第二十七話 夜勤明けの顔
真帆が帰ってきたのは、朝の九時を少し過ぎたころだった。
夏の朝はもう十分に明るくて、若草荘の前の道には白い光が落ちていた。向かいの家の植木鉢には水がやられたばかりらしく、土が濃い色をしている。蝉の声は朝から遠慮がない。
真帆は門をくぐって、少しだけ肩を落とした。
夜勤明けだった。
一晩起きて働いたあとの体は、眠いというより、重い。頭の奥がぼんやりして、足元だけが現実に残っている感じがする。何か大きな失敗をしたわけではない。怒られたわけでもない。けれど、楽な夜ではなかった。
認知症の利用者が、夜中に何度も帰ると言い出した。
別の利用者は、明け方に熱を出した。
記録を書いている途中でナースコールが鳴って、戻ったら何を書いていたのかわからなくなった。
そういう細かいことが重なって、気づけば朝になっていた。
「つかれた……」
声に出すと、少しだけ本当に疲れた感じが増す。
でも、言わないと体の置き場がない。
階段の下には、ユイがいた。
いつもの場所で伏せている。真帆が近づくと、耳だけが動いた。
「ただいま」
犬に言っても仕方ないのに、そう言いたくなった。
そのとき、一〇三号室のドアが開いた。
早苗が洗濯かごを持って出てくる。真帆を見るなり、少し目を細めた。
「おかえりなさい」
「ただいまです」
「夜勤でした?」
「はい」
「お疲れさまです」
「ありがとうございます」
早苗はそれだけ言って、すぐには続けなかった。
でも、真帆の顔を見て、何かを察したのはわかった。
「……大変でした?」
と、少しだけあとから聞く。
真帆は一瞬だけ迷って、
「ちょっと」
と答えた。
「そっか」
早苗はそれ以上、詳しく聞かなかった。
「暑いので、先に部屋入ってください」
「はい」
「洗濯物、あとで静かにします」
「そこまで気をつかわなくて大丈夫です」
「でも、寝るかなと思って」
「寝ます」
「ですよね」
「たぶん一瞬で」
「それがいいです」
そのやりとりだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
二階へ上がると、二〇三号室のドアが少し開いていた。
相馬が顔を出す。寝起きらしく、髪がひどい。
「あ、おかえりなさい」
「ただいまです」
「夜勤明けですか」
「そう」
「……顔、やばいですね」
「ひどい」
「いや、ほんとに」
「知ってる」
「何か、すみません」
「何で相馬さんが謝るの」
「つい」
「ついで謝らないで」
「でも、かなり」
「かなり?」
「かなりです」
「そんなにか」
「そんなにです」
真帆は苦笑した。
笑う元気がまだ残っていたことに、自分で少し驚く。
「面接の返事、来ました?」
と真帆が聞く。
相馬は少しだけ肩をすくめた。
「まだです」
「そっか」
「そっちも大変そうですね」
「そっちもね」
「どっちも嫌な待ち時間」
「たしかに」
「でも、真帆さんのほうがしんどそう」
「今日は認める」
「認めるんだ」
「今日は無理」
「じゃあ、早く寝てください」
「そうします」
部屋に入って、靴を脱いで、バッグを置く。
冷房をつける。
制服を脱ぐ。
顔を洗う。
そこまでは何とかできた。
でも、ベッドに座ったところで、急に動けなくなった。
眠いはずなのに、神経だけがまだ仕事場に残っている。
利用者の声。
ナースコールの音。
記録の途中の文章。
熱を測ったときの体温計の数字。
頭の中で、まだ夜勤が終わっていない。
真帆は枕に顔を押しつけた。
眠りたい。
でも、こういう日はすぐには眠れない。
そのとき、スマホが震えた。
一瞬、仕事先からかと思って心臓が縮む。
でも違った。
相馬からだった。
「起きてたらでいいんですけど、麦茶いります?」
真帆は画面を見て、少しだけ笑った。
返事を打つ。
「いる」
「今持っていきます」
数分後、ドアがこんこんと鳴った。
開けると、相馬がコップではなく、小さめのボトルを持って立っていた。
「寝る前に飲んだほうがいいかなと思って」
「ありがとう」
「冷えすぎてないやつです」
「気が利く」
「今日だけです」
「まだ言う」
「便利なんで」
「便利すぎる」
真帆はボトルを受け取った。
冷たすぎない麦茶が、手にちょうどよかった。
「返事、まだ?」
と真帆が聞く。
「まだです」
「そっか」
「でも、今はそれより真帆さんの顔のほうが気になります」
「そんなに?」
「そんなにです」
「今日、みんな顔の話しかしない」
「顔に全部出てるので」
「困る」
「でも、無理な日は無理って顔してたほうがいいですよ」
「何それ」
「いや、何か」
「変に平気なふりされるより、わかりやすいほうが」
「……」
「こっちも、何かしやすいし」
「何かって、麦茶?」
「今日は麦茶」
「小さいな」
「でも、ないよりいいです」
「それはそう」
真帆は少し黙ってから、
「ありがとう」
と言った。
相馬は少し照れたように、
「どういたしまして」
とだけ言って戻っていった。
麦茶を半分くらい飲んで、真帆はもう一度ベッドに横になった。
さっきより少しだけ、体が自分の部屋に戻ってきた感じがする。
廊下の向こうで、美空の声がした。
何か歌っている。
早苗が「静かに」と言っている。
そのあとで、少しだけ笑い声が混じる。
若草荘の昼前は、完全には静かにならない。
古い建物だから、生活の音はどうしても漏れる。
でも今日は、その音がありがたかった。
一人で部屋にいるのに、完全に一人きりではない感じがする。
うとうとしかけたころ、またドアが鳴った。
今度は早苗だった。
「すみません、起きてました?」
「まだ」
「まだなんだ」
「寝そうで寝ないです」
「ありますよね」
「あります」
早苗は小さな皿を差し出した。
「これ、よかったら」
「何ですか」
「卵焼き」
「え」
「朝ごはんの残りなんですけど」
「うれしい」
「しょっぱいやつです」
「なおうれしい」
「夜勤明けって、甘いのよりしょっぱいほうがいいかなと思って」
「天才」
「そこまででは」
「でも、かなり」
「かなりですか」
「かなりです」
真帆は皿を受け取った。
まだ少しだけあたたかい。
「ありがとうございます」
「いえ」
早苗は少しだけ声を落として言う。
「美空、今日はなるべく静かにさせますね」
「そんな、いいですよ」
「でも、寝られるときに寝てほしいので」
「……ありがとうございます」
「何かあったら言ってください」
「はい」
ドアが閉まったあと、真帆は卵焼きを一切れ食べた。
少ししょっぱくて、やさしい味がした。
空っぽだった胃に、ちゃんと落ちていく感じがする。
そのまま、今度こそ少し眠れた。
目が覚めたのは、午後三時を過ぎたころだった。
冷房の音がしている。
外はまだ明るい。
頭の重さは少しだけましになっていた。
スマホを見ると、仕事先からの連絡はない。
相馬からも来ていない。
それでいいと思った。
廊下に出ると、階段の下で美空がしゃがんでいた。
ユイを見ている。
早苗は洗濯物をたたんでいて、相馬は手すりにもたれてスマホを見ていた。
「あ」
と美空が言う。
「まほさん、おきた」
「起きたよ」
「ねれた?」
「ちょっと寝れた」
「よかった」
「ありがとう」
「しずかにした」
「知ってる」
「えらい?」
「えらい」
「やった」
早苗が振り返る。
「少し顔、戻りましたね」
「また顔」
「今日は顔の日ですかね」
と相馬が言う。
「昨日から続いてる」
と真帆。
「長いな」
「でも、朝より全然いいです」
と早苗。
「卵焼きのおかげです」
「ほんとですか」
「ほんとです」
「よかった」
相馬はスマホを見て、少しだけ息をついた。
真帆が気づく。
「来ない?」
「来ないです」
「そっか」
「返事の来ない日、継続中です」
「継続しなくていいのにね」
「ほんとに」
「でも、今日は私のほうが先にしんどかったから」
「競わないでください」
「勝った気がする」
「何の勝負ですか」
「わからない」
「疲れてますね」
「まだちょっと」
みんな少し笑った。
その笑いの中にいると、真帆は思う。
夜勤はしんどい。
待つ時間もしんどい。
一人で抱えたら、たぶんもっとしんどい。
でも若草荘では、誰かが顔を見て、
「大変でした?」
と聞いて、
麦茶を持ってきて、
卵焼きを差し出して、
子どもが「しずかにした」と胸を張る。
それで全部が解決するわけではない。
疲れは残るし、仕事はまたある。
相馬の返事もまだ来ない。
それでも、人はたぶん、
こういう小さいことで少しずつ持ち直す。
階段の下で、ユイがあくびをした。
午後の光はまだ強かったが、
朝より少しだけやわらかくなっていた。
真帆は手すりに寄りかかって、ゆっくり息をつく。
夜勤明けの体はまだ完全ではない。
でも、帰ってきた顔を見てくれる人がいるだけで、
少しだけ、自分の輪郭が戻ってくる気がした。




