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第三十四話 手が足りるように

真帆がその病院の求人を保存したのは、夜のことだった。


保存したあとで、少しだけ可笑しくなった。

応募するつもりがあるわけでもないのに、消さずに残している。

見ただけで何かが変わるわけでもないのに、閉じてしまう気にもならない。


結局そのまま、真帆はスマホを伏せて寝た。


次の日の朝、目が覚めたときには、昨夜のことを半分忘れていた。

でも洗面台で顔を洗っているとき、ふと、

ああ、昨日あれ見たんだっけ、と思い出す。

思い出したからといって、急に何かを決めるわけではない。

ただ、頭の隅に小さく残っている。


若草荘の朝はいつも通りだった。


一階から味噌汁の匂いがして、

どこかでドアが開いて、

階段の下ではユイが丸くなっている。

相馬は少し眠そうな顔で出てきて、

片岡は鉢植えに水をやっていて、

早苗は美空の髪を結びながら何か急かしていた。


真帆も制服の上に薄いカーディガンを羽織って、二階から下りる。


「おはよう」

と言うと、

「おはようございます」

と相馬が返し、

「おはようございます」

と早苗も言った。


美空は靴を履きながら、

「まほさん、きょうもおしごと?」

と聞く。

「今日も仕事」

「まいにち?」

「だいたい」

「たいへん」

「そうだね」

「でも、まほさん、できる」

真帆は少し笑った。

「何それ」

「できるかお」

「どんな顔」

「できるかお」

美空は説明になっていない説明をして、満足そうにうなずいた。


早苗が苦笑する。

「昨日からずっとそんな感じなんです」

「昨日?」

「真帆さん、いろいろ見えてるって話したから」

「ああ」

「美空の中で、何かまとまったみたいで」

「まとまってないと思うけど」

「でも、たぶん褒めてます」

「たぶん」

「便利なので」

と早苗が言う。

真帆は少しだけ笑って、

「若草荘、ほんとにそれ流行ってるね」

と言った。


片岡がじょうろを置きながら、

「昨日の話、間違っていないと思いますよ」

と静かに言う。

「まだ言うんですか」

「まだ一日も経っていませんから」

「片岡さん、そういうとこある」

「そういうところがあります」

相馬も少し笑っていた。


真帆はそれ以上何も言わず、

「じゃあ、行ってきます」

と門のほうへ向かった。


「いってらっしゃい」

という声が重なる。

その中に美空の

「できるかおでね」

が混じって、真帆は思わず振り返った。


「何それ」

「できるかお」

「雑だなあ」

「ざつじゃない」

「そう」

「そう」

真帆は笑って、今度こそ門を出た。


駅までの道を歩きながら、昨日保存した求人のことを少し思い出す。

でも、朝の頭ではまだ遠い話みたいだった。

今日の勤務をこなして、帰って、風呂に入って、寝る。

まずはそこまでだ。

それ以上のことは、まだ考えなくていい。


そう思っていた。


病院に着くと、空気がもう違った。


更衣室に入る前から、廊下を行き来する足音が少し速い。

ナースステーションの前では、夜勤明けのスタッフが短い声で引き継ぎをしている。

いつもと同じようでいて、少しだけ張りつめていた。


「おはようございます」

と真帆が入ると、

先に来ていた同僚の一人が、

「あ、真帆さん、今日ちょっと大変かも」

と言った。


「何かあった?」

「一人、子どもの熱で休み」

「ああ」

「もう一人、午前だけ遅れるって」

「……そう」

「主任、朝から機嫌悪い」

「それはいつもか」

「今日はちょっと増してる」

真帆はロッカーを開けながら、小さく息をついた。


勤務が始まると、やっぱり手が足りなかった。


足りないといっても、完全に回らないわけではない。

ただ、誰かが少しずつ余分に持たないと回らない、という種類の足りなさだった。


点滴の確認。

記録。

患者の移送。

家族対応。

電話。

備品の不足。

予定のずれ。

小さな確認。

小さな呼び止め。

小さな抜け。


そういうものが、次々に重なる。


「真帆さん、こっちお願いしていい?」

「真帆さん、さっきの件どうなった?」

「真帆さん、家族の人来てる」

「真帆さん、記録だけ先に見てもらえます?」


呼ばれるたびに、真帆は「はい」と答える。

答えながら動く。

動きながら考える。

考えながら、次に詰まりそうなところを先に埋める。


誰かが悪いわけではない。

みんな手一杯なのだ。

だから、見えた人がやるしかない。


真帆はそういうとき、たいてい先に見えてしまう。


午前の終わりごろ、ようやく少しだけ流れが落ち着いた。

ナースステーションの端で記録をまとめていると、主任が来て言った。


「真帆さん、さっきのご家族対応ありがとう」

「いえ」

「あと、午前の処置の順番、入れ替えてくれたでしょ」

「少しだけ」

「あれ助かった」

「ならよかったです」

主任はそこで終わるかと思ったが、少しだけ続けた。

「ほんとは、そういうの先に言ってほしいんだけど」

真帆は顔を上げた。

「すみません」

「いや、責めてるわけじゃないの」

主任は少し疲れた顔で言う。

「でも、真帆さん、気づいたら自分でやっちゃうから」

「……はい」

「助かるんだけどね」

その“助かるんだけど”のあとに続くものを、真帆は知っていた。


助かる。

でも、頼ってしまう。

助かる。

でも、真帆さんがやる前提になる。

助かる。

でも、整理されない。


主任は結局、

「あとで共有だけお願い」

と言って離れていった。


真帆は「はい」と答えたが、

その返事は少しだけ平たかった。


昼休憩は、きちんとした休憩にならなかった。

交代で入るはずの一人が遅れて、真帆は短く食べてすぐ戻る。

休憩室の椅子に座っていた時間は、たぶん十分もなかった。


紙パックの野菜ジュースを飲みながら、スマホを見る。

通知がいくつか来ていたが、開く気にならない。

そのまま画面を消そうとして、昨夜保存した求人アプリのアイコンが目に入った。


真帆は少しだけ指を止める。

でも開かなかった。

今見るものじゃない、と思った。


午後も似たようなものだった。


一つひとつは大きくない。

でも、全部が少しずつ人の手を食う。

そのたびに、真帆は空いているところへ入る。

空いていなければ、空ける。

誰かが困る前に、困りそうな場所へ行く。


夕方近く、ようやく一息ついたとき、

後輩の一人が申し訳なさそうに言った。


「真帆さん、今日ほんとすみません」

「何が?」

「いろいろ振っちゃって」

「別に」

「でも、真帆さんがいると、つい」

後輩はそこで言葉を切った。

「つい、頼っちゃいます」

真帆は少し笑った。

「それ、今日二回目」

「え?」

「助かるけど、ってやつ」

後輩は困ったように笑う。

「だってほんとにそうなんです」

「うん」

「真帆さん、全体見えてるから」

その言葉に、真帆は少しだけ手を止めた。


昨日も聞いた。

今日の朝も聞いた。

そして今、職場でも同じようなことを言われる。


全体見えてる。


真帆は記録の紙をそろえながら、

「見えてるっていうか、見えちゃうだけだよ」

と言った。

後輩は首をかしげる。

「それ、同じじゃないですか」

「同じかな」

「同じです」

真帆は返事をしなかった。


勤務が終わるころには、足が少し重かった。

更衣室で制服を脱ぎながら、肩のあたりに疲れがたまっているのがわかる。

今日が特別ひどかったわけではない。

むしろ、こういう日は珍しくない。


珍しくないことが、少し嫌だった。


病院を出ると、外はもう暗くなりかけていた。

駅まで歩くあいだ、真帆は何となくスマホを取り出す。

求人アプリを開く。

昨日保存した病院のページが、履歴に残っていた。


大きな病院。

教育体制あり。

病棟運営補助。

主任補佐。

職員寮完備。


昨日より、文字が少し現実味を持って見えた。


管理、なんて大げさだと思う。

自分が向いているとも、まだ言えない。

でも少なくとも、

今みたいに、見えてしまうことをその場その場で埋め続けるだけじゃない働き方は、あるのかもしれない。


駅のホームで電車を待ちながら、真帆は求人の詳細を少しだけ読む。

勤務体制。

業務内容。

必要経験。

福利厚生。


応募資格の欄に、

「チーム調整業務の経験があれば尚可」

とあった。


真帆は小さく息を吐く。


経験、というほどのものだろうか。

ただ、やってきただけだ。

勝手に埋めて、勝手に回して、勝手に疲れてきただけだ。


でも、それでも。

それでも、そういうことをしてきたのは事実だった。


若草荘に帰ると、門のところで相馬と鉢合わせた。

ちょうどコンビニへ行くところらしく、財布を手にしている。


「あ、おかえりなさい」

「ただいま」

「今から出るんですか」

「ちょっとだけ」

「夕飯?」

「たぶん」

「またたぶん」

「便利なので」

真帆は少し笑った。

「ほんとに便利だね」


相馬はそこで、真帆の顔を見た。

「疲れてます?」

「まあ、少し」

「今日、大変でした?」

「ちょっと人が足りなくて」

「それは大変だ」

「でも、回ったよ」

「真帆さんが回したんじゃないですか」

真帆は思わず相馬を見た。

「何それ」

「いや、何となく」

「何となくで言わないで」

「でも、そんな感じします」

「……そういうの、最近多い」

「何がですか」

「見えてるとか、回してるとか」

相馬は少し考えてから言った。

「だって、そうなんじゃないですか」

真帆はすぐには答えなかった。


階段の下でユイが丸くなっている。

一階からは早苗の声がして、美空が何か言い返している。

片岡の部屋の前の鉢植えは、暗い中でも葉の形がわかった。


真帆はその景色を見ながら、

「……そういう仕事、あるのかな」

と小さく言った。


「え?」

と相馬が聞き返す。

真帆は少しだけ迷ってから、

「今みたいに、ただ埋めるんじゃなくて」

と言う。

「ちゃんと見ることが仕事になるみたいな」

相馬は少し黙って、それから言った。

「あるんじゃないですか」

「適当」

「適当ですけど」

「でも、真帆さんが言うなら、たぶんある気がします」

「何それ」

「便利なので」

真帆は少し笑った。


「コンビニ、行くんでしょ」

「行きます」

「じゃあ行ってきなよ」

「はい」

相馬は門を開けかけて、少しだけ振り返る。

「真帆さん」

「なに」

「見えてるの、たぶん悪いことじゃないですよ」

真帆は返事をしなかった。

でも相馬はそれ以上何も言わず、外へ出ていった。


二〇一号室に戻って、真帆は鞄を置いた。

部屋の電気をつける。

制服のまま、少しだけ立ったままになる。


それからスマホを取り出して、昨日の求人をもう一度開いた。

昨日より長く見る。

病院名。

業務内容。

勤務条件。

寮の写真。

応募方法。


画面の下のほうに、

「見学可」

と書いてあった。


真帆はその文字をしばらく見つめる。


応募じゃない。

見学だ。

見るだけなら、まだ大げさじゃない。

そう思ってから、

それでも十分大げさかもしれない、とも思う。


でも、今日一日を思い返すと、

今の場所で手が足りないたびに自分が埋めることを、

この先もずっと続けるのは少し違う気がした。


手が足りないなら、

誰かが埋めるしかない。

それはそうだ。


けれど、

埋める人がいつも同じでいいわけじゃない。


真帆はスマホを持ったまま、ベッドに腰を下ろした。

見学申し込みの画面までは開かない。

まだそこまでは行けない。


ただ、病院のページを保存するフォルダを一つ作った。

名前は少し迷って、

「あとで見る」

にした。


それだけのことなのに、

少しだけ、何かを動かした気がした。


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