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第三十七話 三浦さん、ちょっと

その日、三浦が来たのは昼を少し過ぎたころだった。


若草荘に大家の三浦が来る時間は、だいたい決まっていない。

決まっていないのに、来るときは何となくわかる。

門の開く音とか、廊下を歩く靴音とか、そういう曖昧なもので、ああ三浦さんだ、と思う。


真帆はそのとき休みで、二〇一号室の前にいた。

部屋の中にいても落ち着かなくて、郵便受けを見に行こうかと思って廊下に出たところだった。


門のほうを見ると、三浦が入ってくる。

片手に小さな工具袋を持っていた。


「あ」

と真帆は小さく声を出す。

三浦も気づいて、

「いるのか」

と言った。

「休みで」

「そうか」


それだけのやりとりのあと、三浦は階段の下で少し立ち止まった。

ほんの一瞬だったけれど、真帆はその間が気になった。


「何か直すんですか」

と聞くと、

「二階の廊下の電気が少し怪しいって聞いた」

と三浦は言う。

「ああ」

真帆はうなずく。

「この前、ちょっと点いたり消えたりしてました」

「そうか」

三浦は短く答えて、工具袋を持ち直した。


それから階段に足をかける。

いつもなら何でもない動きのはずなのに、今日は少しだけゆっくりだった。

手すりに手を添えて、一段ずつ上がる。

たったそれだけのことなのに、真帆は何となく目を離せなかった。


二階まで上がったところで、三浦は小さく息をついた。

本当に小さくで、本人は気づかれたくなかったのかもしれない。

でも、真帆には見えた。


「……大丈夫ですか」

と真帆が言うと、

三浦はすぐに

「大丈夫だ」

と返した。

「ちょっと暑いだけだ」

まだそこまで暑い日でもなかったので、真帆は少しだけ眉を寄せた。

でも、それ以上は言わなかった。


三浦は廊下の照明を見上げて、脚立も使わずに手を伸ばそうとして、

少しだけ届かず、舌打ちまではしないが、そんな空気を出した。

真帆は思わず言う。

「脚立、取ります?」

「いらん」

「でも」

「大丈夫だ」

三浦はそう言ってから、少し間を置いて、

「……いや、取ってくれ」

と言い直した。


真帆は一階の物置の横に置いてある小さな脚立を持ってきた。

三浦はそれを受け取るとき、

「悪いな」

とだけ言った。


脚立に上がって照明のカバーを外し、電球を確かめる。

作業自体はすぐ終わった。

でも降りてきたあと、三浦はすぐには動かず、廊下の手すりのそばで少しだけ立っていた。


「やっぱり大丈夫じゃないんじゃないですか」

と真帆が言う。

三浦は少しだけ顔をしかめる。

「お前さん、そういうの拾うな」

「拾いますよ」

「余計なところまで」

「余計じゃないです」

真帆がそう言うと、三浦は何とも言えない顔をした。


そこへ、一〇二号室のドアが開いて片岡が出てきた。

手には封筒を持っている。

郵便を出しに行くところらしかった。


「こんにちは」

と片岡が言う。

「こんにちは」

と真帆。

三浦も軽くうなずく。


片岡は三浦の顔を見て、それから脚立を見て、

「電気ですか」

と聞いた。

「少しな」

と三浦。

「直りましたか」

「たぶん」

「たぶん便利ですね」

と真帆が言うと、

片岡が少しだけ笑った。


そのあと、片岡は三浦を見て、

「少しお疲れですか」

と静かに聞いた。


真帆は、あ、と思った。

やっぱり片岡も気づいたのだ。


三浦はすぐに

「年だ」

と言った。

「それだけだ」

片岡はそれ以上追わなかった。

「無理はなさらないでください」

とだけ言う。

三浦は

「無理するほどでもない」

と返したが、その言い方は少しだけ弱かった。


片岡が階段を下りていったあと、廊下に少し沈黙が残る。

真帆は脚立をたたみながら、

「前からですか」

と聞いた。

「何が」

「ちょっとしんどそうなの」

三浦はすぐには答えなかった。

廊下の先を見てから、

「前からってほどでもない」

と言う。

「でも、前みたいにはいかん」

その言い方は、愚痴でも弱音でもなく、ただ事実を置くみたいだった。


真帆は脚立を持ったまま立っていた。

何か言ったほうがいい気もしたが、ちょうどいい言葉が見つからない。


三浦は廊下の手すりを軽く叩いて、

「古いからな」

と言った。

それが建物のことなのか、自分のことなのか、一瞬わからなかった。


「若草荘も?」

と真帆が聞く。

三浦は少しだけ口元を動かした。

笑ったのかもしれない。

「両方だ」

とだけ言う。


その返しが妙に三浦らしくて、真帆は少しだけ笑った。

でも笑ったあとで、その言葉が思ったより残った。


三浦はそのあと、一階の郵便受けや門の蝶番も見て回った。

前なら流れるようにやっていたことを、今日は一つずつ確かめるようにしていた。

工具袋を持ち直す回数も少し多い。

門のところでしゃがんで立ち上がるとき、ほんの少しだけ手をついた。


真帆はそれを見て、やっぱり気になった。


夕方になると、早苗が美空を連れて帰ってきた。

相馬も仕事帰りに戻ってくる。

真帆は何となくそのまま一〇三号室の前にいて、早苗に

「今日、三浦さん来てた」

と言った。


「そうなんですか」

と早苗。

「電気見に」

「直りました?」

「たぶん」

「便利ですね」

「便利だよね」

そんなやりとりのあと、真帆は少し声を落として、

「……ちょっとしんどそうだった」

と言った。


早苗の顔が少し変わる。

「三浦さんが?」

「うん」

「珍しいですね」

「片岡さんも気づいてた」

早苗は美空の手を引きながら、

「年齢もありますもんね」

と小さく言った。


そこへ相馬も来る。

「何の話ですか」

と聞くので、真帆が同じことを話すと、

相馬は少し驚いた顔をした。

「大家さんって、いつも普通に動いてるイメージでした」

「私も」

と真帆。

「でも今日はちょっと違った」

相馬は門のほうを見た。

「大丈夫なんですかね」

「本人は大丈夫って言ってたけど」

「言いますよね、そういう人」

と早苗が言う。

「言いそう」

と真帆も答える。


そのとき、一〇二号室から戻ってきた片岡が会話の最後だけ拾ったらしく、

「三浦さんのことですか」

と聞いた。

「うん」

と真帆。

片岡は少し考えてから、

「前は、あんなふうではなかったです」

と言った。


その一言で、場の空気が少し静かになった。


片岡はたぶん、この中でいちばん長く三浦を見ている。

その片岡がそう言うなら、本当に少し変わってきているのだろう。


早苗が美空の髪を整えながら言う。

「心配ですね」

「うん」

と真帆。

相馬も小さくうなずく。


美空だけが話の意味をよくわかっていない顔で、

「みうらさん、どしたの」

と聞いた。

早苗が少ししゃがんで、

「ちょっと疲れてるのかも」

と言う。

美空は少し考えて、

「いっぱいねたらいい」

と言った。


真帆は思わず笑った。

「そうだね」

相馬も少し笑う。

片岡も、ほんの少しだけ表情をやわらげた。


でも、そのあとに残る静けさは消えなかった。


三浦はもう帰ったあとだった。

門は閉まっていて、廊下の電気はちゃんと点いている。

手すりも、郵便受けも、いつもと同じようにそこにある。


何も変わっていないように見える。

でも、真帆には少しだけ違って見えた。


この場所は、ただ古いままそこにあるんじゃなくて、

誰かが見て、直して、持たせてきたのだ。

その誰かが前と同じようには動けなくなってきている。


それは建物の古さとは別の種類の、でもたぶん同じくらい確かな変化だった。


「三浦さん、また来ますかね」

と相馬が言う。

「来るでしょ」

と真帆は答えた。

「来ると思う」

でも、その言い方は自分でも少し曖昧だと思った。


早苗が

「ごはんにします」

と言って美空を部屋に入れる。

相馬も

「自分も着替えてきます」

と二階へ上がっていく。

片岡は一〇二号室の前で少しだけ立ち止まってから、

「何もないといいですね」

と言った。

「うん」

と真帆。

「ほんとに」

片岡は静かに部屋へ戻っていった。


一人になった廊下で、真帆は少しだけ手すりに触れた。

昼間、三浦が軽く叩いた場所だった。


古いからな。


その言葉を思い出す。

建物のことでもあり、三浦自身のことでもあるような言い方だった。


真帆は廊下の先を見た。

一〇三号室のドアの向こうから、美空の声が少し聞こえる。

二階では相馬の部屋のドアが閉まる音がした。

一〇二号室は静かだ。


いつもの若草荘だった。

でも、そのいつもが、急に当たり前ではないものに思えた。


真帆はゆっくり息を吐いて、自分の部屋に戻った。

机の上には、見学を申し込んだ病院からの返信メールを開いたままのスマホがある。


自分のことだけでも、まだちゃんと決まっていない。

それなのに今日は、若草荘のほうまで少し揺れた気がした。


三浦さん、ちょっと。


その言葉だけが、うまくまとまらないまま残っていた。


ユイはゆっくり体を起こし、一度だけあくびをする。

門のほうを見て、それからまたいつもの場所で丸くなった。


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