第二十一話 首輪のない犬
その犬には、首輪がなかった。
若草荘に住みはじめてしばらく経つと、そのことを誰も不思議に思わなくなる。階段の下にいて、朝には耳だけ動かして、夕方には少し場所をずらして寝ていて、誰かが余ったちくわをやれば食べるし、何もなければ何も言わずに丸くなっている。そういうふうに、ユイは最初からそこにいたみたいな顔をしている。
けれど、最初からいたわけではないし、誰かの犬だとも、誰の犬でもないとも、はっきり決まっているわけではなかった。
その日の午後、早苗は一〇三号室の前でしゃがみこんでいた。
美空の靴を履かせようとしているのだが、美空は片足だけ出して、もう片方をどこか遠くへやったまま、ユイのほうを見ている。
「足」
「みてる」
「見ながらでいいから足」
「ユイ、ねてる」
「寝てるね」
「みみだけある」
「耳はいつもある」
「きょうもある」
「今日もあるね」
ようやく靴を履かせ終えると、美空はすぐに階段の下へ行った。早苗もそのあとを追う。
ユイは薄目を開けて、美空を見た。
逃げない。
でも寄ってもこない。
その距離感が、ユイらしかった。
「ねえ、おかあさん」
「なに」
「ユイ、なんでくびわないの」
「……」
早苗は少しだけ言葉に詰まった。
子どもの質問は、ときどき急に核心へ来る。
「誰かの犬じゃないから、かな」
「だれかのいぬじゃないの?」
「うーん」
「でもここにいるよ」
「いるね」
「じゃあ、ここのいぬ?」
「それも、ちょっと違うかな」
「なんで」
「難しいね」
美空は納得していない顔をした。
当然だった。いるのに、決まっていない。見えているのに、名前がつかない。子どもにとっては、その曖昧さがいちばん不思議なのかもしれない。
そのとき、二〇一号室のドアが開いた。
真帆が買い物袋を持って出てくる。階段の下の二人を見て、少し笑う。
「何してるの」
「ユイ、なんでくびわないのって」
「難しい話してるね」
「してる」
「答え出た?」
「まだ」
「そっか」
真帆も階段の下をのぞきこんだ。
たしかに、首輪はない。毛並みはそこそこきれいだし、痩せすぎてもいない。完全な野良犬には見えない。でも、誰かが散歩させているところも見たことがないし、飼い主らしい人が迎えに来ることもない。
「前に誰か飼ってたのかな」
と真帆が言う。
「かもね」
と早苗が返す。
「でも、今は?」
「今は……」
「ここにいる」
と美空が言った。
それがいちばん正確だった。
今は、ここにいる。
それ以上でも、それ以下でもない。
夕方、相馬がコンビニから戻ってくると、階段の下に真帆と早苗が立っていた。美空はしゃがんでユイを見ている。
「どうしたんですか」
「首輪の話」
「首輪?」
「ユイに首輪がないって」
「ああ」
「今さら?」
「今さらです」
「でも、たしかに」
「でしょ」
「言われると気になる」
「気になるよね」
「何か、つけたほうがいいんですかね」
「ほら、そうなる」
「何がですか」
「相馬さん、すぐ現実的なこと言う」
「いや、でも」
「迷子札とか?」
「いや、迷子っていうか」
「そもそも迷ってるのかどうかもわかんないし」
「そうなんですよね」
相馬はコンビニ袋を持ったまま、ユイを見た。
ユイは見られていることに気づいているのかいないのか、前足のあいだに鼻先を入れている。
「首輪つけたら、急に誰かの犬っぽくなりますね」
「そう」
と真帆が言う。
「それがちょっと違う気もする」
「わかる」
と早苗も言う。
「でも、何もないと心配でもあるんですよね」
「それもわかる」
「どっちなんだろう」
「どっちでもないのかも」
「便利な答え」
「便利なんで」
真帆が言って、相馬が少し笑った。
その日の夜、三浦が若草荘に顔を出した。
郵便受けに何か入れて、帰ろうとしたところを、美空が見つけた。ちょうど一〇三号室の前で歯みがきを嫌がっていたところだった。
「みうらさん!」
「何だ」
「ユイ、くびわない」
「……そうだな」
「なんで?」
「知らん」
「しらないの?」
「犬に聞け」
「きいてもしゃべらない」
「だろうな」
早苗が「すみません」と言う。
三浦は「別にいい」と言って、階段の下を見た。
「前からないぞ」
「最初からですか」
と真帆が聞く。
「最初からだ」
「誰かの犬じゃないんですか」
と相馬。
「さあな」
「大家さんでも知らないんだ」
「大家は犬の戸籍係じゃない」
「戸籍はないです」
「そうか」
三浦は少しだけ考えるように黙った。
「最初に見たときも、首輪はなかった」
「いつごろですか」
「去年の冬の終わりくらいか」
「そんな前から」
「気づいたらいた」
「追い払わなかったんですね」
「追い払っても戻ってきた」
「そうなんだ」
「二回やって、やめた」
「負けたんですね」
「負けてない」
「でもいる」
「いるな」
美空が三浦のズボンを引っぱる。
「じゃあ、ここのいぬ?」
「違う」
「なんで」
「飼ってないからだ」
「でもいる」
「いるな」
「じゃあ、ここのいぬ」
「……」
三浦は少しだけ困った顔をした。
その顔を見て、真帆は笑いそうになる。
「美空ちゃん、それたぶん正しいけど、ちょっと違うんだよ」
と早苗が言う。
「なんで」
「誰のもの、って決めると変わっちゃうこともあるから」
「なにが」
「うーん……」
「難しいですね」
と相馬が助け舟を出す。
「難しい」
と美空は不満そうに言った。
その場では結論は出なかった。
首輪をつけるべきか。
つけないほうがいいのか。
病院に連れていくべきか。
誰かが正式に飼うべきか。
このままでいいのか。
話せば話すほど、どれも少しずつ違う気がした。
真帆は部屋に戻ってからも、何となくそのことを考えていた。
首輪というのは、不思議なものだ。
ただの帯なのに、それがあるだけで「誰かの犬」になる。守られている感じもするし、所属している感じもする。安心にも見えるし、縛られているようにも見える。
ユイには、それがない。
だから自由なのかというと、そうでもない。
好き勝手にどこへでも行くわけではなく、結局いつも若草荘の階段の下に戻ってくる。誰にもつながれていないのに、ちゃんとここにいる。
それは、住人たちにも少し似ていた。
誰かと強く結ばれているわけではない。
家族でもない。
友達と呼ぶには、まだ少し距離がある。
でも、帰ってくれば同じ建物の中にいて、足音や声や灯りで互いの存在がわかる。
首輪はない。
けれど、いなくなったら困る。
そういう関係が、若草荘には少しずつできはじめていた。
翌朝、真帆が出勤しようとすると、階段の下で美空がしゃがんでいた。
ユイの前に、赤いリボンを置いている。
「何してるの」
「くびわ」
「それ、どこから持ってきたの」
「おようふくの」
「勝手に取ったらだめじゃない」
「でも、ユイにいるかなって」
「そっか」
「かわいい?」
「かわいいけど」
「つける?」
「ユイが嫌がるかも」
「そっか」
美空は少し考えて、それからリボンを自分の手首に巻いた。
「じゃあ、いっしょ」
「何が?」
「ユイと」
「……そうだね」
真帆はその手首を見て、少しだけ笑った。
首輪はなくてもいいのかもしれない。
名前をはっきりつけなくても、関係はあるのかもしれない。
大事なのは、誰のものかより、どこへ戻ってくるかだ。
ユイはその日も、階段の下にいた。
首輪はない。
でも、そこにいることを、もう誰も疑っていなかった。




