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第三十一話 少し遅い

相馬が若草荘に帰ってきたとき、空はもうだいぶ暗くなっていた。


門の外の道には、昼の熱がまだ少し残っている。

でも、建物のまわりには夜の気配のほうが濃かった。階段の下の影も、昼より深くなっている。


会社を出る時間が少し延びただけだった。

特別な残業ではない。

配属先の人に仕事の流れを教わって、最後に少しだけ明日の準備をしていたら、思っていたより遅くなった。それだけだ。


それだけなのに、若草荘の前に立つと、前とは少し違う時間に帰ってきた気がした。


門を開ける。

古い蝶番が小さく鳴る。


階段の下には、ユイがいた。

いつものように丸くなっていたが、相馬の足音に気づいて顔を上げる。


「ただいま」


言ってから、少しだけ変だと思う。

犬に言っても返事はない。

でも、ここへ帰ってきたとき、最初にその言葉が出るのがもう自然になっていた。


ユイは少しだけしっぽを動かしたようにも見えたが、暗くてよくわからなかった。


一階の廊下には、もう夕飯の匂いが残っていた。

味噌と、焼いた魚と、少し甘い煮物の匂い。

誰かの食事の時間が、もうひと段落したあとの空気だった。


相馬は階段の前で少し立ち止まった。


前なら、この時間でも誰かの声がしていた気がする。

早苗が美空を呼ぶ声とか、

真帆がどこかへ出る前の足音とか、

片岡がごみを出しに出てくる気配とか。


今日は静かだった。


二階へ上がろうとしたとき、一〇三号室のドアが開いた。

早苗が小さなごみ袋を持って出てくる。

相馬に気づいて、少し目を丸くした。


「あ、おかえりなさい」

「ただいまです」

「今日は少し遅かったですね」

「そうですね」

相馬は階段の下で立ち止まったまま答えた。

「ちょっとだけ」

「お仕事ですか」

「たぶん、そういうことになるんだと思います」

「たぶん」

「まだ自分でもよくわかってなくて」

早苗は少し笑った。

「まだ二日目ですもんね」

「二日目でした」

「おつかれさまです」

「ありがとうございます」


そのとき、早苗の後ろから美空が顔を出した。

パジャマ姿で、片手に小さなタオルを持っている。


「そうまさん」

「お、まだ起きてた」

「おそい」

「遅かった?」

「おそい」

「そっか」

美空は相馬を見上げたまま言う。

「どこいってたの」

「仕事」

「しごと、ながい」

「今日はちょっと長かった」

「なんで」

「何でだろう」

「しらないの?」

「知らないわけじゃないけど」

「じゃあ、しってる」

「そうだね」

「へん」

「へんかも」

美空は少し考えてから、納得したようでも納得していないようでもない顔でうなずいた。


「ごはん、たべた?」

と早苗が聞く。

「まだです」

「コンビニ?」

「たぶん」

「たぶん多いですね、今日」

「今日は全体的に自信がなくて」

「疲れてるんですよ」

「そうかもしれないです」

「そういう日あります」

「二日目で?」

「二日目だから、じゃないですか」

相馬は少し笑った。

「それなら助かります」


そのとき、二階でドアの開く音がした。

二〇一号室から真帆が出てきて、手すり越しに下をのぞく。


「あ、帰ってた」

「今です」

「今日は遅かったね」

「ちょっとだけ」

「でも、いないとわかるよ」

相馬は少しだけ黙った。

真帆は何でもないことみたいに続ける。

「別に責めてないよ」

「わかってます」

「ならいい」

真帆はそう言ってから、

「ごはんまだ?」

と聞いた。

「まだです」

「やっぱり」

「何でやっぱりなんですか」

「顔」

「そんなに出てます?」

「出てる」

「今日、いろいろ出る日だな」

「疲れてるからだよ」

「便利な言葉ですね」

「便利だから」


一〇二号室のドアが、そのとき静かに開いた。

片岡が空の湯のみを持って出てくる。

たぶん流しへ持っていくところだったのだろう。


「おかえりなさい」

「ただいまです」

片岡は相馬の顔を見て、少しだけ間を置いた。

「少し遅かったですね」

「はい」

「慣れないうちは、時間の感覚がずれますよね」

「そうなんですか」

「帰る時間だけじゃなくて」

片岡は廊下の先を見ながら言う。

「自分がどこにいるか、少し遅れてわかる感じがあります」

相馬はその言葉を聞いて、少しだけ息を止めた。

「……ああ」

うまく言えないが、近い気がした。

会社にいるあいだは会社の時間で動いていて、

帰ってきてから、ようやく若草荘の時間に戻る。

でも、その切り替わりが今日は少し遅かった。


「そんな感じです」

と相馬が言う。

片岡はうなずいた。

「最初はそういうものだと思います」

「片岡さんもありました?」

「ありました」

「へえ」

と真帆が二階から言う。

「何か、意外」

「そうですか」

「片岡さん、最初から片岡さんっぽい」

「どういう意味ですか」

「ずっと落ち着いてそう」

「そんなことはないですよ」

「でも、今は落ち着いてる」

と早苗。

「そう見えるだけです」

「見えるの大事です」

「そういうものですか」

「そういうものです」

早苗はごみ袋を持ち直した。

「美空、もう中入るよ」

「うん」

でも美空はまだ相馬を見ている。


「そうまさん」

「なに?」

「まいにち、おそい?」

相馬は少しだけ考えた。

「毎日じゃないと思う」

「ほんと?」

「ほんと」

「じゃあ、あしたは?」

「明日は……どうだろう」

「また、しらない」

「そうだね」

「へん」

「へんだね」

美空は少しだけ口をとがらせた。

「でも、かえってきた」

「帰ってきたよ」

「じゃあ、いい」

その言い方が、前にもあった気がした。

帰ってきたなら、それでいい。

美空の中では、たぶんそういうことなのだろう。


早苗が美空の肩に手を置く。

「おやすみ言って」

「おやすみ」

「おやすみ」

「またあした」

「また明日」

一〇三号室のドアが閉まると、一階の廊下は少し静かになった。


真帆が二階から言う。

「相馬さん」

「はい」

「無理しすぎないでね」

「まだ二日目ですけど」

「二日目でもする人はする」

「そんなに信用ないですか」

「あるから言うんだよ」

相馬は少し笑った。

「ありがとうございます」

「うん」

真帆はそれだけ言って、二〇一号室へ戻っていった。


片岡もマグカップを持ったまま、一〇二号室の前で少し立っていたが、

「食べられるうちに食べたほうがいいですよ」

と言ってから部屋へ戻った。

「はい」

と相馬は答える。


一人になると、急に空腹を思い出した。


二階へ上がって二〇三号室に入る。

鞄を置く。

ネクタイをゆるめる。

椅子に座る。

それだけで、体の中の力が少し抜けた。


窓の外はもう暗い。

向かいの家の明かりがついている。

どこかで食器の触れ合う音がした。


相馬はスマホを見た。

会社の連絡は来ていない。

友達からも特に何もない。

静かな画面だった。


少し前まで、返事を待っていた。

採用通知を待っていたころは、時間が進まないと思っていた。

でも今は逆で、気づくと一日が終わっている。


それがいいことなのかどうかは、まだわからない。


ただ、今日わかったことが一つある。


自分が少し遅く帰るだけで、

若草荘の時間から少し外れた気がすること。

そして、外れたことを、ここにいる人たちはちゃんと気づくこと。


それは窮屈ではなかった。

むしろ、少しだけ安心することだった。


相馬は立ち上がって、財布を持った。

コンビニへ行こうと思ったが、階段を下りるのが少し面倒に思えて、部屋の棚を開ける。

前に買っておいたカップ麺が一つあった。


「これでいいか」


声に出してみる。

誰も聞いていない。

でも、そういう独り言が自然に出るくらいには、部屋にも慣れていた。


湯を入れて、三分待つ。

そのあいだ、ベッドに座ってぼんやりする。


一階から、かすかに笑い声が聞こえた。

早苗か、美空か、あるいはテレビの音かもしれない。

はっきりしないくらいの小さな音だった。


でも、そのくらいがちょうどよかった。


若草荘では、

少し遅いだけで、

少し違う夜になる。


それでも門をくぐって、

階段の下のユイを見て、

「ただいま」と言えば、

ちゃんと戻ってこられる。


相馬は湯気の立つカップ麺を見ながら、

明日はもう少し早く帰れるだろうかと思った。


帰れるかどうかは、まだわからない。

でも、帰ってくる場所のことは、

もう少しわかってきた気がした。


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