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第二十四話 古い鍵

朝、玄関の前で鍵が回らなかった。


最初は、ただ少し引っかかっただけだと思った。

真帆はいつものように二〇一号室のドアの前に立って、仕事へ行く前の慌ただしい手つきで鍵を差しこんだ。けれど、いつもなら軽く回るはずの感触が、その日は途中で止まった。


「あれ」


もう一度やる。

差しこむ。

回す。

止まる。


力を入れすぎると折れそうで怖い。古い鍵は、見た目よりずっと頼りない。真帆は一度抜いて、鍵穴をのぞきこんだ。何か見えるわけでもないのに、そうしたくなる。


廊下には朝の光が薄く差していた。

一階からは、美空の声が聞こえる。

どこかで水道の音もする。


「うそでしょ……」


小さくつぶやいて、もう一度だけ試す。

やっぱり回らない。


そのとき、一〇三号室のドアが開いた。

早苗がゴミ袋を持って出てきて、階段の途中で真帆に気づく。


「おはようございます」

「おはようございます」

「どうしました?」

「鍵が」

「え」

「回らなくて」

「大丈夫ですか」

「大丈夫ではないです」

「ですよね」


早苗は階段を上がってきた。

真帆の手元をのぞきこむ。


「古いですもんね」

「そうなんですよ」

「昨日までは普通でした?」

「普通でした」

「急に?」

「急にです」

「困りますね」

「困ります」


二人で鍵穴を見る。

見たところで何もわからない。


「ちょっと貸してもらってもいいですか」

「え、できます?」

「いや、できるかわからないですけど」

「お願いします」


早苗が鍵を受け取って、そっと差しこむ。

少しだけ上下に動かしてから、ゆっくり回す。

だめだった。


「だめですね」

「ですよね」

「すみません」

「いや、早苗さんのせいじゃないです」

「でも何か、できそうな顔してたので」

「してました?」

「してました」

「だめでした」

「だめでしたね」


そのとき、下から美空の声がした。


「おかあさーん」

「はいはい」

「なにしてるの」

「鍵が困ってるの」

「かぎ?」

「そう」

「こわれた?」

「たぶん」

「たいへん」

「たいへんです」


美空が階段の下から見上げている。

状況はよくわかっていないが、ただならぬことだけは伝わっているらしい。


二〇三号室のドアが開いたのは、その少しあとだった。

相馬が寝ぐせのついたまま顔を出す。


「おはようございます……って、どうしたんですか」

「鍵が回らないんです」

と真帆。

「え」

「古い鍵」

と早苗。

「うわ、嫌なやつだ」

「嫌なやつです」

「閉まったまま?」

「閉まったままです」

「中には入れる?」

「今、中から出たところなんで、部屋には入れます」

「じゃあ、閉められない感じか」

「そうです」

「それは困る」


相馬も階段を上がってきた。

鍵を見て、ドアノブを見て、少し考える。


「こういうの、ちょっと持ち上げながら回すといけたりしません?」

「それ、昔のゲーム機みたいな言い方」

と真帆。

「でも、たまにありますよ」

「やってみます?」


真帆がドアノブを少し持ち上げて、鍵を回す。

少しだけ動いた気がした。


「あ」

「いける?」

「いや、気のせいかも」

「いちばん困るやつ」

「でも、もう一回」


もう一度やる。

少し持ち上げる。

ゆっくり回す。


こん、と小さな音がして、鍵が回った。


「あっ」

「回った!」

と相馬。

「すごい」

と早苗。

「なおった?」

と下から美空。


真帆は鍵を抜いて、少しだけ呆然とした。


「回った……」

「よかった」

「相馬さん、すごい」

「いや、たまたまです」

「でもすごい」

「ゲーム機みたいとか言ったのに」

「ごめんなさい」

「いいですけど」


三人で少し笑う。


けれど、真帆はもう一度鍵を差しこんでみた。

今度は、また少し引っかかった。


「……だめだ、やっぱり危ない」

「ですね」

と早苗。

「今日は閉めないほうがいいかも」

と相馬。

「でも仕事」

「大家さんに言ったほうがいいですね」

「そうします」


真帆はスマホを取り出して、三浦に連絡を入れた。

電話はすぐにはつながらず、短いメッセージだけ送る。


鍵が回りにくいです。今日見てもらえますか。


送ってすぐ、既読はつかなかった。


「返事きますかね」

「三浦さんだからなあ」

と相馬。

「来るときは来るし、来ないときは来ない」

「便利な言い方」

「便利なんで」

「最近それ多いですね」

「使いやすいので」


真帆は少しだけ笑ったが、内心は落ち着かなかった。

古い建物に住んでいると、こういう小さな不具合が急に生活の真ん中へ入ってくる。

昨日まで普通だったものが、今日いきなり普通じゃなくなる。


それは少し、怖い。


仕事へ行く時間が近づいてきたので、真帆は結局、その日は鍵をかけずに出ることにした。

貴重品だけバッグに入れて、部屋の中を一度見回す。

開けっぱなしの部屋を置いていくのは落ち着かない。


階段を下りると、美空が待っていた。


「なおった?」

「半分だけ」

「はんぶん?」

「うん、ちょっとだけ」

「じゃあ、だいじょうぶ?」

「……たぶん」

「たぶんか」

「たぶんです」

「じゃあ、きをつけて」

「ありがとう」

「かぎ、がんばって」

「鍵に言っとく」

「うん」


その言い方に、真帆は少しだけ救われた。


昼すぎ、真帆が仕事をしているあいだに、三浦は若草荘へ来たらしかった。


夕方、戻ってくると、二〇一号室のドアノブに小さな紙が挟まっていた。


見たら連絡しろ。


それだけだった。

字は雑で、用件しかない。


真帆が苦笑していると、ちょうど一〇三号室のドアが開いた。

早苗が顔を出す。


「あ、帰ってきた」

「何かありました?」

「三浦さん、昼に来てました」

「ほんとですか」

「鍵、見てくれたみたいです」

「どうでした?」

「部品が古いから、しばらく気をつけて使えって」

「しばらく」

「あと、強く回すなって」

「それはわかる」

「明日また来るそうです」

「そうなんだ」

「珍しくちゃんと説明してました」

「珍しい」

「珍しかったです」


そのとき、門の外で軽トラックの音がした。


「あ」

と早苗が言う。

「噂をすれば」

と真帆が言う。


三浦が入ってくる。

作業着のまま、いつもの顔で、でも手には小さな工具箱を持っていた。


「帰ってたか」

「今です」

「鍵、貸せ」

「早いですね」

「近く通っただけだ」

「ほんとかな」

「ほんとだ」


三浦は二〇一号室の前に立って、鍵を受け取った。

差しこんで、少し回して、眉をしかめる。


「古いな」

「知ってます」

「知ってるならもっと早く言え」

「昨日まで普通だったんです」

「機械は昨日まで普通でも今日だめになる」

「それはそうですけど」

「そういうもんだ」


三浦は工具箱を開けて、ドアノブの金具を少し外した。

金属のこすれる音が、夕方の廊下に小さく響く。


そのあいだに、相馬も二〇三号室から出てきた。

片岡も一〇二号室から顔を出す。

何となく、みんな集まってくる。


「修理ですか」

と相馬。

「見りゃわかるだろ」

と三浦。

「ですよね」

「直りますか」

と真帆。

「応急処置だ」

「応急なんだ」

「部品ごと替えるなら注文だ」

「そんな大ごと」

「古いからな」

「古いですね」

と片岡が静かに言う。

「片岡さんまで」

「事実なので」


三浦はしばらく無言で作業していたが、やがて鍵を差しこんで回した。

今度は、するりと動いた。


「お」

と相馬。

「すごい」

と早苗。

「なおった?」

と美空。

「今はな」

と三浦。


真帆が試してみる。

たしかに、朝よりずっと軽い。


「すごい」

「一時的だ」

「でもすごいです」

「そうか」

「ありがとうございます」

「礼はいい」

「でも」

「家賃払え」

「払ってます」

「ならいい」


その言い方に、みんな少し笑った。


三浦は工具をしまいながら、ドアを軽く叩いた。


「古い鍵はな、無理に回すと余計だめになる」

「はい」

「引っかかったら、一回戻せ」

「はい」

「焦るな」

「……はい」

「朝は焦りますよね」

と相馬が言う。

「焦る」

と真帆も言う。

「でも焦ると壊す」

と三浦。

「正論」

と真帆。

「当たり前だ」


夕方の廊下に、少しだけやわらかい空気が流れた。


鍵ひとつのことで、朝はあんなに困ったのに、夜にはこうしてみんなで立っている。

大した事件ではない。

でも、生活というのは、こういう小さな不具合で簡単に揺れる。


そして、そのたびに誰かが顔を出す。


早苗が最初に気づいて、

相馬が持ち上げながら回す方法を言って、

三浦が工具箱を持ってきて、

片岡が少し離れたところで見ている。

美空は「なおった?」と何度も聞く。


若草荘は古い。

だから、たぶんこれからもいろいろある。


電球が切れる日もあるだろうし、

雨どいが詰まる日もあるかもしれない。

どこかの窓が閉まりにくくなることもある。


でも、そのたびに少しずつ、

この建物の住み方みたいなものができていく。


真帆は鍵を手のひらにのせて見た。

銀色はところどころくすんでいて、新しくはない。

でも、今日一日で少しだけ違って見える。


古い鍵は、頼りない。

けれど、ちゃんと回れば、ちゃんと帰れる。


階段の下で、ユイが耳を動かした。


夕方の若草荘には、

工具の金属音と、

子どもの声と、

「なおった?」という問いと、

少し安心した笑い声が残っていた。


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