを食べながら、美空は昨日の続きみたいにいろいろ話した。
保育園のこと。
この前見た虫のこと。
祭りのくじのこと。
ユイが朝、耳だけ動かしていたこと。
話はあちこち飛ぶのに、不思議と退屈しない。
真帆は何度も笑った。
食べ終わるころには、部屋の中に昼の気だるさが広がっていた。
扇風機が回っている。
そうめんの皿は空になっている。
美空は少し眠そうだ。
「お昼寝したら?」
と早苗が言うと、
「しない」
と美空は言った。
その五分後には、畳の上で横になっていた。
真帆と早苗は声をひそめる。
「早い」
「いつもこんな感じです」
「かわいい」
「寝ると静かなんですけどね」
「起きてても静かではないけど、あれはあれで」
「そうなんですよね」
少しだけ間が空く。
「真帆さん」
「はい」
「最近、少し顔がやわらかいです」
「え」
「前より」
「そうですか?」
「はい」
「それ、いい意味ですか」
「いい意味です」
「ならよかった」
「祭り、楽しかったですか」
「楽しかったです」
「思ったより」
「片岡さんみたい」
「ほんとだ」
二人で小さく笑う。
真帆は、自分でも少しだけわかっていた。
若草荘に来たばかりのころより、部屋に戻るのが少し楽になっている。
誰かの声がすること。
階段の下にユイがいること。
一〇三号室から美空の声が聞こえること。
それを、うるさいと思わなくなっている。
むしろ、ないと少し静かすぎる。
午後になると、美空が起きて、今度は外へ出たいと言い出した。
早苗は洗い物をしている。
真帆はその様子を見て、何となく言った。
「ちょっとだけ散歩、行きます?」
「え、いいんですか」
「近くまでなら」
「いく!」
「本人がいちばん早い」
「すみません」
「いえ、私も少し外出たくなってきたので」
結局、真帆と美空で近くの公園まで行くことになった。
早苗は「本当にすみません」と何度も言ったが、真帆は「休みなんで」と返した。
公園は昼の光で白っぽかった。
ブランコも滑り台も熱を持っていて、遊ぶには少し暑すぎる。それでも美空は元気だった。日陰を選んで歩いて、セミの抜け殻を見つけて、アリの列を見て、途中で水を飲んで、また歩く。
「真帆さん」
「なに」
「おしごと、たいへん?」
「たいへん」
「なんで?」
「仕事だから」
「そっか」
「美空ちゃんは保育園たいへん?」
「たいへんなひもある」
「あるんだ」
「でも、おやつある」
「強いな」
「つよいよ」
真帆は笑った。
帰り道、若草荘が見えてくると、何となくほっとした。
たった少し外に出ただけなのに、戻る場所として建物を見ている自分に気づく。
門の前には、相馬が立っていた。
コンビニ袋を下げている。
「あれ、どこ行ってたんですか」
「散歩」
「二人で?」
「うん」
「へえ」
「何ですか、その顔」
「いや、何か」
「何か?」
「似合わないなと思って」
「失礼」
「でも、ちょっと似合ってます」
「どっち」
「半々です」
「便利な言い方」
「便利なんで」
真帆は笑って、美空は「べんりってなに」と聞いた。
相馬は答えに困っていた。
夕方になると、真帆はようやく自分の部屋に戻った。
何もしない休日ではなかった。
洗濯をして、そうめんを食べて、美空と散歩して、相馬と少し話した。
予定していただらだらとは全然違う。
でも、悪くなかった。
むしろ、一人で部屋にこもっていたら、たぶん今より疲れていた気がする。休むというのは、ただ止まることではないのかもしれない。少なくとも真帆にとっては、誰かと少し話して、少し笑って、少し外へ出るくらいのほうが、ちゃんと息ができる。
窓を開けると、夕方の風が入ってきた。
階段の下では、ユイがいつもの場所にいる。
一〇三号室からは、美空の声がする。
どこかで水道の音がして、二階の廊下を誰かが歩く気配がある。
真帆はベッドに腰を下ろして、小さく息をついた。
「休んだなあ」
誰に言うでもなく、そう思った。
何もしなかったわけではない。
でも、ちゃんと休んだ気がした。
若草荘は古くて、狭くて、壁も薄い。
ひとりで静かに過ごすには、あまり向いていない建物かもしれない。
けれど、ひとりで抱えこみすぎる人が、少しだけ力を抜くには、案外ちょうどいいのかもしれなかった。
階段の下で、ユイが耳を動かした。
夕方の建物の中には、
鍋の音も、
子どもの声も、
帰ってくる足音も、
少しずつ混ざりはじめていた。
真帆の休日は、思っていたのとは違う形で終わっていった。
でも、その違いはたぶん、悪いものではなかった。




