第二十五話 行ってきます
朝から、暑かった。
まだ八時前だというのに、若草荘の廊下にはもう夏の熱がうっすらたまっていた。外の光は強く、向かいの家の屋根が白く照っている。風はあるのにぬるくて、涼しいとは言えない。
相馬は二〇三号室の前で、ネクタイを締め直していた。
鏡は部屋の中にあるのに、なぜか一度外へ出てから気になった。襟元が少し曲がっている気がする。結び目も、何となく大きい。スーツなんて何度着ても慣れない。特に夏はだめだ。着た瞬間から、もう帰りたくなる。
「暑……」
小さくつぶやいて、もう一度ネクタイを触る。
そのとき、一〇三号室のドアが開いた。
早苗がゴミ袋を持って出てきて、階段の途中で足を止めた。
「あ」
「おはようございます」
と相馬が言う。
「おはようございます」
早苗は少し目を丸くした。
「今日は、ちゃんとしてますね」
「その言い方ひどくないですか」
「すみません、でも」
「わかります」
「面接ですか?」
「はい」
「そうなんだ」
「朝からです」
「暑いのに」
「ほんとに」
「大変ですね」
「大変です」
そのやりとりを聞きつけたのか、美空が一〇三号室の中から顔を出した。
「そうまさん?」
「おはよう」
「なんで、きょう、くろいの」
「黒いの?」
「おようふく」
「ああ、スーツね」
「すーつ?」
「そう」
「なんで?」
「大事な用事があるから」
「おしごと?」
「そうなるためのやつ」
「……?」
「難しいよね」
「むずかしい」
「でも、がんばる日」
と早苗が言った。
「がんばるひ?」
「うん」
「そうまさん、がんばるの?」
「がんばります」
「えらい」
「ありがとう」
美空は少し考えてから、相馬の足元を見た。
「くつも、ちゃんとしてる」
「今日は全部ちゃんとしてるよ」
「すごい」
「そんなに?」
「いつもとちがう」
「それはそう」
相馬が苦笑すると、二階の廊下の奥でドアが開く音がした。
二〇一号室から真帆が出てくる。髪はまだ少し乾ききっていなくて、片手に小さなバッグを持っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
真帆は相馬の姿を見て、一瞬だけ目を細めた。
「……面接?」
「はい」
「やっぱり」
「やっぱりって何ですか」
「顔」
「また顔」
「今日はわかりやすい」
「そんなにですか」
「そんなにです」
「みんな顔で判断するなあ」
「便利だから」
「それ、僕の台詞なんですけど」
真帆は少し笑った。
「何時から?」
「十時です」
「じゃあ、そろそろ?」
「そうですね」
「暑そう」
「もうすでに暑いです」
「夏のスーツ、罰ゲームみたいだよね」
「ほんとにそうです」
「でも、似合ってますよ」
と早苗が言う。
「え」
「ちゃんとして見える」
「ちゃんとしてます」
と美空。
「ありがとう」
「なんか、先生みたい」
「先生?」
「それはちょっと嬉しいかも」
「そうなんだ」
「悪くないです」
そのとき、一〇二号室のドアも開いた。
片岡が静かに出てきて、廊下の空気を見たみたいに少し足を止める。
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはよう」
片岡の視線が相馬のスーツに向く。
「面接ですか」
「はい」
「そうですか」
「はい」
「暑いですね」
「そこですか」
「大事です」
「大事ですけど」
「でも、がんばってください」
「……ありがとうございます」
片岡の言い方は静かだったが、ちゃんとまっすぐだった。
相馬は少しだけ背筋を伸ばした。
階段の下では、ユイがいつもの場所にいた。
朝の光の届かない影の中で伏せている。耳だけが動いていた。
若草荘の朝は、いつもならもっとばらばらだ。
出る時間も違うし、会わない日もある。
でもその朝は、たまたま少しずつ重なっていた。
早苗がゴミを持っていて、
美空が裸足で顔を出していて、
真帆が出勤前で、
片岡が静かに立っている。
その真ん中に、自分がスーツ姿でいる。
相馬は何となく落ち着かない気持ちになった。
見られているからではない。
見送られそうだからだ。
そういうのに、まだ少し慣れていない。
「じゃあ……行ってきます」
と相馬が言った。
言ってから、自分で少し驚いた。
普段、そんなことはあまり言わない。
誰に向けたのかも、よくわからない。
けれど、すぐに返事が返ってきた。
「行ってらっしゃい」
と早苗。
「いってらっしゃい」
と美空。
「行ってらっしゃい」
と真帆。
片岡も少し遅れて、
「行ってらっしゃい」
と言った。
相馬は一瞬だけ言葉に詰まって、それから、
「……行ってきます」
ともう一度言って、階段を下りた。
門を出るとき、背中が少しだけ軽かった。
面接会場は、駅から少し歩いたところにある雑居ビルの五階だった。
冷房は効いていたが、待合の椅子に座っているだけで背中に汗がにじむ。周りにも同じようなスーツ姿の人が何人かいて、みんな静かにスマホを見たり、書類を見返したりしていた。
相馬も履歴書のコピーを開いたが、文字が頭に入ってこない。
志望動機。
自己PR。
学生時代に力を入れたこと。
何度も考えたはずの言葉が、急に借り物みたいに見える。
名前を呼ばれて、立ち上がる。
ドアの前で一度だけ息を吸う。
大丈夫、と言うほどの自信はない。
でも、逃げたいほどでもない。
前よりは、少しだけましだった。
部屋に入って、座って、話す。
聞かれたことに答える。
うまく言えた気もするし、言えていない気もする。
面接というのはいつもそうだ。終わった瞬間に、よかったところより、変な間や言い直したところばかり思い出す。
ビルを出ると、昼の光が強かった。
相馬は駅までの道を歩きながら、ネクタイを少しゆるめた。
暑い。
喉が渇く。
コンビニで冷たいお茶を買って、一気に半分飲む。
手応えは、わからなかった。
だめだったとも言い切れないし、うまくいったとも思えない。
でも、前みたいに、終わった瞬間に全部嫌になる感じはなかった。
少なくとも、ちゃんと最後まで話した。
ちゃんと座って、ちゃんと帰ってきた。
それだけでも、今日は悪くないのかもしれない。
夕方、若草荘に戻ると、建物の影が少し長くなっていた。
門をくぐる。
階段の下にユイがいる。
一〇三号室の中から、美空の声がする。
どこかで水道の音もする。
いつもの夕方だった。
それなのに、朝とは少し違って見えた。
相馬が階段を上がると、一〇三号室のドアが開いた。
美空が先に出てきて、その後ろから早苗が顔を出す。
「あっ」
と美空が言う。
「おかえりなさい」
と早苗が言う。
「ただいまです」
と相馬が言う。
美空は相馬の顔をじっと見た。
「どうだった?」
早い。
まっすぐすぎる。
相馬は少し笑った。
「どうだったと思う?」
「うーん……」
美空は本気で考えた。
「ちゃんとした」
「何それ」
「ちゃんとしてた?」
「たぶん、してた」
「じゃあ、だいじょうぶ」
「その理屈、好きだな」
「だいじょうぶ?」
「……まだわかんない」
「そっか」
「でも、がんばった」
「えらい」
「ありがとう」
そのやりとりを聞いていたのか、二〇一号室のドアが開いた。
真帆が仕事へ行く前らしく、髪をまとめながら出てくる。
「おかえり」
「ただいまです」
「どうだった?」
「美空ちゃんと同じこと聞く」
「聞くでしょ」
「まあ……普通でした」
「普通か」
「たぶん」
「いちばん判断に困るやつ」
「そうなんですよ」
「でも、顔は朝よりまし」
「また顔」
「今日は顔の日だから」
「まだ続いてたんだ」
真帆は少し笑って、それから言った。
「ちゃんと行って、ちゃんと帰ってきたなら、今日はそれで十分じゃない?」
「……」
「結果はあとでついてくるかもしれないし、来ないかもしれないけど」
「厳しい」
「現実的」
「でも、そうですね」
「うん」
「ありがとうございます」
そのとき、二〇三号室の向かい、一〇二号室のドアが開いた。
片岡が出てくる。手には小さな封筒を持っていた。ポストを見に行くところらしい。
「おかえりなさい」
「ただいまです」
「どうでしたか」
「普通でした」
「そうですか」
「はい」
「それなら、たぶん大丈夫です」
「え」
「本当にだめだった日は、普通とは言わないので」
「……」
「たしかに」
と真帆が言う。
「それはそうかも」
「片岡さん、たまに鋭い」
「たまにじゃないです」
「失礼しました」
相馬は少しだけ笑った。
たしかに、前に落ちたときは、もっとはっきり落ち込んでいた。
普通、なんて言い方はしなかった。
何もかもだめだった気がして、部屋に戻っても気持ちがざらざらしていた。
今日はそこまでではない。
それがいい兆しかどうかはわからない。
でも、少なくとも前とは違う。
早苗が言う。
「夕飯、まだですよね」
「え」
「もしよかったら、うち、今日はカレーなんですけど」
「またですか」
「またです」
「このアパート、面接の日に優しいな」
「たまたまです」
「でも、ありがたいです」
「じゃあ、あとで少し持っていきます」
「すみません」
「いいんです」
「がんばった日だから」
と美空が言う。
「そういうことにしてくれる?」
「うん」
「ありがとう」
相馬は部屋の鍵を開けながら、少しだけ息をついた。
朝、ここを出るときは、スーツの暑さばかり気になっていた。
ネクタイが苦しいとか、ちゃんとして見えるかとか、変なことばかり考えていた。
でも今は、帰ってきたときに「おかえり」と言われることのほうが、ずっと大きく残っている。
若草荘に来たばかりのころは、こんなふうに誰かに面接のことを知られるのも、少し嫌だったかもしれない。
うまくいかなかったときに気まずいし、期待されるのも重い。
けれど今は、少し違う。
踏み込みすぎないのに、気にしてくれる。
結果を決めつけないのに、帰ってきたことを受け止めてくれる。
それはたぶん、家族とは少し違う。
でも、ただの隣人でもない。
部屋に入る前、相馬は一度だけ振り返った。
一〇三号室の前で、美空がまだこちらを見ている。
真帆は出勤の支度をしながら廊下に立っている。
片岡は静かに階段を下りていく。
階段の下では、ユイが耳を動かしている。
建物は古い。
廊下は狭い。
壁も薄い。
でも、こういう日に帰ってくるには、悪くない場所だった。
相馬はドアを開けて、部屋に入った。
ネクタイをゆるめる。
冷房のない空気はまだ少し暑い。
それでも、朝よりずっと息がしやすかった。
今日の結果は、まだ出ない。
たぶん明日でもない。
けれど、行って、帰ってきた。
そのあいだに、ちゃんと一日があった。
若草荘では、そういう一日が少しずつ人を強くしていくのかもしれなかった。
夕方の廊下に、
「行ってきます」と
「行ってらっしゃい」と
「おかえりなさい」が、
まだやわらかく残っていた。




