第三十六話 見に行くということ
見学の申し込み画面を開いたまま、真帆はしばらく動けなかった。
名前。
連絡先。
希望日時。
入力欄はそれだけなのに、妙に遠く見える。
応募ではない。
ただ見に行くだけ。
そう思っても、そこに自分の名前を入れることには、思ったより力が要った。
真帆は一度画面を閉じて、また開いた。
閉じたからといって気持ちが消えるわけではないし、
開いたからといってすぐ進めるわけでもない。
結局その夜は、何も入力しないまま寝た。
翌朝、目が覚めたときには少しだけ頭が重かった。
昨日の遅番の疲れが残っている。
でも、体の重さより先に思い出したのは、
見学申し込みの画面を開いたまま閉じたことだった。
若草荘の朝はいつも通りだった。
一階から早苗の声がして、
美空が何か言い返して、
廊下を誰かが歩く音がする。
階段の下ではユイが丸くなっている。
相馬はもう出たのか、二階は少し静かだった。
真帆は顔を洗って、髪をひとつにまとめる。
今日は休みだった。
休みの日に何かを決めるのは、少しだけずるい気がする。
仕事の勢いでも、疲れの反動でもなく、
自分の頭で考えたことになるからだ。
それがいいのか悪いのか、真帆にはまだわからなかった。
午前のうち、部屋の片づけを少しした。
机の上の紙類をまとめて、読みかけの雑誌を重ねて、
美空にもらった折り紙の星を端に寄せる。
その星を見ていると、何となく笑いそうになる。
まほさん、みてる。
できるかお。
いっぱいねる。
住人たちに言われたことが、妙に残っていた。
昼前、玄関のほうで物音がして、真帆は廊下に出た。
片岡が小さな段ボールを持って戻ってきたところだった。
「おはようございます」
「おはようございます」
「荷物ですか」
「ええ、少し」
片岡は段ボールを持ち直してから、
「今日はお休みですか」
と聞いた。
「そうです」
「少し顔が違いますね」
「またそれですか」
「またです」
真帆は苦笑した。
「そんなにわかる?」
「わかるときは」
「便利だなあ」
「便利なので」
片岡は少しだけ笑った。
真帆は段ボールの底を支えるように手を添えた。
「持ちます」
「大丈夫ですよ」
「でも重そう」
「では、少しだけお願いします」
二人で一〇二号室の前まで運ぶ。
本当に少しだけの距離だった。
段ボールを下ろしたあと、片岡が言った。
「この前の話、少し進みましたか」
真帆はすぐには答えなかった。
でも、片岡の聞き方はやっぱり急かしていなかった。
進んだなら聞くし、進んでいないならそれでもいい、という聞き方だった。
「……画面までは開いた」
と真帆は言う。
「見学の」
片岡は小さくうなずく。
「それは、進んでいますね」
「そうかな」
「真帆さんにとっては」
真帆は少しだけ笑った。
「基準が低い」
「低くないと思います」
片岡は静かに続ける。
「見に行くというのは、決めることとは違いますから」
「うん」
「でも、決めないままでは見に行けない」
その言葉に、真帆は少し黙った。
決めることとは違う。
でも、決めないままでは見に行けない。
たしかにそうだった。
見学は応募ではない。
けれど、何も変えないつもりの人は、たぶん見に行かない。
「……見に行くって、思ったより大げさだね」
と真帆が言う。
「そうかもしれません」
「ただ見るだけなのに」
「ただ見るだけで済まないこともあります」
「怖いこと言う」
「怖がらせたいわけではないんです」
「わかってる」
片岡はそれ以上言わなかった。
部屋に戻ってから、真帆はしばらくベッドに座っていた。
スマホを手に取って、また置く。
求人アプリを開いて、また閉じる。
何を迷っているのか、自分でも半分しかわからない。
新しい職場が本当にいいかどうかはわからない。
見に行ったからといって、受けるとも限らない。
受けたからといって、受かるとも限らない。
でも、見に行かなければ、
今の場所にいる理由だけが、なんとなく積み上がっていく。
嫌いじゃないから。
辞めるほどじゃないから。
今さら動くのも面倒だから。
そういう理由で続いていくことが、
少しだけ怖かった。
昼過ぎ、一階から美空の声がした。
今日は保育園が半日だったらしい。
早苗と一緒に帰ってきたようだった。
「まほさん、いる?」
と廊下から声がする。
「いるよ」
と返すと、すぐに小さな足音が近づいてくる。
ドアを少し開けると、美空が立っていた。
後ろに早苗もいる。
「お休みだったんですね」
と早苗。
「うん」
「ちょっと顔見に」
「何それ」
「美空が行くって言うので」
美空は真帆を見上げて、
「まほさん、まだいる」
と言った。
「まだいるよ」
「よかった」
「そんなに?」
「うん」
真帆は少し笑った。
早苗が美空の肩に手を置く。
「お昼食べるので、すぐ戻りますけど」
「うん」
「もしあとで時間あったら、お茶どうですか」
真帆は少し考えてから、
「じゃあ、少しだけ」
と答えた。
午後、一〇三号室の前でまた何となく人が集まった。
今日は相馬は仕事でいない。
片岡はいて、早苗がいて、美空がいて、真帆がいる。
人数が少ないぶん、少し静かな時間だった。
早苗が淹れたお茶を受け取って、真帆は廊下の手すりにもたれる。
美空は床に座って、折り紙をいじっている。
片岡は壁際に立っていた。
「休みの日って、逆に落ち着かないときありません?」
と早苗が言う。
「ある」
と真帆はすぐ答えた。
「何かしなきゃって思うのに、何もしたくない」
「わかります」
「でも、何もしないと余計疲れる感じもする」
「それもわかります」
「便利だね」
「便利なので」
二人で少し笑う。
片岡が静かに言う。
「今日は、その“何か”を考えていたんですか」
真帆は紙コップを見た。
「……うん」
「見学?」
と早苗が聞く。
真帆は少し驚いた顔をした。
「言ってたっけ」
「言ってないです」
「じゃあ何で」
「たぶん、そういう顔してます」
「顔で全部ばれるじゃん」
「全部ではないです」
と早苗。
「でも、少しは」
真帆は苦笑した。
「画面までは開いた」
と真帆は言う。
「でも、まだ入れてない」
「名前とか?」
「うん」
「それは緊張しますね」
「ただの見学なのに」
「ただの見学じゃないからじゃないですか」
早苗の言葉に、真帆は少しだけ目を上げた。
「見に行くって、たぶん」
と早苗は続ける。
「今のままでいいって思ってる人は、あんまりしないですよね」
真帆は返事をしなかった。
でも、その通りだと思った。
片岡が言う。
「見に行って、違うと思うこともあります」
「うん」
「それでも、見ないよりははっきりします」
「……そうだね」
「真帆さんは、はっきりしないまま抱えるのが得意そうですから」
真帆は思わず笑った。
「褒めてないよね、それ」
「褒めてはいません」
「正直」
「正直です」
早苗も少し笑っていた。
美空がそこで顔を上げた。
「まほさん、どっかいくの?」
真帆は少し考えてから答える。
「まだ行かない」
「まだ?」
「うん。でも、見るかもしれない」
「なにを」
「お仕事するところ」
美空は少し考えて、
「いいとこ?」
と聞いた。
「まだわかんない」
「みたらわかる?」
「たぶん」
「じゃあ、みたほうがいい」
その言い方があまりに簡単で、真帆は少し笑ってしまった。
「そうかもね」
と言うと、
美空は満足そうにまた折り紙に戻った。
そのあと、少しだけ沈黙があった。
気まずい沈黙ではなく、
誰かが何かを急いで言わなくてもいい沈黙だった。
真帆は紙コップの縁を指でなぞりながら、
「今の職場でも、やれなくはないんだよ」
と小さく言った。
「うん」
と早苗。
「でも、やれることと、続けたいことって、同じじゃないのかも」
その言葉は、誰かに向けたというより、
自分で確かめるために出したような言葉だった。
片岡が静かにうなずく。
「そうだと思います」
早苗も、
「違うこと、あります」
と言った。
真帆は少しだけ息を吐いた。
それから、
「今日、入れてみる」
と言った。
「見学の申し込み」
早苗がすぐに笑う。
「いいと思います」
片岡も小さくうなずいた。
「見に行くのは、悪いことではありません」
「悪いことだと思ってたわけじゃないけど」
「少しは思っていたんじゃないですか」
真帆は否定しなかった。
夕方前、部屋に戻ってから、真帆は机の前に座った。
スマホを置く。
求人アプリを開く。
保存した病院のページを開く。
見学申し込みの画面に進む。
名前。
連絡先。
希望日時。
今度は閉じなかった。
一つずつ入力する。
名前を入れる。
電話番号を入れる。
メールアドレスを入れる。
希望日は少し迷って、来週の休みに合わせる。
送信ボタンの前で、また少しだけ止まる。
ここで押したら、何かが決まってしまう気がした。
でも実際には、決まるのは見に行くことだけだ。
受けるかどうかは、その先でいい。
真帆は小さく息を吸って、
送信を押した。
画面が切り替わる。
申し込みを受け付けました、という文字が出る。
それだけだった。
大きな音がするわけでもない。
何かが劇的に変わるわけでもない。
部屋の中は相変わらず静かで、
廊下の向こうからは美空の声が少し聞こえる。
それでも、真帆はしばらく画面を見ていた。
見に行くことにした。
たったそれだけのことなのに、
今までより少しだけ、自分の足で動いた感じがした。
机の端には、黄色い折り紙の星が置いてある。
真帆はそれを指先で少しだけ触ってから、スマホを伏せた。
まだ何も決まっていない。
でも、見に行くことは決めた。
その違いは、思っていたより大きかった。
人間たちは少しずつ前へ進んでいる。
でもユイはいつも通りそこにいる。




