第二十六話 返事の来ない日
返事が来ない日は、時間の進み方が少しおかしくなる。
朝のうちは、まだ平気だ。
どうせすぐには来ないだろうと思えるし、昨日の面接だって、結果は後日連絡すると言われていた。今日一日くらい、何もなくても普通だ。そう考えれば、それなりに落ち着いていられる。
けれど昼を過ぎて、夕方が近づいて、それでもスマホが静かなままだと、だんだん何をしていても気になるようになる。
相馬は二〇三号室のベッドに寝転がって、天井を見ていた。
スマホは胸の上にある。
画面は暗い。
通知はない。
さっきから何度も見ているのに、見るたびに何か増えているわけでもない。天気アプリの更新と、どうでもいい広告と、ニュースの通知が一件。肝心のものは来ない。
「来るわけないか……」
声に出してみる。
出したところで、少しも落ち着かない。
昨日の面接を思い返す。
受け答えは、たぶん悪くなかった。
でも、よかったとも言い切れない。
あの質問、もう少し違う言い方があったかもしれない。
最後の逆質問、あれでよかったのか。
笑えていたか。
固すぎなかったか。
考え始めると、いくらでも出てくる。
相馬は起き上がって、冷蔵庫を開けた。
麦茶を飲む。
冷たい。
でも、喉の渇きとは少し違うところが落ち着かない。
廊下の向こうで、ドアの開く音がした。
一〇三号室だろうか。
続いて、美空の声が聞こえる。
「おかあさん、これなに」
「きゅうり」
「みどり」
「そうだね」
「きのうもみどりだった」
「きゅうりはだいたい緑だよ」
「そっか」
そのやりとりに、相馬は少しだけ笑った。
笑ったあとで、またスマホを見る。
何もない。
こういう日は、部屋にいると余計だめだ。
何かしていたほうがいい。
そう思って、相馬は財布を持って外へ出た。
階段の下には、ユイがいた。
いつもの場所で伏せている。
相馬が通ると、耳だけ動かした。
「お前は気楽でいいな」
もちろん返事はない。
門を出ようとしたところで、二〇一号室のドアが開いた。
真帆が出てくる。今日は休みらしく、Tシャツにゆるいパンツ姿だった。
「あれ、出かけるんですか」
「ちょっとコンビニ」
「ふうん」
「相馬さんは?」
「同じです」
「同じか」
「部屋にいても落ち着かなくて」
「……そっか」
真帆はそれ以上聞かなかった。
でも、たぶんわかっている。
「一緒に行きます?」
と相馬が言う。
「いいですよ」
「何か、すみません」
「何で」
「巻きこんだみたいで」
「コンビニくらいなら巻きこまれても平気」
二人で歩き出す。
昼すぎの道は明るくて、暑い。
向かいの家の植木鉢に水がやられていて、土が黒くなっていた。
「来ないですか」
と真帆が言う。
「何がですか」
「返事」
「……来ないです」
「まだ一日だよ」
「わかってます」
「でも気になる?」
「なります」
「だよね」
「真帆さんも、そういうのあります?」
「ある」
「何ですか」
「シフトの連絡とか、研修の結果とか、地味に嫌なやつ」
「地味に嫌なやつ」
「待ってる時間がいちばん長い」
「わかります」
「来たら来たで嫌なこともあるけど」
「それもわかる」
「じゃあ、今はちゃんと嫌な時間だ」
「ちゃんと嫌です」
「よかった」
「よくはないです」
「でも、変じゃないってこと」
「……ああ」
「落ち着かないの、普通だよ」
その言い方に、相馬は少しだけ救われた。
コンビニでは、相馬は冷たいお茶とアイスを買った。
真帆は麦茶のパックと、ヨーグルトと、なぜか小さい袋のポテトチップスを買っていた。
「休みっぽい」
と相馬が言う。
「休みだから」
「ちゃんと休んでる」
「努力してる」
「努力なんだ」
「休むの下手だから」
「知ってます」
「何で」
「見てればわかる」
「最近みんなそれ言うな」
帰り道、二人は特に急がず歩いた。
話すことがなくなっても、気まずくはなかった。
若草荘に戻ると、階段の下で美空がしゃがんでいた。
ユイを見ている。
「ただいま」
と真帆が言う。
「おかえり」
と美空が言う。
それから相馬を見て、
「そうまさんも」
と言った。
「ただいま」
と相馬が返す。
美空は立ち上がって、相馬の顔を見た。
「きた?」
「何が?」
「へんじ」
「……まだ」
「そっか」
「知ってるんだ」
「きのう、がんばるひだったから」
「覚えてたんだ」
「うん」
「ありがとう」
「まだなら、まだだね」
「そうだね」
「じゃあ、まつ」
「一緒に?」
「うん」
「それは心強いな」
一〇三号室の中から、早苗が顔を出した。
「すみません、聞こえちゃって」
「いや、大丈夫です」
「どうですか」
「まだです」
「そうですよね」
「そうですよね、しか言えない」
「でも、そうですよね、なんですよ」
「たしかに」
「今日来るとも限らないし」
「わかってるんですけど」
「わかってても気になる」
「はい」
「ですよね」
早苗も、それ以上は言わなかった。
励ましすぎない。
大丈夫とも言い切らない。
でも、気にしていることはちゃんと伝わる。
夕方になると、空気が少しやわらいだ。
相馬は部屋に戻って、買ってきたアイスを食べた。
スマホは机の上に置いたままにしてみる。
見ないほうがいいと思った。
でも、五分後には見ていた。
何もない。
「だめだな……」
自分で言って、苦笑する。
そのとき、ドアがこんこんと鳴った。
開けると、片岡が立っていた。
手には封筒ではなく、小さな皿がある。
「こんばんは」
「こんばんは」
「これ、もらいものなんですが」
皿の上には、切ったすいかが並んでいた。
「一人だと多いので」
「え、ありがとうございます」
「冷えてます」
「うれしい」
「よかったです」
相馬が皿を受け取ると、片岡は少しだけ視線をずらした。
「……待つの、長いですね」
「え」
「返事」
「ああ」
「聞こえてしまって」
「すみません」
「いえ」
「長いです」
「そうですね」
「片岡さんも、そういうのありました?」
「ありました」
「何のときですか」
「前の仕事の採用のとき」
「どうしてました?」
「待っていました」
「そのままですね」
「そのままです」
「何か、気を紛らわせる方法とか」
「特に」
「ないんだ」
「ないですね」
「厳しい」
「でも」
片岡は少し考えてから言った。
「返事が来ない時間に、自分の価値まで決まるわけではないので」
「……」
「そこを一緒にすると、しんどいです」
「……そうですね」
「待つしかないことは、待つしかないです」
「はい」
「すいか、甘いと思います」
「話の終わり方がやさしい」
「そうですか」
「そうです」
片岡は少しだけ困ったようにうなずいて、自分の部屋へ戻っていった。
相馬は皿を持って部屋に入り、机の上に置いた。
すいかはちゃんと冷えていて、赤いところがきれいだった。
一口食べる。
甘い。
夏の味がする。
スマホはまだ静かだった。
でも、さっきより少しだけ、静けさに押されなくなっていた。
夜になると、真帆が廊下で誰かと話す声がした。
たぶん早苗だろう。
美空の笑う声も混じる。
階段の下では、ユイがいつもの場所にいるはずだ。
返事はまだ来ない。
明日も来ないかもしれない。
来たとしても、いい返事とは限らない。
それでも、今日一日は、ただ待っていただけではなかった。
コンビニへ行って、
美空に「まだだね」と言われて、
早苗に「そうですよね」と言われて、
片岡にすいかをもらった。
大したことではない。
でも、返事の来ない日の長さを、少しだけ分けてもらった気がする。
相馬はもう一度だけスマホを見た。
やっぱり何もなかった。
「まあ、明日か」
そう言って、机に伏せるように置く。
すいかの皿は、もう半分なくなっていた。
冷蔵庫の中には、まだお茶がある。
廊下の向こうには、人の気配がある。
待つしかない夜にも、
若草荘の時間はちゃんと流れていた。
階段の下で、ユイが耳を動かした。
返事の来ない日は長い。
でも、その長さの中で、
少しずつ息をつける場所があるのは、
たぶん悪くなかった。




