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第三十二話 朝の音

次の日の朝、相馬は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。


まだ眠い。

けれど、もう一度寝たらたぶん危ない、という種類の眠さだった。

枕元のスマホを見ると、六時十二分だった。設定したアラームまではあと八分ある。


中途半端だな、と思う。


もう少しだけ目を閉じてもいい気がするし、

ここで起きたほうが安全な気もする。

布団の中で少し迷ってから、相馬は諦めて起き上がった。


二〇三号室の床は、朝いちばんだと少しひんやりしている。

カーテンを少し開けると、外はまだ完全には明るくなっていなかった。

向かいの家の屋根の上に、薄い朝の色がのっている。


顔を洗って、歯を磨いて、シャツを着る。

昨日よりは少しだけ手順が早い。

それでもネクタイのところで少し止まる。

鏡の前で結んでみて、ほどいて、もう一度やる。

昨日よりましだが、うまいとは言えない。


「まあ、いいか」


小さく言ってみる。

誰も聞いていない部屋で声を出すのが、少しだけ普通になってきていた。


廊下に出ると、若草荘はまだ半分眠っているみたいだった。


二階の廊下には朝の冷たい空気が残っている。

一階からは、かすかに鍋のふたの触れる音がした。

早苗がもう起きているのだろう。


相馬は階段の手すりに手をかけて、一階を見下ろした。

まだ誰の姿も見えない。

でも、生活の音だけが先に起きている。


その感じが、少し好きだと思った。


階段を下りると、案の定、一〇三号室のドアが少し開いていた。

中から味噌汁の匂いがする。

早苗の声は聞こえないが、台所で何かしている気配がある。


相馬がそっと通り過ぎようとしたとき、

「おはようございます」

と声がした。


一〇二号室の前に、片岡がいた。

手には小さなじょうろを持っている。

部屋の前に置いた鉢植えに水をやっていたらしい。


「おはようございます」

「早いですね」

「片岡さんも」

「私はいつもこのくらいです」

「そうなんですね」

片岡は鉢の土を見ながら言う。

「夏は朝のうちにやらないと、すぐ乾くので」

「植物ですか」

「はい」

相馬は今まで気づかなかった小さな鉢を見た。

葉の丸いものと、細いものが二つ並んでいる。

どちらも派手ではないが、ちゃんと世話をされている感じがした。


「前からありました?」

「ありましたよ」

「気づかなかった」

「そういうものです」

片岡は少しだけ笑った。

「毎日見ていても、見えていないものはあります」

「朝からちょっと深いですね」

「そうですか」

「たぶん」

「たぶんが多いですね」

「最近、自信がなくて」

「二日目と三日目のあいだくらいが、いちばんそうかもしれません」

「そんな細かい区切りあります?」

「ある気がします」

「気がするんだ」

「あります、たぶん」

相馬は少し笑った。

片岡がたぶんと言うと、何だか少し安心する。


そのとき、一〇三号室の中からぱたぱたと足音がして、美空が出てきた。

まだ髪が少し寝ぐせのままで、片手に靴下を持っている。


「そうまさん」

「おはよう」

「おはよう」

美空は相馬の足元を見てから言った。

「くつ、まだ」

「まだだね」

「まだ、いかない?」

「もう行くよ」

「はやい」

「美空ちゃんも早い」

「わたし、きょう、プール」

「そうなんだ」

「みずのひ」

「いいね」

「でも、まだねむい」

「それはそうだね」

美空はうなずいてから、片岡のじょうろを見た。

「おみず?」

「そうですよ」

と片岡が答える。

「おはな?」

「葉っぱです」

「はっぱ」

美空はしゃがみこんで鉢をのぞきこんだ。

「のんでる?」

「たぶん」

と片岡。

「たぶん?」

と美空。

「飲んでると思います」

「よかった」

何がよかったのかはわからないが、美空は満足した顔をした。


早苗が一〇三号室から顔を出す。

「美空、靴下片方だけで出ないの」

「でた」

「見ればわかる」

早苗は相馬と片岡に軽く会釈した。

「おはようございます」

「おはようございます」

「朝からすみません」

「いえ」

と相馬。

「にぎやかで助かります」

「助かるんですか」

「静かすぎると、まだ頭が起きないので」

「それはちょっとわかります」

早苗は美空のもう片方の靴下を持ってきて、その場で履かせはじめた。

美空はされるがままになっている。


「相馬さん、昨日はちゃんと食べました?」

「一応」

「一応」

「カップ麺です」

「ああ」

早苗は少しだけ笑う。

「一応ですね」

「一応でした」

「今日はもう少しちゃんとしたもの食べたほうがいいですよ」

「朝から正論」

「朝だからです」

「夜だと違うんですか」

「夜だと、まあいいかってなります」

「わかる」

「わかるんですね」

「すごく」


二階でドアの開く音がした。

真帆らしい足音がして、少ししてから階段を下りてくる。

今日は早番なのか、もう制服姿だった。


「おはよう」

「おはようございます」

「朝から集まってる」

「集まってるわけじゃないです」

と相馬。

「たまたまです」

「若草荘のたまたまは、だいたい集まってるのと同じだよ」

「そんな定義あるんですか」

「今できた」

真帆は階段を下りきって、美空の頭を軽くなでた。

「プールの日?」

「うん」

「いいね」

「まほさんは?」

「仕事」

「おみずない」

「ないね」

「かわいそう」

「ほんとだね」

真帆はそう言って笑った。


それから相馬の顔を見た。

「眠そう」

「そうですか」

「少し」

「起きてます」

「起きてる人の言い方じゃない」

「起きてますって」

「昨日、何時に寝たの」

「そんなに遅くないです」

「答えになってない」

「十一時半くらいです」

「微妙」

「微妙ですか」

「二日目の次の日としては微妙」

「また細かい」

「片岡さんの影響かも」

「私ですか」

と片岡が言う。

「たぶん」

と真帆。

「たぶん多いですね」

と片岡。

「最近の若草荘、たぶんが多い」

と早苗。

「へん」

と美空。

みんな少しだけ笑った。


その笑いのあとで、相馬はふと気づく。

昨日の夜、自分が少し遅く帰ったことを、みんながそれぞれの形で覚えている。

責めるわけでもなく、気にしすぎるわけでもなく、

ただ、ちゃんと見ていたのだ。


それが少し不思議で、少しありがたかった。


「今日も遅くなるんですか」

と早苗が聞く。

「たぶん、昨日ほどじゃないと思います」

「また、たぶん」

と真帆。

「便利なので」

と相馬。

「便利に逃げてる」

「逃げてます」

「正直」

「朝は正直なんです」

「夜もでしょ」

「夜はもっとです」

「だめじゃん」

「だめかもしれないです」

「だめ」

と美空が言った。

「即決」

と真帆。

「でも」

と美空は続ける。

「かえってくるなら、いい」

相馬は少しだけ目を伏せた。

昨日の夜と同じことを、また言われるとは思わなかった。


「帰ってくるよ」

と相馬は言う。

「たぶん」

「そこは、たぶんじゃないでしょ」

と真帆がすぐに言う。

「そうですね」

相馬は少し笑った。

「帰ってきます」

「うん」

美空は満足したようにうなずいた。


外から、遠くで電車の音がした。

朝が本格的に動き出す音だった。


相馬は腕時計を見る。

そろそろ出ないといけない時間だ。


「じゃあ、行ってきます」

と言うと、

「いってらっしゃい」

と早苗が言い、

「いってらっしゃい」

と真帆が言い、

片岡も静かに

「いってらっしゃい」

と言った。


美空は少し遅れて、

「いってらっしゃい」

と言ってから、

「かえってきてね」

と付け足した。


「うん」

と相馬は答える。

「帰ってくる」


門のほうへ歩き出すと、階段の下でユイが丸くなっていた。

朝の光が少しだけ背中に当たっている。

相馬が前を通ると、ユイは片目だけ開けた。


「行ってくる」


今度は返事がなくても、あまり変だとは思わなかった。


門を出て、駅までの道を歩く。

昨日より少しだけ足取りが軽い。

仕事に慣れたわけではない。

不安が消えたわけでもない。

ただ、朝のあいだにいくつか声をかけられて、

その声がまだ体のどこかに残っている気がした。


若草荘では、朝になるといろんな音がする。

鍋のふたの音。

足音。

ドアの開く音。

じょうろの水の音。

誰かの「おはよう」と、

誰かの「いってらっしゃい」。


そういう音の中に、自分の居場所が少しずつ混ざっていく。


相馬は駅へ向かいながら、

昨日より少しだけましな顔で会社に行けるかもしれない、と思った。


それは大したことではない。

でも、今の相馬には、たぶん大したことだった。


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