第二十八話 古い写真
午後の光が、廊下の奥まで細く伸びていた。
夏の終わりにはまだ早いが、日差しの角度だけは少しずつ変わってきている。若草荘の二階の廊下は、昼を過ぎると片側だけが明るくなって、もう片側には古い建物らしい薄い影が残る。
片岡は一〇二号室の前にしゃがみこんでいた。
足元には、小さな段ボール箱がある。
部屋の押し入れの奥から出てきたものだった。引っ越してきたとき、とりあえず奥へ入れて、そのまま開けていなかった箱。何が入っているかはだいたい覚えていたが、正確には思い出せない。今日は押し入れの中を少し整理しようと思って、何となくそれを引っぱり出した。
中には、古い書類と、使わなくなった延長コードと、読みかけの文庫本が二冊。
その下に、写真が何枚か入っていた。
片岡は一枚を手に取った。
少し色あせた集合写真だった。
今より若い自分が、スーツ姿で端のほうに立っている。隣には、同じ職場だった人たち。後ろには、見覚えのある会社の看板。たぶん十年以上前だ。
「……若いな」
自分で言っても、あまり実感はない。
ただ、今より少しだけ肩に力が入っている顔をしていた。
そのとき、廊下の向こうから足音がした。
美空だった。
一人で部屋を出てきて、片岡の前で止まる。
「なにしてるの」
「片づけだよ」
「かたづけ?」
「そう」
「それ、なに」
美空の視線は、片岡の手の中の写真に向いていた。
「写真だよ」
「しゃしん」
「昔のだよ」
「むかし?」
「今より前の」
「ちいさいとき?」
「小さくはないよ」
「じゃあ、いつ」
「だいぶ前」
「ふうん」
美空はしゃがみこんで、写真をのぞきこんだ。
「これ、だれ」
「私だよ」
「えっ」
「そんなに驚く?」
「かたおかさん?」
「そうだよ」
「ちがうひとみたい」
「そうかもしれないね」
「わかい」
「今よりは」
「でも、わかい」
「そうだね」
美空は真剣な顔で写真を見ていたが、やがて言った。
「わらってない」
片岡は少しだけ目を伏せた。
「……そうだね」
「なんで?」
「たぶん、緊張してたんだよ」
「しゃしんなのに?」
「写真だから、かもしれないね」
「へんなの」
「へんだね」
そのやりとりを聞いたのか、一〇三号室のドアが開いた。
早苗が顔を出す。
「美空、勝手に出て行かないって」
「あ」
「すみません」
と片岡が言う。
「いえ、こちらこそ」
早苗もきて、箱と写真を見た。
「片づけ中でしたか」
「少しだけ」
「懐かしいもの出てきました?」
「そうですね」
片岡は写真を少し持ち上げた。
「昔の職場の写真です」
「へえ」
早苗はのぞきこんで、少しだけ笑った。
「ほんとだ、若い」
「みんなそう言います」
「でも、今と雰囲気違いますね」
「そうですか」
「今のほうがやわらかいです」
「……」
「え、変なこと言いました?」
「いえ」
「ほんとに?」
「少し意外だっただけです」
「そうなんだ」
そのとき、二〇一号室のドアも開いた。
真帆が洗濯物を取りこもうとしていたらしく、手にハンガーを持っている。
「何してるんですか」
「片岡さんの昔の写真見てる」
と早苗が言う。
「え」
真帆はすぐに近づいてきた。
「見ていいですか」
「どうぞ」
写真を見た真帆は、少し目を丸くした。
「ほんとだ」
「何がですか」
「今より、ちゃんとしてる」
「それも失礼ですね」
「いや、今がちゃんとしてないって意味じゃなくて」
「でも、そう聞こえます」
「ごめんなさい」
「いいです」
「でも、何か」
真帆は写真と今の片岡を見比べた。
「今のほうが話しかけやすいです」
「早苗さんも同じこと言ってました」
「じゃあ、そうなんだ」
「そうなんですかね」
「たぶん」
「たぶんです」
美空がまた写真を指さした。
「これ、しごと?」
「そうだよ」
「なにしてたの」
片岡は少しだけ間を置いた。
「会社で働いてた」
「それは見ればわかる」
と真帆が言う。
「そうですね」
「どんな会社だったんですか」
と早苗が聞く。
片岡は写真を見たまま答えた。
「小さい印刷会社です」
「印刷」
「本とか、チラシとか、そういうものを作る」
「へえ」
と真帆。
「何か、似合う」
「そうですか」
「紙とか、好きそう」
「どういうイメージですか」
「静かなものが似合う」
「印刷会社は意外とうるさいですよ」
「そうなんだ」
「機械の音がずっとします」
「じゃあ、ちょっと意外」
「意外ですね」
「長かったんですか」
と早苗。
「長かったです」
「じゃあ、ずっとそこに?」
「……いえ」
片岡は少しだけ言葉を探した。
「途中で、なくなったので」
「会社が?」
と真帆。
「はい」
「そっか」
早苗が小さく言う。
「大変でしたね」
「そうですね」
片岡はそれ以上、重くならないようにするみたいに、静かに続けた。
「古い会社だったので」
「若草荘みたい」
と真帆が言う。
「一緒にすると怒られますよ」
「誰に」
「会社の人に」
「でも、ちょっとわかる」
と早苗。
「古いけど、ちゃんと使ってきた感じ」
「そうですね」
片岡は少しだけ笑った。
「そういうところは、似ているかもしれません」
そのとき、二〇三号室のドアが開いて、相馬が出てきた。
スマホを見ながら歩いてきて、みんなが集まっているのを見て止まる。
「何ですか」
「片岡さんの昔の写真」
と真帆。
「え、見たい」
「見たいんだ」
「見たいです」
相馬は写真をのぞきこんで、すぐに言った。
「若い」
「またですか」
と片岡。
「でも、ほんとに」
「今日それしか言われてません」
「あと、ちゃんとしてる」
と相馬。
「真帆さんと同じこと言った」
「やっぱりそう見えるんだ」
「今はちゃんとしてないみたいじゃないですか」
「いや、今は」
相馬は少し考えて、
「ちゃんとしてるけど、力が抜けてる」
と言った。
「それ、いい言い方」
と真帆。
「珍しく」
「何で最後に刺すんですか」
「便利だから」
「便利じゃない」
みんな少し笑った。
片岡は写真を見下ろした。
昔の自分は、たしかに今より固い顔をしている。
仕事は嫌いではなかった。
忙しかったし、人づきあいも得意ではなかったが、毎日同じ場所へ行って、同じ機械の音を聞いて、紙の匂いの中で働くのは、嫌いではなかった。
会社がなくなったとき、自分が思っていたよりずっと空っぽになった。
次の仕事を探して、働いて、また辞めて、そうしているうちに、いつのまにか若草荘に来ていた。
誰かに詳しく話したことは、あまりない。
話すほどのことでもないと思っていた。
でも、こうして古い写真一枚から少しだけ言葉にすると、自分の過去が急に遠いものではなくなる。
「片岡さん」
と真帆が言う。
「はい」
「その写真、捨てます?」
「まだ決めてません」
「捨てないほうがいい気がします」
「何でですか」
「何か」
真帆は少し考えてから言った。
「今の片岡さんにつながってる感じがするから」
「……」
「うまく言えないですけど」
「いえ」
片岡は写真を見た。
「そうかもしれません」
「美空ちゃんは?」
と早苗。
「そのしゃしん、すき?」
美空はうなずいた。
「かたおかさん、わらってないから」
「好きな理由が独特」
と相馬。
「でも、いまはちょっとわらう」
と美空。
「そうだね」
と早苗。
「今はね」
「じゃあ、いまのほうがいい」
「それはよかったです」
と片岡。
午後の廊下に、少しだけやわらかい沈黙が落ちた。
誰かの昔を知ると、その人が少しだけ立体的になる。
今ここにいるだけでは見えなかった時間が、その背中の向こうに続いているとわかる。
若草荘に来る前にも、みんなそれぞれ生活していた。
働いて、
失敗して、
続けたり、やめたりして、
ここへ来た。
当たり前のことなのに、近くで暮らしていると、ときどき忘れそうになる。
今見えている顔だけが、その人の全部みたいに思えてしまう。
でも、本当は違う。
片岡は写真を箱に戻さず、しばらく手元に置いていた。
捨てるかどうかは、まだ決めなくていい気がした。
階段の下で、ユイが小さく体勢を変える音がした。
夕方にはまだ少し早い光が、廊下の床に細く伸びている。
古い写真の中の片岡は笑っていなかった。
でも、その写真を囲んでいる今の廊下には、
ちゃんと笑い声があった。
それだけで、昔と今は、
少しやわらかくつながっているように思えた。




