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第二十九話 返事

返事が来たのは、昼すぎだった。


相馬は二〇三号室で、洗ったばかりのTシャツをハンガーにかけていた。窓は開けているが、風はあまり入らない。外では蝉が鳴いていて、向かいの家のテレビの音がかすかに聞こえる。


スマホが震えたとき、最初はまたどうでもいい通知だと思った。


何度も待って、何度も肩透かしを食らっていると、期待する力のほうが先に弱くなる。

だから画面を見た瞬間も、頭は少し遅れていた。


メールの件名を読んで、

一拍おいて、

それから、心臓だけが急に速くなった。


「……来た」


声が出た。


手が少し汗ばんでいる。

画面を開く。

文字を追う。

一行目を読む。

二行目を読む。

最後まで読む。

もう一度、最初から読む。


採用の通知だった。


相馬はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。


うれしい、と思うまでに少し時間がかかった。

先に来たのは、安心だった。

落ちなかった。

まただめだった、ではなかった。

ちゃんと通った。


その事実が、じわじわ体の中に広がっていく。


「……まじか」


今度は少し笑いながら言った。

部屋の中には誰もいない。

でも、誰かに言いたいと思った。


すぐに親へ連絡するべきかもしれない。

大学の友達にも知らせるべきかもしれない。

けれど、その前に頭に浮かんだのは、若草荘の廊下だった。


相馬はスマホを握ったまま、部屋を出た。


階段の下では、ユイがいつもの場所にいた。

相馬が少し早い足取りで下りていくと、耳だけ動かす。


「受かった」


言ってみる。

犬はもちろん何も言わない。

でも、少しだけ本当になった気がした。


そのとき、一〇三号室のドアが開いた。

早苗が買い物袋を持って戻ってきたところだった。美空も一緒で、片手に小さなアイスを持っている。


「あ、おかえりなさい」

と相馬が言ってから、自分で少し変だと思った。

帰ってきたのは向こうだ。


早苗も気づいたらしく、少し笑った。


「ただいまです。どうしました?」

相馬は一瞬だけ迷ったが、迷っている顔のまま言った。


「返事、来ました」

「え」

「どうだったの?」

と美空がすぐに聞く。

相馬は、今度はちゃんと笑った。


「受かりました」

一瞬、早苗の目が丸くなる。

それからすぐに、やわらかくほどけた。


「えっ、ほんとに?」

「はい」

「すごい」

「やった」

と美空が言う。

「やった」

と相馬も言う。

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「よかったですね」

「はい」

「ちゃんとしてたから?」

と美空。

「たぶん、ちゃんとしてたから」

「やっぱり」

「美空ちゃん理論、正しかった」

「せいかい?」

「正解」

「やった!」


美空はアイスを持ったまま、その場で少し跳ねた。

早苗が「落とさない」と言う。


その声を聞いたのか、二〇一号室のドアが開いた。

真帆が顔を出す。今日は遅番らしく、まだ私服だった。


「何ですか」

「相馬さん、受かったって」

と早苗が言う。

「え」

真帆はすぐに廊下へ出てきた。

「ほんとに?」

「ほんとです」

「すごいじゃん」

「ありがとうございます」

「やったね」

「はい」

「よかった」

真帆はそう言って、少しだけ息をついた。

自分のことみたいに安心した顔だった。


「返事来ないってずっと言ってたのに」

「来ました」

「来るときは来るんだ」

「当たり前ですけど」

「でも、よかった」

「はい」


そのとき、一〇二号室から足音がした。

片岡が出てくる。


「こんにちは」

「こんにちは」

「何かありましたか」

と片岡が聞く。

真帆がすぐに言った。

「相馬さん、受かったんです」

片岡は一瞬だけ相馬を見て、それから静かにうなずいた。


「そうですか」

「はい」

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「よかったですね」

「はい」

「ちゃんと帰ってきた甲斐がありましたね」

相馬は少し笑った。

「そこ拾います?」

「大事なことなので」

「たしかに」

と真帆。

「行って、帰ってきたもんね」

「そうですね」

と早苗。

「ちゃんと一日あった」

「ありました」

と相馬。


その言葉を聞いて、相馬は少しだけ胸の奥が熱くなった。


面接の日の朝、

「行ってきます」と言ったこと。

帰ってきたとき、

「おかえりなさい」と言われたこと。

返事の来ない日に、コンビニへ行って、すいかをもらって、待つ時間を少し分けてもらったこと。


全部が、今ここにつながっている気がした。


「お祝いしないと」

と真帆が言う。

「え」

「何か食べたいものある?」

「急ですね」

「こういうのは勢い」

「でも、今日はうち、カレーです」

と早苗。

「また?」

と相馬。

「またです」

「若草荘、節目にカレー出がち」

「いいじゃないですか」

「いいですけど」

「じゃあ、今日はお祝いカレーですね」

と真帆。

「何も変わってない」

「気持ちが違う」

「便利な言い方」

「便利なので」


みんな少し笑った。


美空が相馬の服を引っぱる。


「そうまさん」

「なに?」

「もう、おしごと?」

「すぐじゃないけど、そうなる」

「じゃあ、えらいひと?」

「それはまだ」

「でも、すーつ?」

「また着るかも」

「ちゃんとしてる」

「そこ大事なんだ」

「だいじ」

「そっか」

「でも」

美空は少し考えてから言った。

「いなくなる?」

その場の空気が、ほんの少しだけ静かになった。


相馬はすぐには答えなかった。

早苗も、真帆も、片岡も、何も言わない。


若草荘にいる人たちは、みんな知っている。

就職は、前に進むことだ。

前に進むということは、いつかここを出ることかもしれない。


でも、それはまだ今日の話ではない。


相馬はしゃがんで、美空と目の高さを合わせた。


「すぐじゃないよ」

「ほんと?」

「ほんと」

「まだいる?」

「まだいる」

「そっか」

「でも、仕事は始まる」

「ふうん」

「ちょっと忙しくなるかも」

「じゃあ、ちゃんとしてる?」

「たぶん、今よりは」

「じゃあ、いい」

「それでいいんだ」

「うん」


美空は納得したようにうなずいた。

子どもなりに、全部はわからなくても、今すぐではないことだけは受け取ったらしい。


片岡が静かに言う。


「先のことは、先でいいと思います」

「……そうですね」

と早苗。

「今日は今日だ」

と真帆。

「そうですね」

と相馬。


今日は、返事が来た日だ。

受かった日だ。

まだ何も始まっていないけれど、何かが確かに動き出した日だ。


それだけで十分だった。


夕方になると、早苗が本当にカレーを持ってきた。

「お祝いなので、少し多めです」と言う。

真帆はコンビニで買ってきた小さいプリンを二つ差し出して、「豪華さ担当」と言った。

片岡は「たまたま多く買ったので」と言って麦茶のボトルを置いていった。

たぶん、たまたまではない。


相馬の部屋の小さな机の上に、

カレーと、

プリンと、

麦茶が並ぶ。


一人暮らしの部屋には少し不釣り合いなくらい、ちゃんとした夕飯だった。


窓の外では、まだ蝉が鳴いている。

部屋の中は少し暑い。

でも、今日はそれも悪くなかった。


スマホには、採用通知のメールが残っている。

何度見ても、文面は変わらない。

それなのに、見るたびに少しずつ実感が増していく。


相馬はスプーンを持って、カレーを一口食べた。


うまい。


それだけで、何だか笑えてきた。


若草荘に来たばかりのころは、

ここはただの仮の住まいだった。

安くて、古くて、駅から少し遠い。

それだけの場所だった。


でも今は違う。


ここで落ち込んで、

ここで待って、

ここで返事を受け取って、

ここで「おめでとう」と言われる。


そういう場所になっていた。


いずれ、ここを出る日が来るのかもしれない。

たぶん来る。

でも、そのときは、ただ離れるだけではない気がした。


ここで少しずつ受け取ったものを持って、

前へ行くのだろうと思う。


階段の下で、ユイが小さくあくびをした。


返事は来た。

待っていた時間は終わった。

その代わりに、別の時間が始まる。


若草荘の夕方には、

「おめでとう」と

「よかったね」と

「まだいる?」が、

やわらかく混ざっていた。


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