第三十五話 言わないでいたこと
その夜、真帆はなかなか寝つけなかった。
眠くないわけではない。
体はちゃんと疲れている。
目を閉じれば、そのまま落ちてもおかしくないくらいには。
でも、頭のどこかだけが静かになりきらなかった。
見学可。
スマホの画面で見たその文字が、思ったより残っていた。
応募ではない。
見るだけ。
そう思えば軽いはずなのに、真帆にとっては十分に重かった。
部屋の天井を見ながら、真帆は小さく息を吐く。
今の職場が嫌いなわけじゃない。
人間関係が最悪というほどでもない。
辞めたいほど追いつめられている、という言い方も少し違う。
ただ、ずっと同じやり方でやってきて、
そのやり方のまま先まで行ける気がしない。
それを、今までちゃんと言葉にしたことはなかった。
翌日は遅番だった。
朝は少しだけゆっくりできる。
それでも若草荘の朝の音で、いつもの時間に目が覚めた。
一階から早苗の声がして、
美空が何か言い返して、
廊下を誰かが歩く音がする。
階段の下では、たぶんユイが寝返りを打っている。
真帆は布団の中で少しだけ迷ってから起き上がった。
せっかく遅番なのだから、もう少し寝てもよかったのにと思う。
でも起きてしまったものは仕方ない。
顔を洗って、部屋着のまま廊下に出ると、
一〇三号室の前で早苗が保育園の持ち物を確認していた。
小さな手提げと、水筒と、連絡帳。
美空は靴を履きながら、片方だけかかとを踏んでいる。
「あ、おはようございます」
と早苗が言う。
「おはよう」
「今日は遅番ですか」
「うん」
「じゃあ少しゆっくりですね」
「まあね」
早苗は手提げの中を見ながら、
「いいなあ」
と少しだけ言った。
「でも遅番は遅番でしんどいでしょ」
「しんどい」
「ですよね」
「早いのも遅いのも、結局しんどい」
「それはそう」
二人で少し笑う。
美空が顔を上げた。
「まほさん、きょうおそい?」
「仕事が?」
「うん」
「今日は遅く行く」
「じゃあ、まだいる?」
「まだいるよ」
「やった」
何がやったなのかはわからないが、美空はうれしそうだった。
早苗がしゃがんで、美空の靴のかかとを直す。
「踏まないの」
「だって、はやいから」
「早くても踏まない」
「まほさん、きょういる」
「いるけど、靴はちゃんと履こうね」
と真帆が言うと、
美空は少しだけ考えてから、
「うん」
と答えた。
早苗が立ち上がる。
「真帆さん」
「ん?」
「この前から、ちょっと考えごとしてます?」
真帆は少しだけ止まった。
「そんな顔してる?」
「してます」
「うそ」
「うそじゃないです」
早苗は連絡帳を手提げに入れながら続ける。
「疲れてる顔とはちょっと違うんですよね」
「何それ」
「何か、考えてる顔」
「雑」
「でも、たぶん当たってます」
真帆は苦笑した。
「またたぶん」
「便利なので」
「ほんとに便利だね、それ」
早苗はそこでそれ以上踏み込まなかった。
それが少しありがたかった。
「じゃあ、行ってきます」
と早苗が言う。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
と美空も言う。
少し遅れて、
「まほさんも、あとでいってきますしてね」
と付け足した。
「するよ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「ならいい」
美空は満足そうにうなずいた。
二人が出ていったあと、廊下は少し静かになった。
真帆はそのまま部屋に戻る。
午前のうち、真帆は部屋でだらだら過ごした。
洗面台の鏡を拭いて、机の上を少し片づけて、ベッドに座ってスマホを見る。
求人アプリも一度開いたが、すぐ閉じた。
見学可、という文字はまだそこにある。
でも、そこから先へ進む指はまだ重い。
昼前になると、廊下の向こうから小さな足音がして、
美空が二〇一号室の前まで来た。
保育園から帰ってきたわけではなく、どうやら早苗が一度忘れ物を取りに戻ったらしい。
一階から早苗の「美空、勝手に行かない」が聞こえる。
「まほさん」
「なに」
「これ」
差し出されたのは、折り紙だった。
少し歪んだ星の形をしている。
「くれるの?」
「うん」
「なんで」
「なんとなく」
真帆は笑った。
「便利な言葉覚えたね」
「べんり」
「ありがとう」
「どういたしまして」
美空は満足そうにうなずいて、そのまま一階へ戻っていった。
真帆は折り紙の星を机の上に置いた。
黄色い紙で折られていて、角が少しつぶれている。
きれいではないけれど、ちゃんと星に見えた。
昼を過ぎて、そろそろ支度をしようかと思ったころ、
玄関のほうで物音がした。
誰か帰ってきたらしい。
珍しい時間だなと思って廊下に出ると、相馬だった。
「え、どうしたの」
「半休です」
「半休?」
「午後、研修だけになって」
「そんなことあるんだ」
「自分でもちょっとびっくりしてます」
相馬はまだスーツ姿だったが、朝より少しだけ力の抜けた顔をしていた。
「真帆さん、これからですか」
「うん、遅番」
「じゃあ入れ違いですね」
「そうだね」
相馬は少し迷うようにしてから、
「この時間の若草荘、変な感じですね」
と言った。
「何それ」
「自分、いつもいないんで」
「まあ、そうか」
「静かですね」
「静かだよ」
「でも、何か落ち着きます」
真帆は少しだけ笑った。
「わかる」
そのとき、一〇二号室のドアが開いて、片岡が出てきた。
手には小さな紙袋を持っている。
「珍しい時間ですね」
と片岡が言う。
「相馬さんが半休で」
と真帆。
「真帆さんは遅番ですか」
「そうです」
「では、少しだけ珍しい時間が重なったんですね」
「そういう言い方するんだ」
「たぶん、今しかないので」
「たぶん便利だなあ」
相馬が少し笑った。
三人で廊下に立っていると、早苗も一〇三号室から顔を出した。
どうやら忘れ物を取って、そのまま戻ってきたらしい。
「何か集まってますね」
「たまたま」
と真帆。
「若草荘のたまたまは、だいたい集まってるのと同じですよ」
と早苗。
「それ真帆さんが前に言ってたやつ」
と相馬。
「言ったっけ」
「言ってました」
「覚えてるんだ」
「覚えてますよ」
そんなやりとりをしているうちに、美空もまた出てきて、
「なにしてるの」
と聞いた。
「何もしてないよ」
と真帆が言う。
「なにもしてないのに、いる」
「そういうこともある」
「へん」
「へんだね」
美空は納得していない顔をしたが、相馬の靴を見てそっちに気を取られた。
少しして、早苗が
「お茶いれます?」
と言った。
真帆は時計を見た。
まだ少し余裕がある。
「じゃあ、少しだけ」
と言うと、
片岡も相馬も自然にうなずいた。
一〇三号室の前に、何となく人が集まる。
中に入るほどではないけれど、廊下に立ったまま話せるくらいの距離。
早苗がお茶を配って、美空は自分だけ麦茶を持っている。
こういう時間が、若草荘にはたまにある。
誰かが呼んだわけでもないのに、気づくと人がいて、
何でもない話をして、また散っていく。
相馬が会社の研修の話を少しして、
早苗が保育園の持ち物の話をして、
美空が昨日見た虫の話をして、
片岡がそれに静かに相づちを打つ。
真帆も笑って聞いていた。
でも、途中でふと、早苗が真帆のほうを見た。
「真帆さん、ほんとに何か考えてますよね」
「またそれ?」
「だって、今日ずっとちょっと違う」
「そんなに?」
「そんなに」
相馬も少しだけうなずく。
「何かあります?」
真帆はすぐには答えなかった。
答えなくてもよかった。
別に言う必要はない。
まだ何も決まっていないし、
自分でもうまく整理できていない。
でも、その場の空気は急かしてこなかった。
ただ待っている感じだった。
聞き出そうとするのではなく、
言うなら聞く、という待ち方だった。
真帆は紙コップを見ながら、
「……別に、今の仕事が嫌なわけじゃないんだけど」
と言った。
言ってから、自分で少し驚いた。
口に出すつもりはなかったのに、最初の一言がもう出ていた。
早苗も相馬も、何も言わない。
片岡だけが静かに真帆を見ている。
「でも」
と真帆は続ける。
「何ていうか、ずっと同じやり方でやってる感じがして」
言葉を探す。
うまく言えない。
でも、もう少しだけ続ける。
「見えたことを拾って、足りないところに入って、回るようにして」
「うん」
と早苗が小さく言う。
「それで何とかなるから、何とかしてきたんだけど」
真帆は少し笑った。
「何とかなるって、あんまりよくないね」
「よくないときもありますね」
と早苗。
「うん」
「真帆さん、何とかしちゃうから」
と相馬が言う。
「それで周りも、何とかなるって思っちゃうんじゃないですか」
真帆は相馬を見た。
「それ、けっこうひどいこと言ってるよ」
「すみません」
「でも、たぶん合ってる」
と片岡が言った。
真帆は少しだけ息を吐いた。
「続けられなくはないんだよ」
誰に言うでもなく、そう言う。
「たぶん、今のままでも働ける」
「うん」
「でも、ずっとこのままは無理かもしれないって、ちょっと思ってる」
その言葉が出たあと、廊下が少し静かになった。
誰も大げさな顔をしなかった。
それがありがたかった。
早苗が先に口を開く。
「無理になる前に考えるの、いいと思います」
真帆は少し笑う。
「早苗さん、そういうとこ現実的だよね」
「生活があるので」
「強い」
「強くないです」
早苗は首を振る。
「でも、無理になってからだと遅いこと、あります」
その言い方には、少しだけ実感があった。
片岡が紙コップを持ったまま言う。
「今の仕事をやめる、ではなくて」
「うん」
「今のやり方以外を考える、でもいいんじゃないですか」
真帆はその言葉をゆっくり聞いた。
今の仕事をやめる。
そう考えると急すぎる。
でも、今のやり方以外を考える。
それなら、少しだけ息がしやすい。
相馬も言う。
「真帆さん、前に言ってたじゃないですか」
「何を」
「ちゃんと見ることが仕事になるみたいな」
真帆は少し目を細めた。
「言ったっけ」
「言いました」
「覚えてるんだ」
「自分、そういうの覚えてるほうなんで」
「意外」
「失礼ですね」
少しだけ笑いが起きる。
美空は話の意味がわからないまま、真帆の顔を見ていた。
それから、
「まほさん、つかれた?」
と聞く。
真帆は少しだけ考えてから、
「ちょっとね」
と答えた。
美空はうなずいて、
「じゃあ、ねる」
と言った。
「今?」
と真帆が笑う。
「ちがう。いっぱいねる」
「そうだね」
「そしたら、なおる」
「そうかも」
「まほさんも」
その言い方があまりにまっすぐで、真帆は少しだけ目を伏せた。
「寝るだけじゃ、なおらないこともあるよ」
と早苗が言う。
「でも、寝たほうがいいことは多いです」
「それはそう」
と真帆。
時計を見ると、そろそろ出ないといけない時間だった。
真帆は紙コップを返して、
「ありがとう。そろそろ行く」
と言った。
「いってらっしゃい」
と早苗。
「いってらっしゃい」
と相馬。
片岡も静かに
「いってらっしゃい」
と言う。
美空は少し遅れて、
「いっぱいねてね」
と言った。
「行ってくる」
と真帆は答えた。
「寝るのは帰ってからね」
門へ向かいながら、真帆はさっきの会話を思い返していた。
今の仕事をやめる、ではなくて。
今のやり方以外を考える。
その言葉が、思ったより残っていた。
駅までの道を歩きながら、真帆はスマホを取り出す。
求人アプリを開く。
保存した病院のページを見る。
昨日よりも、今日よりも、少しだけ近いものとして見える。
見学可。
真帆は立ち止まりはしなかった。
歩きながら、画面の下のほうまでスクロールする。
申し込みフォームの入口がある。
名前。
連絡先。
希望日時。
そこまでは開かない。
でも、閉じもしなかった。
電車に乗る前、ホームの端で真帆は一度だけ空を見た。
夕方にはまだ少し早い、白っぽい空だった。
今すぐ何かが変わるわけじゃない。
今日の勤務もたぶん忙しい。
帰ればまた疲れる。
明日になれば、迷いも少し薄れるかもしれない。
それでも、
言わないでいたことを一度言葉にすると、
前より少しだけ戻れなくなる。
真帆はスマホを鞄にしまって、
電車が来る音のほうを向いた。
まだ何も決めていない。
でも、
一度言葉にした未来は、
もう昨日と同じ場所には戻らなかった。
階段下でユイが静かに丸くなっていた。
廊下には、さっきまで誰かが立っていた気配だけが残っている。
紙コップは片づけられ、早苗は美空と部屋へ戻り、相馬も片岡もそれぞれの部屋へ入っていった。
ユイだけは何も知らない。




