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第二十二話 雨のにおい

昼すぎから、空の色が少しずつ変わっていた。


朝のうちは晴れていたのに、正午を過ぎたころから光が鈍くなった。向かいの家の屋根の白さが消えて、風が止まる。蝉の声も、いつのまにか遠くなっていた。


真帆は二〇一号室の窓を開けたまま、ベッドの上に座っていた。


今日は遅番だった。出勤まではまだ少し時間がある。洗い物も済ませたし、制服の準備もしてある。やることはないわけではないが、急ぐほどでもない。そういう中途半端な時間に、雨の前の空気は妙に入りこんでくる。


湿った風が、まだ降っていない雨のにおいを運んでいた。


真帆は窓の外を見た。

若草荘の前の細い道。

向かいの家の植木鉢。

電線。

その下の、階段の下。


ユイはいつもの場所にいたが、今日は少しだけ落ち着きがなかった。丸くなっているというより、伏せたまま耳を動かしている。空気の変化を、人より先に知っているみたいだった。


一階で、ドアの開く音がした。


一〇三号室だった。

早苗が洗濯物を取りこもうとしているらしい。ベランダの竿がきしむ音がして、そのあと美空の声がした。


「まだかわいてる?」

「半分くらい」

「はんぶん?」

「うん、微妙」

「びみょうってなに」

「困るってこと」

「なんで」

「雨降りそうだから」

「まだふってないよ」

「そうなんだけどね」

「じゃあ、だいじょうぶ」

「そうだといいんだけど」


真帆は少し笑った。

子どもにとって、降っていない雨はまだ存在していないのかもしれない。


二〇三号室のドアが開いて、相馬が出てきた。

Tシャツにハーフパンツのまま、手にはゴミ袋を持っている。階段を下りながら空を見上げて、顔をしかめた。


「降りますね、これ」

と、誰に言うでもなく言う。


「降りそうですね」

と真帆が窓から返す。


相馬は少し驚いた顔で見上げた。


「あ、いたんですね」

「いました」

「何か、気配なかった」

「失礼」

「いや、そういう意味じゃなくて」

「わかってます」

「ならよかったです」


相馬はゴミ袋を持ったまま、階段の下のユイを見た。


「ユイも何か、今日そわそわしてません?」

「してる気がします」

「犬ってわかるんですかね」

「わかるんじゃないですか」

「すごいな」

「人間より早い」

「負けてる」

「たぶんいつも負けてる」

「それはそうかも」


そのとき、一〇三号室の前で早苗が洗濯物を抱えたまま顔を出した。


「真帆さん、窓閉めたほうがいいかもしれませんよ」

「やっぱりですか」

「風が変わってきたので」

「ありがとうございます」

「相馬さんも、ゴミ早く出したほうが」

「今行きます」

「美空、そこ立たない」

「たってない」

「立ってる」

「ちょっとだけ」

「ちょっとでもだめ」


建物の中に、雨の前の小さな慌ただしさが広がる。


洗濯物を取りこむ人。

窓を閉める人。

ゴミを急いで出す人。

まだ降っていないのに、みんな少しだけ急いでいる。


そういう時間が、真帆は嫌いではなかった。

同じ空を見て、同じ変化に反応している感じがする。


やがて、ぽつ、と音がした。


最初の一滴は、向かいの家のトタン屋根に落ちたらしかった。

乾いた金属の上に、小さくはじける音。


「降った」

と美空が言う。

「降ったね」

と早苗が返す。

「ほんとだ」

と相馬が言う。


そのあと、二滴、三滴。

間を置いて、また数滴。

雨は最初、ためらうみたいに落ちてきた。


真帆は窓を閉めた。

ガラス越しに見る外は、少しだけ遠くなる。


雨脚はすぐに強くなった。

道の色が変わる。

土のにおいが立つ。

向かいの家の植木鉢の葉が揺れる。

トタン、アスファルト、ベランダの手すり、いろんな場所に違う音が生まれる。


若草荘は古い建物だから、雨の日は音がよく響く。


屋根を打つ音。

雨どいを流れる音。

どこかの窓が閉まる音。

廊下を急ぐ足音。


その全部が重なって、建物全体が少しだけ雨の中に沈む。


真帆が制服に着替えていると、ドアがこんこんと鳴った。


開けると、美空が立っていた。

後ろに早苗がいる。


「すみません」

「どうしました?」

「これ、もしよかったら」

早苗が差し出したのは、小さなタッパーだった。

「きゅうりの浅漬け作りすぎて」

「え、うれしい」

「ほんと?」

と美空が言う。

「ほんと」

「やった」

「何で美空ちゃんが喜ぶの」

「わたしもつくった」

「そうなんだ」

「まぜた」

「大事な仕事だ」

「だいじ」


真帆はタッパーを受け取った。

ひんやりしている。


「ありがとうございます」

「いえ、雨で出られないし、何となく」

「わかります」

「何がですか」

「雨の日って、ちょっと人に何か渡したくなる感じ」

「そんな感じあります?」

「今ありました」

「じゃあ、あるんですね」

「ありますね」


三人で少し笑う。


そのとき、二階の廊下をばたばたと走る音がした。

相馬だった。

Tシャツの裾が少し濡れている。


「間に合わなかった……」

「ゴミですか」

と真帆。

「いや、コンビニ」

「行ってたんですか」

「雨降る前に行けると思って」

「無理でしたね」

「無理でした」

「何買ったの」

と美空が聞く。

「アイス」

「とけるよ!」

「だから急いでる」

「それは急いでください」

と早苗が言う。


相馬は一度部屋の前で止まって、それから振り返った。


「真帆さん、今日仕事でしたっけ」

「はい」

「この雨で行くの大変ですね」

「まあ、でも行くしかないので」

「えらい」

と美空が言う。

「ありがとう」

「わたしならいかない」

「知ってる」

「でも、おしごとだから」

「そう、お仕事だから」

「たいへん」

「たいへんです」

「がんばって」

「がんばります」


美空は満足そうにうなずいた。


夕方になっても、雨はやまなかった。


真帆は傘をさして出勤した。

門を出るとき、階段の下を見たが、ユイの姿はなかった。雨の日は、もっと奥まった乾いた場所へ移ることがある。少し気になったが、犬は犬で雨のしのぎ方を知っているのだろうと思うことにした。


夜、真帆が帰ってきたときも、まだ雨は残っていた。


昼よりは弱くなっていたが、地面は濡れたままで、空気は冷えていた。傘をたたんで門をくぐると、階段の下の暗がりに小さな気配があった。


ユイだった。


いつもの場所より少し奥、雨の吹きこまないぎりぎりのところにいる。前足をそろえて座っていて、耳だけがこちらを向いた。


「いた」


真帆は小さく言った。


その声に反応したのか、一〇三号室のドアが少し開いた。

早苗が顔を出す。


「おかえりなさい」

「ただいまです」

「雨、大丈夫でした?」

「何とか」

「ユイ、さっきからあそこにいるんです」

「見ました」

「美空が気にしてて」

「寝ました?」

「さっきやっと」

「そっか」


早苗は少しだけ笑った。


「雨の日って、何か気になりますね」

「何がですか」

「いつも外にいるもの」

「……わかります」

「ちゃんと雨宿りできてるかな、とか」

「できてましたね」

「ですね」


そのとき、二〇三号室のドアも開いた。

相馬がゴミを持って出てくる。


「おかえりなさい」

「ただいまです」

「まだ降ってます?」

「少しだけ」

「明日にはやみますかね」

「たぶん」

「たぶんか」

「たぶんです」


三人で、何となく階段の下を見る。


ユイは動かない。

でも、そこにいる。


雨の夜の若草荘は、いつもより少しだけ近い。

外へ出る人が減るぶん、建物の中の気配が濃くなる。

ドアの開く音。

「おかえり」の声。

濡れた傘をたたむ音。

そういう小さなものが、雨に包まれて残る。


真帆は部屋に戻る前に、もう一度だけユイを見た。


首輪はない。

名前の札もない。

それでも、雨の夜にちゃんと気にかける相手になっている。


若草荘に来る前なら、たぶんこんなふうに、誰かが雨に濡れていないかを気にすることはなかった。

人でも、犬でも。


部屋に戻って窓を少し開けると、雨のにおいがまだ残っていた。


昼すぎに感じた、降る前のにおい。

夜になって残る、降ったあとのにおい。

同じ雨でも、少し違う。


そのあいだに、

洗濯物を取りこんで、

浅漬けをもらって、

アイスが溶けそうになって、

「おかえりなさい」と言われた。


大きな出来事は何もない。

でも、雨の日には雨の日のぶんだけ、建物の中の時間がある。


階段の下で、ユイが耳を動かした。


雨はまだ、静かに降り続いていた。


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