表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/44

第三十三話 見えていること

その日の夕方、若草荘の廊下には、まだ昼の熱が少し残っていた。


外はもう日が傾きはじめているのに、コンクリートの壁や階段の手すりには、遅れて熱が残る。

風はあるがぬるい。

洗濯物はだいたい取り込まれていて、二階の端に干されたタオルだけがまだ揺れていた。


真帆は二〇一号室の前で、仕事帰りのまま髪をひとつにまとめ直していた。

今日は少しだけ早く上がれた。

早くといっても、空が明るいうちに帰ってこられた、という程度だ。

それでも若草荘の夕方に間に合うと、少し得をした気分になる。


階段の下では、ユイがいつもの場所にいた。

半分眠っているような顔で、でも人の出入りはちゃんと見ている。


「ただいま」


真帆がそう言うと、ユイは耳だけ少し動かした。


一階から、早苗の声がした。

「美空、先に手ぇ洗って」

「もうあらった」

「もう一回」

「なんで」

「なんででも」

そのやりとりに、真帆は少し笑う。


一〇三号室の前を通ると、ドアが少し開いていた。

中から煮物の匂いがする。

早苗が台所に立っていて、美空はテーブルのところで何かぶつぶつ言っていた。


「あ、おかえりなさい」

と早苗が気づく。

「ただいま」

「今日はちょっと早いですね」

「うん、ちょっとだけ」

「いいですね」

「そっちは、いつも通り?」

「いつも通りです」

早苗はそう言いながらも、片手で鍋を見て、もう片方で流しのほうを気にしている。

美空は椅子の上で足をぶらぶらさせていた。


真帆は何となく部屋の中を見て、

「あ、火ちょっと強いかも」

と言った。

早苗が「あ」と声を出して、慌ててコンロのつまみを弱める。


「ほんとだ」

「さっきからいい匂いしてたから、そろそろかなって」

「助かります」

「別に見えただけ」

「それが助かるんです」

早苗は笑った。


そのとき、美空が椅子の上で

「おちゃ」

と言った。

でもテーブルの上のコップは空だった。


「美空、お茶ほしいの?」

と真帆が聞くと、

「うん」

と美空が言う。

早苗は鍋のほうを見たまま、

「ごめん、今ちょっと手が離せなくて」

と言う。


「いいよ」

と真帆は言って、棚の場所を知っているみたいな顔でコップを取り、麦茶を注いだ。

美空の前に置くと、

「つめたい?」

と聞かれた。

「ちょっとだけ」

「やった」

何がやったなのかはわからないが、美空は満足そうだった。


「真帆さん、普通にうちの人みたいですね」

と早苗が言う。

「それは言いすぎ」

「でも、だいぶ」

「勝手に動いてるだけだよ」

「その勝手がありがたいんです」


真帆は少し肩をすくめて、一〇三号室の前を離れた。


階段のところまで来ると、今度は一〇二号室のドアが開いた。

片岡が小さな封筒を持って出てくる。

郵便受けを見に行くところらしい。


「おかえりなさい」

「ただいまです」

「今日は少し早いですね」

「みんな同じこと言う」

「そういう時間なんでしょうね」

片岡はそう言って、階段の下のほうを見た。

「夕方の若草荘にいる真帆さんは、少し珍しいですから」

「珍しいってほどでもないでしょ」

「少なくとも、美空ちゃんはうれしそうでした」

「お茶入れただけだよ」

「そういうことを自然にするんですよね」

真帆は少しだけ眉を上げた。

「何、その言い方」

「いえ」

片岡は少し考えるようにしてから言った。

「真帆さんは、よく見ているんだなと思って」

「何を?」

「いろいろです」

「雑」

「雑ですが、たぶん正確です」

真帆は笑った。

「片岡さんの“たぶん”は、だいたい確信あるやつでしょ」

「そうでもないですよ」

「あるよ」

片岡は否定も肯定もしない顔で、郵便受けのほうへ歩いていった。


二階へ上がろうとしたところで、門の開く音がした。

相馬が帰ってきたのだった。

今日は昨日より少し早い。

ネクタイを少しゆるめた顔で、門を閉めながらこちらに気づく。


「あ、おつかれさまです」

「おつかれ」

「今日は早かったんですね」

「そっちも昨日よりは」

「昨日よりは」

相馬はそう言って少し笑った。


階段の下でユイが顔を上げる。

相馬が「ただいま」と言うと、ユイはまた少しだけ耳を動かした。


「ユイ、ちゃんと反応違うよね」

と真帆が言う。

「そうですか?」

「私のときよりちょっとちゃんとしてる」

「気のせいじゃないですか」

「いや、たぶん違う」

「たぶん」

「便利だから」

「最近みんなそれ言いますね」

「若草荘で流行ってるのかも」


そのとき、一〇三号室から美空が飛び出してきた。

片足だけ靴下を脱ぎかけたまま、相馬を見つけて駆け寄る。


「そうまさん」

「お、どうした」

「きょう、はやい」

「昨日よりはね」

「きのう、おそかった」

「そうだったね」

「きょうは、いい」

「よかった」

早苗がすぐ後ろから出てきて、

「走らないの」

と言う。

でも声はそんなに怒っていない。


「相馬さん、おかえりなさい」

「ただいまです」

「今日は少し人間らしい時間ですね」

「昨日は人間じゃなかったみたいな」

「ちょっとだけ」

「ひどいな」

「でも、昨日より顔がましです」

「それは自分でもちょっと思います」

「正直」

と真帆が言う。

「朝もそんな感じだったよね」

「朝は正直なんです」

「夜もでしょ」

「夜はもっとです」

「だめじゃん」

「だめかもしれないです」

「だめ」

と美空が言った。

みんな少し笑う。


その笑いの流れのまま、早苗がふと真帆のほうを見た。

「でも真帆さん、ほんとよく見てますよね」

「何が?」

「何がって、いろいろ」

「片岡さんもさっき同じこと言ってた」

「ほら」

「ほら、じゃないよ」

早苗は鍋の火を気にしながらも続ける。

「相馬さんの顔色とか、美空の機嫌とか、そういうのすぐ気づくじゃないですか」

「いや、それは見ればわかるでしょ」

「私は見てても遅れるときあります」

「それは忙しいからでしょ」

「忙しくても見える人は見えるんですよ」

真帆は少しだけ言葉に詰まった。


相馬も、少し考えてから言った。

「自分でも気づいてないこと、真帆さん先に言うときありますよ」

「そんなことあった?」

「ありました」

「たとえば?」

「……昨日の顔とか」

「それは出てたんでしょ」

「出てたんでしょうけど」

相馬は少し笑う。

「出てるのを、ちゃんと拾う人ってそんなにいない気がします」

「拾ってほしくないときもあるでしょ」

「まあ、ありますけど」

「じゃあだめじゃん」

「でも、助かるときもあります」

「どっち」

「両方です」

「ずるい答え」

「便利なので」

「それ、私の言い方」


片岡が郵便受けから戻ってきて、その会話の終わりを聞いたらしかった。

「真帆さんは、全体を見るのに向いているんでしょうね」

と静かに言う。


真帆は思わず、

「全体って、何」

と聞き返した。


「場の流れとか、人の様子とか」

と片岡。

「誰が今、何に手を取られているかとか」

「そんな大げさな」

「大げさではないと思います」

と早苗が言う。

「私、けっこう助けられてますし」

「私も」

と相馬。

「美空も」

と早苗が言うと、

美空はよくわからないまま

「うん」

とうなずいた。


「いや、美空ちゃんはたぶんわかってないでしょ」

と真帆が言う。

「でも、わかってる」

と美空。

「なにが?」

「まほさん、みてる」

その言い方が妙にまっすぐで、真帆は少し黙った。


風が少し通って、廊下の端のタオルが揺れた。

階段の下でユイが向きを変える。


真帆は何でもない顔をしようとして、

「そんなの、たまたまだよ」

と言った。

でも言いながら、自分でも少し弱い言い方だと思った。


「たまたまで、あそこまでできないですよ」

と早苗。

「そういうの、向いてるって言うんじゃないですか」

「向いてるって、何に」

「まとめるのとか」

「見るのとか」

と相馬が言う。

「調整するのとか」

片岡が続ける。

「人のあいだに入るのとか」

早苗も言う。


真帆は笑ってごまかそうとした。

「何それ、急に面接みたい」

「褒めてるんですよ」

「褒められてる感じがしない」

「真帆さん、褒められるの苦手ですよね」

と早苗。

「そんなことない」

「あります」

「ありますね」

と片岡。

「あります」

と相馬。

「ある」

と美空。


「何でみんなそろうの」

真帆がそう言うと、また少し笑いが起きた。


そのあと、一〇三号室の中から鍋のふたがかたんと鳴って、

「あ、やばい」

と早苗が戻っていく。

美空もそのあとを追いかけるように部屋へ入った。

相馬は「自分も着替えてきます」と言って二階へ上がる。

片岡も封筒を持ったまま一〇二号室へ戻っていった。


廊下に一人残って、真帆は手すりに軽くもたれた。


西の空が少し赤くなっている。

遠くで車の音がした。

若草荘の夕方は、にぎやかなようでいて、ふとした拍子に静かになる。


真帆はさっきの言葉を思い出していた。


よく見ている。

全体を見るのに向いている。

調整するのとか。

人のあいだに入るのとか。


そんなふうに言われたことは、たぶんなかった。


いや、なかったわけではないのかもしれない。

職場でも、

「真帆さんがいると回る」

とか

「気づくの早いよね」

とか

「助かる」

とか、

そういうことは言われる。


でもそれはいつも、

その場を埋める便利さとして言われていた気がする。


足りないところに入る。

抜けたところを拾う。

誰かがやらないことをやる。

そういうふうに。


それが得意なのだと、考えたことはなかった。

ただ、そうしたほうが早いからやっていただけだった。


二〇一号室に戻って、真帆は鞄を床に置いた。

制服の上着を脱いで、ベッドの端に座る。

部屋の中はまだ少し暑い。

窓を開けると、外のぬるい風が入ってきた。


スマホが鞄の中で震えた。

職場の連絡かと思ったが、違った。

広告の通知だった。


真帆はそのままスマホを見て、何となく求人アプリを開いた。

前に一度だけ入れて、そのままほとんど使っていなかったものだ。


開いてから、自分で少し驚く。


別に、今すぐ辞めたいわけじゃない。

今日何かあったわけでもない。

ただ、さっきの言葉がまだ残っていた。


検索欄をしばらく見てから、

真帆はゆっくり文字を入れる。


病院

看護師

管理

寮あり


入れてから、

「何それ」

と小さく声に出た。


自分で入れたくせに、少し大げさな気がした。

管理なんて。

寮なんて。

そんなふうに探すほど、ちゃんと考えていたわけじゃない。


でも、画面にはいくつか求人が並んだ。

今より大きな病院の名前。

教育体制あり。

主任補佐。

病棟運営補助。

職員寮完備。


真帆はその文字を、少しだけ長く見た。


自分に向いているかどうかなんて、わからない。

今よりいいのかどうかも、まだわからない。

ただ、

今いる場所で何でも抱えて回すことだけが、自分のやり方じゃないのかもしれない、と少しだけ思った。


廊下の向こうで、美空の笑う声がした。

早苗が何か言って、相馬がそれに返している声も少し混じる。

片岡の声は聞こえないが、たぶんどこかで静かにいる。


真帆はスマホの画面を閉じなかった。

保存だけしておこう、と思って、求人を一つ開く。

病院の概要を少し読んで、募集要項の下までスクロールする。


応募するわけじゃない。

まだ、ただ見ているだけだ。


それでも、

見ているだけで終わるものと、

見たことで少し始まるものがある。


真帆はベッドの端に座ったまま、

もう一度だけ求人の画面を見た。


外は少しずつ暗くなっていた。

若草荘の夕方の音が、部屋の中まで薄く届いている。


真帆はスマホを手にしたまま、

自分が何を探しはじめたのか、

まだうまく言えなかった。


でも、探してみてもいいのかもしれない、とは思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ