第三十話 はじめての朝
相馬の初出勤は、月曜日の朝だった。
前の日の夜から少し落ち着かなかった。
スーツは前の晩に出して、シャツにアイロンもかけた。鞄の中身も何度も確認した。財布、スマホ、筆記用具、ハンカチ、書類。忘れ物はないはずなのに、寝る前にももう一度見た。
それでも、朝になると不安はちゃんと残っていた。
若草荘の朝は早い。
一階では早苗がもう起きていて、台所の音がかすかに聞こえる。二階の廊下には、まだ少しだけ夜の空気が残っていた。
相馬は二〇三号室の鏡の前でネクタイを締めた。
一度失敗して、ほどいて、もう一度やる。
何とか形になったところで、深く息をついた。
「……よし」
声に出してみる。
そうでもしないと、足が動かない気がした。
ドアを開けると、ちょうど向かいではないが、少し先の二〇一号室のドアも開いた。
真帆が出てくる。今日は早番ではないらしく、部屋着のままで髪もまだ軽く結んだだけだった。
「あ」
と真帆が言う。
「おはようございます」
と相馬。
「おはよう」
真帆は相馬の姿を見て、少しだけ目を細めた。
「ちゃんとしてる」
「第一声それですか」
「だって、ちゃんとしてる」
「今日はしないとまずいので」
「たしかに」
「でも、何か」
真帆は手すりに軽く寄りかかって言う。
「ほんとに行くんだね」
「行きますよ」
「受かっただけでちょっと満足してた」
「してないです」
「してそうだった」
「してたかもしれないですけど」
「してたんだ」
「少しだけ」
「正直」
「でも、今日は行きます」
「うん」
真帆は笑った。
「いってらっしゃい」
その一言が、思っていたよりまっすぐ胸に入った。
「……いってきます」
階段を下りると、一階の廊下に朝の光が入っていた。
一〇三号室のドアは少し開いていて、中から早苗の声がする。
美空に何か食べさせているらしい。
相馬が階段を下りきったところで、早苗が気づいて顔を出した。
「あ、おはようございます」
「おはようございます」
「今日からでしたよね」
「はい」
「いよいよですね」
「そうですね」
早苗は相馬のスーツ姿を見て、やわらかく笑った。
「似合ってます」
「ありがとうございます」
「ネクタイ、苦しくないですか」
「ちょっと苦しいです」
「やっぱり」
「顔に出てました?」
「少し」
「そんなに」
「でも、そのくらいのほうが初日っぽいです」
「初日っぽさ、必要ですか」
「何となく」
「何となくか」
「何となくです」
そのとき、部屋の中から美空が出てきた。
口のまわりに少しだけパンくずがついている。
「そうまさん」
「おはよう」
「きょう?」
「今日」
「おしごと?」
「そう」
「ちゃんとしてる」
「またそれ」
「だって、ちゃんとしてる」
「美空ちゃんもそれ言うんだ」
「みんな言ってる」
「知ってる」
美空は相馬を見上げて、少し考えるような顔をした。
「がんばるの?」
「がんばる」
「いっぱい?」
「いっぱいは無理かも」
「じゃあ、ちょっと?」
「ちょっとよりは、がんばる」
「ふうん」
「美空ちゃんは?」
「わたしは、ようちえん」
「そっか」
「わたしもがんばる」
「じゃあ一緒だ」
「いっしょ」
美空は満足したようにうなずいた。
そのやりとりのあいだに、一〇二号室のドアが開いた。
片岡が出てくる。手には小さなごみ袋を持っていた。たぶんごみを出しに行くところだ。
「おはようございます」
「おはようございます」
片岡は相馬の姿を見て、少しだけ目を止めた。
「今日からですか」
「はい」
「そうですか」
それから、静かに続ける。
「初日は、行くだけで十分だと思います」
相馬は少しだけ目を丸くした。
「行くだけで?」
「はい」
「それでいいんですか」
「最初から全部できる人はいないので」
「……」
「ちゃんと行って、帰ってくれば、それで十分です」
その言い方が、片岡らしかった。
大げさに励ますわけでもなく、でも必要なところだけを置いていく。
「ありがとうございます」
「いえ」
片岡は少しだけうなずいた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
門のほうへ歩き出すと、階段の下でユイが伏せていた。
相馬が近づくと、顔を少し上げる。
「お前にも言っとくか」
相馬はしゃがんで、ユイの頭を軽くなでた。
「行ってくる」
ユイはじっとしている。
それだけなのに、少し落ち着いた。
門を出る直前、後ろから声がした。
「相馬さん」
振り返ると、真帆が二階の手すりから身を乗り出していた。
「はい」
「帰ってきたら、どうだったか聞かせて」
「ざっくりしてますね」
「細かくでもいいよ」
「じゃあ、帰ってきたら」
「うん」
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
若草荘を出て、駅までの道を歩く。
いつもの道なのに、今日は少し違って見えた。
スーツのせいかもしれない。
初出勤という言葉のせいかもしれない。
電車は思ったより混んでいた。
会社の最寄り駅で降りて、地図を見て、少し迷いそうになって、でも何とか時間前に着いた。
受付で名前を言って、案内されて、会議室のような場所で少し待つ。
人事の人が来て、書類の説明をして、配属先へ連れていかれる。
挨拶をして、
席を教えられて、
パソコンの使い方を聞いて、
社内のチャットの設定をして、
昼休みに何となく一人で弁当を食べる。
一日じゅう緊張していた気がするのに、終わってみると細かいことはあまり覚えていなかった。
ただ、思っていたよりちゃんと終わった、という感覚だけが残った。
夕方、若草荘に戻るころには、足が少し重かった。
体が疲れているというより、気を張っていたぶんだけ中身がくたびれている。
門をくぐると、いつもの建物が見える。
古い外壁。
少し傾いた自転車。
階段の下の影。
それだけで、肩の力が少し抜けた。
ユイは今日も同じ場所にいた。
相馬を見ると、耳を動かす。
「帰ったぞ」
と言うと、ユイは小さくあくびをした。
一階では、早苗が洗濯物を取りこんでいた。
美空はその横で、靴下を片方だけ持っている。
「あ、おかえりなさい」
「ただいまです」
「どうでした?」
「……何か、終わりました」
「終わったんだ」
「はい」
「それはよかった」
「たぶん、片岡さんの言う通りでした」
「何て?」
「行って帰ってくれば十分って」
早苗は少し笑った。
「たしかに」
「ほんとにそれでした」
「じゃあ、今日は満点ですね」
「満点なんですか」
「初日は甘めでいいんです」
「助かる」
美空が相馬を見上げる。
「かえってきた」
「帰ってきたよ」
「ちゃんとしてた?」
「たぶん」
「じゃあ、いい」
「判定が早い」
「はやい」
「ありがとう」
そのとき、二階から足音がした。
真帆が下りてくる。今日はもう出勤の時間らしく、制服姿だった。
「おかえり」
「ただいまです」
「どうだった?」
「ざっくり言うと、すごく疲れました」
「細かく言うと?」
「もっと疲れました」
「同じじゃん」
「でも、何か」
相馬は少し考えてから言った。
「思ってたより、ちゃんと終わりました」
真帆はうなずく。
「それなら十分だ」
「片岡さんにも同じこと言われました」
「片岡さん、そういうとこある」
「そういうとこ?」
「ちょうどいいこと言う」
「たしかに」
一〇二号室のドアが、ちょうどそのとき開いた。
片岡が出てくる。着替えたばかりらしい。
「おかえりなさい」
「ただいまです」
「どうでしたか」
「行って、帰ってきました」
片岡は少しだけ笑った。
「それはよかったです」
「ほんとに、それでした」
「初日はそういうものです」
「そうなんですね」
「たぶん、明日は今日より少し楽です」
「そうだといいです」
「でも、今日より眠いかもしれません」
「それはありそう」
と真帆。
「もうすでにちょっと眠いです」
と相馬。
「早い」
「緊張が切れたので」
「じゃあ、今日は早く寝たほうがいいですね」
と早苗。
「そうします」
「ごはん、食べました?」
「まだです」
「うち、肉じゃが多く作りすぎたんですけど」
「またですか」
「またです」
「若草荘、節目に何か増えがち」
と真帆。
「いいことじゃないですか」
と早苗。
「いいことです」
と相馬。
少し笑いが起きる。
相馬は思う。
朝、ここを出るときは、ちゃんと戻ってこられるか少し不安だった。
大げさではなく、本当に少しだけ。
新しい場所へ行く日は、帰ってくる場所の輪郭まで少し変わる気がするからだ。
でも、戻ってきた若草荘は朝と同じで、
ユイがいて、
早苗がいて、
美空がいて、
真帆がいて、
片岡がいる。
その変わらなさが、今日はありがたかった。
肉じゃがの皿を受け取って部屋に戻ると、二〇三号室は朝より少しだけ狭く、でも落ち着く場所に思えた。
ネクタイをゆるめて、ベッドに座る。
足がじんわり重い。
スマホを見ると、親から「初日どうだった」とメッセージが来ていた。
友達からはスタンプが一つ届いている。
相馬は少し考えてから、先に親へ返した。
「何とか行って帰ってきた」
それだけ打って送る。
すると、自分でも少し笑えた。
たぶん今日は、それで十分だった。
窓の外では、夜の気配が少しずつ濃くなっていく。
一階の廊下から、誰かの話し声がかすかに聞こえる。
階段の下では、ユイがまた丸くなっているはずだ。
はじめての朝は終わった。
そして、はじめての一日は、
思っていたよりちゃんと終わった。
若草荘には、
行ってきますと言える朝と、
帰ってきたと言える夕方がある。
そのことが、相馬には少しうれしかった。




