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第二十三話 冷蔵庫の音

夜の若草荘は、ときどき妙に静かになる。


第23話 冷蔵庫の音


夜の若草荘は、ときどき妙に静かになる。


誰もいないわけではない。部屋の灯りはついているし、どこかでテレビの音もしている。水道の音や、床を歩く気配もある。それなのに、建物全体がひとつ息をひそめたみたいに感じる時間がある。


その夜は、そういう静けさだった。


真帆は仕事から帰ってきて、制服を脱ぎ、髪をほどき、冷蔵庫を開けた。

中には、昼に買っておいた豆腐と、半分残った麦茶と、早苗にもらったきゅうりの浅漬けが入っている。ほかには、卵が二つと、使いかけのチューブのしょうが。生活はできるけれど、あまり豊かではない中身だった。


「何食べよう……」


声に出してみても、答える人はいない。


冷蔵庫のモーター音が、ぶうん、と小さく鳴っている。

その音だけが、やけに耳についた。


真帆は豆腐を取り出して、しばらく見た。

冷ややっこで済ませるには少しさびしい。

でも、今から何かちゃんと作る気力もない。


結局、フライパンを出して、卵と豆腐で適当な炒めものを作ることにした。

味つけはしょうゆと塩だけ。悪くはないが、誰かに出せるものではない。自分ひとりなら十分、という感じの夕飯だった。


食べながら、真帆は冷蔵庫の音をまた聞いていた。


静かな部屋では、ああいう生活の機械音が急に大きくなる。

エアコンの風。

換気扇。

冷蔵庫。

洗濯機の終わったあとの沈黙。


一人暮らしをしていると、そういう音が部屋の一部になる。

慣れているはずなのに、疲れている日は妙に気になる。


食べ終わって、皿を流しに置いて、麦茶を飲む。

それでもまだ眠るには早い時間だった。


真帆は何となく部屋のドアを開けて、廊下に出た。


夜の空気は少しぬるい。

階段の下には、いつものようにユイがいた。灯りの届くぎりぎりのところで伏せている。真帆は手すりにもたれて、その姿を見た。


「静かだね」


ユイは耳だけ動かした。


一〇三号室のドアが少し開いて、早苗が顔を出した。

ゴミ袋を持っている。


「あ、こんばんは」

「こんばんは」

「今帰りですか」

「少し前に」

「お疲れさまです」

「早苗さんも」

「ありがとうございます」


早苗は階段の下まで来て、ゴミ袋を持ち直した。


「美空、やっと寝ました」

「今日は遅かったんですか」

「昼寝しちゃって」

「ああ」

「夕方から元気で」

「ありますよね」

「あります」

「お母さんにはつらいやつ」

「つらいやつです」


二人で少し笑う。


「真帆さん、何か食べました?」

「え」

「いや、何となく」

「食べましたけど」

「ちゃんと?」

「……ちゃんとは微妙です」

「やっぱり」

「何でわかるんですか」

「顔」

「今日、みんな顔で判断してくる」

「わかりやすいんですよ」

「そんなに」

「そんなにです」


早苗は少し迷ってから言った。


「うち、肉じゃがあるんですけど」

「え」

「多めに作っちゃって」

「この前も聞いた気がする」

「たぶん気のせいじゃないです」

「ですよね」

「もしよかったら、あとで持っていきます」

「いや、そんな」

「遠慮しないでください」

「でも」

「真帆さん、たぶん豆腐とか食べた顔してる」

「何でわかるんですか」

「当たった」

「当たりました」

「やっぱり」

「すごいな」

「何となくです」


真帆は笑ってしまった。


「じゃあ、お言葉に甘えます」

「よかった」

「ありがとうございます」

「いえ」


早苗がゴミを出しに行って戻ると、今度は二〇三号室のドアが開いた。

相馬がコンビニ袋を持って出てくる。


「こんばんは」

「こんばんは」

「今からですか」

と早苗が聞く。

「ちょっと飲み物だけ」

「夜に?」

「夜だからです」

「便利な言い方」

「便利なんで」


相馬は階段の下まで来て、真帆を見た。


「どうしたんですか、そんなところで」

「別に」

「別にって顔じゃない」

「また顔」

「今日は顔の日ですね」

「何それ」

「知らないですけど」


早苗が少し笑ってから言う。


「真帆さん、今から肉じゃがもらうところなんです」

「いいな」

「何で相馬さんが言うんですか」

「いや、いいなと思って」

「相馬さんにはないです」

「何で」

「今からコンビニ行くから」

「理不尽だ」

「理不尽ではないです」

「じゃあ、僕も豆腐食べた顔すればよかった」

「遅いです」

「そうか」


そのやりとりに、真帆はまた笑った。


少しして、片岡が一〇二号室から出てきた。

Tシャツに長ズボン、手には小さな封筒を持っている。ポストを見に来たらしい。階段の下に人が集まっているのを見て、少しだけ足を止めた。


「こんばんは」

「こんばんは」

「こんばんは」

「こんばんは」


四人になると、廊下の空気が少し変わる。

騒がしいわけではないのに、静けさの質が変わる。


「何してるんですか」

と片岡が聞く。

「肉じゃが待ちです」

と真帆が言う。

「何ですかそれ」

「私もよくわかってないです」

「早苗さんがくれるんです」

と相馬が補足する。

「相馬さんにはあげません」

「まだ言う」

「言います」

「厳しいな」

「当然です」


片岡は少しだけ口元をゆるめた。


「いいですね」

「片岡さんも食べます?」

と早苗が聞く。

「え」

「多いので」

「いや、でも」

「じゃあ決まりですね」

と真帆が言う。

「何でですか」

「流れです」

「流れ強いな」

「若草荘なんで」

「そんなルールありましたっけ」

「今できました」


そのとき、一〇三号室の中から美空の泣きそうな声がした。


「おかあさーん……」


早苗がすぐに振り返る。


「起きた」

「早い」

と真帆。

「肉じゃがの気配を感じたのかも」

と相馬。

「そんな犬みたいに」

と早苗。

「ユイと同じですね」

と真帆。

「一緒にしないでください」

「でもちょっとわかる」

「わかるんだ」


早苗は苦笑して、「ちょっと待っててください」と言って部屋に戻った。


残された三人と一匹。

階段の下の灯り。

夜のぬるい空気。

遠くで走る車の音。


相馬がコンビニへ行くのをやめて、その場に残った。

片岡はポストを見たあとも、なぜか部屋に戻らなかった。

真帆は手すりにもたれたまま、少しだけ楽になっている自分に気づいていた。


部屋に一人でいると、冷蔵庫の音ばかりが大きくなる夜がある。

でも、廊下に出れば、誰かの声がする。

それだけで、同じ夜が少し違って見える。


やがて早苗が戻ってきた。

片手にタッパーを二つ持っている。

後ろには、半分眠ったままの美空もいた。


「すみません、お待たせしました」

「起きちゃったんですね」

と真帆。

「起きました」

「にくじゃが?」

と美空が言う。

「そう、肉じゃが」

「たべる」

「だめ、もう歯みがきした」

「ちょっとだけ」

「だめ」

「ちょっとだけ」

「だめ」

「ちょっと……」

「だめ」

「強い」

と相馬が言う。

「母は強いんです」

と真帆が返す。


早苗は真帆にひとつ、片岡にひとつタッパーを渡した。


「え、僕もですか」

「はい」

「ありがとうございます」

「いえ、ほんとに多かったので」

「じゃあ、ありがたく」

「相馬さんは」

「ないんですね」

「ないです」

「知ってました」

「今から行ってきてください、コンビニ」

「はい……」


でも相馬は、少し笑っていた。


美空は眠そうな目でユイを見た。


「ユイもにくじゃがたべる?」

「だめ」

と早苗。

「なんで」

「味ついてるから」

「そっか」

「そっかです」

「じゃあ、みるだけ」

「見るだけなら」


美空は満足したようにうなずいた。


その夜、真帆は部屋に戻って、もらった肉じゃがを小皿に移した。

じゃがいもは少し崩れていて、にんじんはやわらかくて、味がちゃんとしみていた。さっき食べた適当な豆腐炒めとは、まるで違う夕飯みたいだった。


一口食べる。

あたたかい。

ちゃんと誰かが作った味がする。


冷蔵庫の音は、まだしていた。

でも、さっきほど気にならなかった。


部屋の中にある機械の音より、

廊下で交わした会話のほうが、

今は少しだけ大きく残っている。


真帆は小さく息をついて、もう一口食べた。


若草荘では、ときどきこういう夜がある。

何でもない顔をして、

誰かがゴミを出しに来て、

誰かがコンビニへ行こうとして、

誰かがポストを見に出てきて、

そのついでみたいに、少しだけ同じ場所に立つ。


それだけのことなのに、

一人で聞く冷蔵庫の音は、

少しだけ遠くなる。


階段の下で、ユイが耳を動かした。


夜の若草荘は静かだった。

でも、その静けさはもう、

ただ一人きりの静けさではなかった。


誰もいないわけではない。部屋の灯りはついているし、どこかでテレビの音もしている。水道の音や、床を歩く気配もある。それなのに、建物全体がひとつ息をひそめたみたいに感じる時間がある。


その夜は、そういう静けさだった。


真帆は仕事から帰ってきて、制服を脱ぎ、髪をほどき、冷蔵庫を開けた。

中には、昼に買っておいた豆腐と、半分残った麦茶と、早苗にもらったきゅうりの浅漬けが入っている。ほかには、卵が二つと、使いかけのチューブのしょうが。生活はできるけれど、あまり豊かではない中身だった。


「何食べよう……」


声に出してみても、答える人はいない。


冷蔵庫のモーター音が、ぶうん、と小さく鳴っている。

その音だけが、やけに耳についた。


真帆は豆腐を取り出して、しばらく見た。

冷ややっこで済ませるには少しさびしい。

でも、今から何かちゃんと作る気力もない。


結局、フライパンを出して、卵と豆腐で適当な炒めものを作ることにした。

味つけはしょうゆと塩だけ。悪くはないが、誰かに出せるものではない。自分ひとりなら十分、という感じの夕飯だった。


食べながら、真帆は冷蔵庫の音をまた聞いていた。


静かな部屋では、ああいう生活の機械音が急に大きくなる。

エアコンの風。

換気扇。

冷蔵庫。

洗濯機の終わったあとの沈黙。


一人暮らしをしていると、そういう音が部屋の一部になる。

慣れているはずなのに、疲れている日は妙に気になる。


食べ終わって、皿を流しに置いて、麦茶を飲む。

それでもまだ眠るには早い時間だった。


真帆は何となく部屋のドアを開けて、廊下に出た。


夜の空気は少しぬるい。

階段の下には、いつものようにユイがいた。灯りの届くぎりぎりのところで伏せている。真帆は手すりにもたれて、その姿を見た。


「静かだね」


ユイは耳だけ動かした。


一〇三号室のドアが少し開いて、早苗が顔を出した。

ゴミ袋を持っている。


「あ、こんばんは」

「こんばんは」

「今帰りですか」

「少し前に」

「お疲れさまです」

「早苗さんも」

「ありがとうございます」


早苗は階段の下まで来て、ゴミ袋を持ち直した。


「美空、やっと寝ました」

「今日は遅かったんですか」

「昼寝しちゃって」

「ああ」

「夕方から元気で」

「ありますよね」

「あります」

「お母さんにはつらいやつ」

「つらいやつです」


二人で少し笑う。


「真帆さん、何か食べました?」

「え」

「いや、何となく」

「食べましたけど」

「ちゃんと?」

「……ちゃんとは微妙です」

「やっぱり」

「何でわかるんですか」

「顔」

「今日、みんな顔で判断してくる」

「わかりやすいんですよ」

「そんなに」

「そんなにです」


早苗は少し迷ってから言った。


「うち、肉じゃがあるんですけど」

「え」

「多めに作っちゃって」

「この前も聞いた気がする」

「たぶん気のせいじゃないです」

「ですよね」

「もしよかったら、あとで持っていきます」

「いや、そんな」

「遠慮しないでください」

「でも」

「真帆さん、たぶん豆腐とか食べた顔してる」

「何でわかるんですか」

「当たった」

「当たりました」

「やっぱり」

「すごいな」

「何となくです」


真帆は笑ってしまった。


「じゃあ、お言葉に甘えます」

「よかった」

「ありがとうございます」

「いえ」


早苗がゴミを出しに行って戻ると、今度は二〇三号室のドアが開いた。

相馬がコンビニ袋を持って出てくる。


「こんばんは」

「こんばんは」

「今からですか」

と早苗が聞く。

「ちょっと飲み物だけ」

「夜に?」

「夜だからです」

「便利な言い方」

「便利なんで」


相馬は階段の下まで来て、真帆を見た。


「どうしたんですか、そんなところで」

「別に」

「別にって顔じゃない」

「また顔」

「今日は顔の日ですね」

「何それ」

「知らないですけど」


早苗が少し笑ってから言う。


「真帆さん、今から肉じゃがもらうところなんです」

「いいな」

「何で相馬さんが言うんですか」

「いや、いいなと思って」

「相馬さんにはないです」

「何で」

「今からコンビニ行くから」

「理不尽だ」

「理不尽ではないです」

「じゃあ、僕も豆腐食べた顔すればよかった」

「遅いです」

「そうか」


そのやりとりに、真帆はまた笑った。


少しして、片岡が一〇二号室から出てきた。

Tシャツに長ズボン、手には小さな封筒を持っている。ポストを見に来たらしい。階段の下に人が集まっているのを見て、少しだけ足を止めた。


「こんばんは」

「こんばんは」

「こんばんは」

「こんばんは」


四人になると、廊下の空気が少し変わる。

騒がしいわけではないのに、静けさの質が変わる。


「何してるんですか」

と片岡が聞く。

「肉じゃが待ちです」

と真帆が言う。

「何ですかそれ」

「私もよくわかってないです」

「早苗さんがくれるんです」

と相馬が補足する。

「相馬さんにはあげません」

「まだ言う」

「言います」

「厳しいな」

「当然です」


片岡は少しだけ口元をゆるめた。


「いいですね」

「片岡さんも食べます?」

と早苗が聞く。

「え」

「多いので」

「いや、でも」

「じゃあ決まりですね」

と真帆が言う。

「何でですか」

「流れです」

「流れ強いな」

「若草荘なんで」

「そんなルールありましたっけ」

「今できました」


そのとき、一〇三号室の中から美空の泣きそうな声がした。


「おかあさーん……」


早苗がすぐに振り返る。


「起きた」

「早い」

と真帆。

「肉じゃがの気配を感じたのかも」

と相馬。

「そんな犬みたいに」

と早苗。

「ユイと同じですね」

と真帆。

「一緒にしないでください」

「でもちょっとわかる」

「わかるんだ」


早苗は苦笑して、「ちょっと待っててください」と言って部屋に戻った。


残された三人と一匹。

階段の下の灯り。

夜のぬるい空気。

遠くで走る車の音。


相馬がコンビニへ行くのをやめて、その場に残った。

片岡はポストを見たあとも、なぜか部屋に戻らなかった。

真帆は手すりにもたれたまま、少しだけ楽になっている自分に気づいていた。


部屋に一人でいると、冷蔵庫の音ばかりが大きくなる夜がある。

でも、廊下に出れば、誰かの声がする。

それだけで、同じ夜が少し違って見える。


やがて早苗が戻ってきた。

片手にタッパーを二つ持っている。

後ろには、半分眠ったままの美空もいた。


「すみません、お待たせしました」

「起きちゃったんですね」

と真帆。

「起きました」

「にくじゃが?」

と美空が言う。

「そう、肉じゃが」

「たべる」

「だめ、もう歯みがきした」

「ちょっとだけ」

「だめ」

「ちょっとだけ」

「だめ」

「ちょっと……」

「だめ」

「強い」

と相馬が言う。

「母は強いんです」

と真帆が返す。


早苗は真帆にひとつ、片岡にひとつタッパーを渡した。


「え、僕もですか」

「はい」

「ありがとうございます」

「いえ、ほんとに多かったので」

「じゃあ、ありがたく」

「相馬さんは」

「ないんですね」

「ないです」

「知ってました」

「今から行ってきてください、コンビニ」

「はい……」


でも相馬は、少し笑っていた。


美空は眠そうな目でユイを見た。


「ユイもにくじゃがたべる?」

「だめ」

と早苗。

「なんで」

「味ついてるから」

「そっか」

「そっかです」

「じゃあ、みるだけ」

「見るだけなら」


美空は満足したようにうなずいた。


その夜、真帆は部屋に戻って、もらった肉じゃがを小皿に移した。

じゃがいもは少し崩れていて、にんじんはやわらかくて、味がちゃんとしみていた。さっき食べた適当な豆腐炒めとは、まるで違う夕飯みたいだった。


一口食べる。

あたたかい。

ちゃんと誰かが作った味がする。


冷蔵庫の音は、まだしていた。

でも、さっきほど気にならなかった。


部屋の中にある機械の音より、

廊下で交わした会話のほうが、

今は少しだけ大きく残っている。


真帆は小さく息をついて、もう一口食べた。


若草荘では、ときどきこういう夜がある。

何でもない顔をして、

誰かがゴミを出しに来て、

誰かがコンビニへ行こうとして、

誰かがポストを見に出てきて、

そのついでみたいに、少しだけ同じ場所に立つ。


それだけのことなのに、

一人で聞く冷蔵庫の音は、

少しだけ遠くなる。


階段の下で、ユイが耳を動かした。


夜の若草荘は静かだった。

でも、その静けさはもう、

ただ一人きりの静けさではなかった。


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