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第三十八話 まだ決めてない

美空が寝つくまでに、いつもより少し時間がかかった。


暑いわけでもないのに寝返りが多くて、布団を蹴っては早苗にかけ直される。

ようやく静かな寝息になったころには、部屋の中もすっかり夜の気配になっていた。


早苗は枕元に置いていたスマホを手に取る。

時間を見るだけのつもりだったのに、そのまま画面を消さずにいた。


昼間から、頭の隅に引っかかっていることがある。


三浦のことだった。


昨日、真帆が言っていた。

ちょっとしんどそうだった、と。

片岡も、前はあんなふうではなかったです、と言っていた。


早苗自身はその場にいなかった。

でも、真帆も片岡も、そういうことを大げさに言う人ではない。

だからこそ気になった。


もちろん、それだけで何かが決まるわけではない。

三浦が少し疲れて見えたからといって、すぐに若草荘がどうこうなるわけでもない。

そんなことはわかっている。


わかっているのに、早苗は考えてしまう。


もし、何かあったら。


自分一人なら、どうにでもなるかもしれない。

少し狭い部屋でも、駅から遠くても、古くても、何とかするしかないで済む。

でも美空がいる。


保育園のこと。

通勤のこと。

家賃のこと。

引っ越しにかかるお金のこと。

次の部屋がすぐ見つかるとは限らないこと。


考え始めると、止まらなかった。


早苗は検索画面を開いて、少し迷ってから「市営住宅 募集」と打ち込んだ。

候補がいくつか出る。

県営住宅もあるらしい。

どれが自分に当てはまるのか、すぐにはわからない。


募集案内のページを開く。

文字が多い。

対象世帯、収入基準、必要書類、申込期間、抽選。

ざっと見ただけでも、簡単ではなさそうだった。


母子世帯の優遇がある場合もある。

でも優遇があることと、入れることは別だ。

抽選、という言葉が何度も目に入る。


早苗は画面を指でゆっくり動かしながら読む。

住みたいと思う場所を選べるのか、どのくらい待つのか、当たったとしてすぐ入れるのか。

細かいところは読んでもすぐには頭に入らない。


思っていたより、遠い。


現実的な選択肢ではある。

でも、今すぐ手が届くものではない。

そんな感じがした。


早苗は一度スマホを伏せた。

部屋の中は静かで、美空の寝息だけが聞こえる。


実家、という言葉が頭に浮かぶ。


浮かんで、すぐに消そうとした。

でも消えなかった。


実家に帰る。

それが一番早いのかもしれない。

少なくとも、行く場所がないわけではない。

母も父もいる。

美空のこともかわいがってくれる。


けれど、早苗はすぐにはその考えに乗れなかった。


一度出た場所に戻ること。

頼るしかない形で戻ること。

心配をかけること。

生活のペースが変わること。

通勤できるのか、保育園はどうするのか、考えなければいけないことも多い。


それでも、選択肢から外せるほど軽くはなかった。


早苗はスマホをもう一度手に取る。

連絡先を開く。

「母」の名前がすぐ出る。


そこまでして、指が止まった。


今かけたら、たぶん母は出る。

出て、早苗の声を聞いただけで何か察するかもしれない。

別に泣きたいわけでも、助けてほしいと決めたわけでもない。

ただ、少し聞いてみたいだけだ。


でも、その「少し」が、思ったより重かった。


早苗は画面を閉じた。


まだ決めてない。


心の中でそう言ってみる。

誰に向けた言葉でもないのに、言い訳みたいに聞こえた。


翌日、仕事の帰りに少しだけ遠回りをして、不動産屋の前を通った。

店頭には賃貸情報が並んでいる。

一人暮らし向けのワンルーム、二DK、築年数の古いアパート、駅徒歩十五分。

家賃を見て、早苗は足を止めずにそのまま通り過ぎた。


高い、と思う。

いや、相場としては普通なのかもしれない。

でも今の早苗には、どれも簡単な数字ではなかった。


若草荘の家賃が安いことは、ずっとわかっていた。

古いし、不便なところもある。

それでもここでやってこられたのは、家賃の負担がまだ何とかなる範囲だったからだ。


次も同じようにはいかない。


そう思うと、胸の奥が少し重くなる。


若草荘に戻ると、門のところで片岡と会った。

片岡は小さな封筒を持っていて、これから出かけるところらしかった。


「おかえりなさい」

「ただいまです」

早苗は少し迷ってから、

「片岡さん」

と呼び止めた。

「はい」

「このへんで、家賃ってやっぱり高いですよね」

片岡は少しだけ考える顔をした。

「広さにもよりますけど」

「ですよね」

「若草荘は、かなり抑えられてるほうだと思います」

やっぱり、と思う。

早苗は小さくうなずいた。


片岡はそれ以上踏み込まず、

「何か探してるんですか」

とだけ聞いた。

早苗は少し迷って、

「まだ、決めてるわけじゃないんですけど」

と言った。

その言い方で十分だったのか、片岡は静かにうなずいた。

「そういう時期かもしれませんね」

早苗はその言葉に少しだけ引っかかった。

「そういう時期」

「何となくです」

片岡はそう言って、少し視線を門の外に向けた。

「変わる時って、決まる前から少し空気が違うので」

早苗は返事をしなかった。

でも、その言葉は妙に残った。


その夜、美空を寝かせたあと、早苗はもう一度連絡先を開いた。

今度は少しだけ迷う時間が短かった。


呼び出し音が二回鳴って、母が出る。


「もしもし」

「……あ、お母さん」

「どうしたの、こんな時間に」

早苗は一瞬、何から言えばいいのかわからなくなった。

用事があるからかけたはずなのに、言葉にしようとすると曖昧になる。


「別に、何かあったってほどじゃないんだけど」

と言うと、

母は少し間を置いて、

「うん」

とだけ返した。


その「うん」が、急かさない感じで少し助かった。


「今すぐじゃないんだけど」

「うん」

「もし、何かあったら」

早苗はそこで一度止まる。

何かあったら、の先を自分で言うのが少し嫌だった。

でも母は待っている。


「美空連れて、そっち戻るっていうのも」

と言ってから、

「考えてて」

と続けた。


電話の向こうで、母はすぐには何も言わなかった。

責めるでも、驚くでもなく、ただ少し考えているような間があった。


「そう」

と母は言った。

「うん」

「戻ってくる場所がないと思ってた?」

早苗は思わず黙る。

そんなふうには考えていなかったはずなのに、言われると少し痛かった。


「そういうわけじゃないけど」

「ならいいの」

母の声は静かだった。

「無理なら戻ってきなさい」

早苗は唇を少し噛んだ。

責められるより、その言い方のほうがこたえる。


「でも、まだ決めたわけじゃない」

「決めなくていいわよ、今すぐ」

「公営住宅も少し見てて」

「うん」

「当たるかわかんないし」

「そうでしょうね」

母は変に励ましたりしなかった。

そのかわり、

「考えてるなら、それでいい」

と言った。

「何も考えないで困るよりいいでしょう」


早苗は小さく息を吐いた。

「うん」

「美空は元気?」

「元気」

「じゃあ、それでいいわ」

母はそう言ってから、

「こっちは部屋くらい何とかなるから」

と付け足した。


その一言で、早苗の胸の奥にあった固いものが少しだけ緩んだ。

助かった、と思うのと同時に、簡単に頼ってはいけない気もする。

その両方が一緒に来る。


電話を切ったあと、早苗はしばらくスマホを持ったまま座っていた。


戻ってくる場所がないと思ってた?


母の言葉を思い出す。

そんなつもりはなかった。

でもたぶん、ないことにしていたのだ。

頼れる場所があると認めると、そこへ戻る可能性まで現実になってしまうから。


早苗は公営住宅の募集ページをもう一度開いた。

申込期間の欄を見る。

必要書類の欄も見る。

すぐには動けないとしても、見ておいたほうがいい。


ブックマークをつける。

メモアプリに、必要そうなことをいくつか打ち込む。


住民票。

収入関係。

募集時期。

保育園。


打ちながら、早苗は思う。


まだ何も決まっていない。

若草荘がどうなるかも、三浦が何を考えているかも、自分がどこへ行くのかも。

何一つ、はっきりしていない。


それでも、何もないわけではなかった。


実家という道がある。

公営住宅という道もある。

簡単ではないけれど、考える先がまったくないわけじゃない。


早苗は眠っている美空を見る。

小さな手が布団の外に出ていたので、そっと中へ戻した。


この子がいるから、早く決めなければいけないことがある。

この子がいるから、簡単に決められないこともある。


早苗は部屋の明かりを少し落とした。

窓の外は静かで、廊下を誰かが歩く音が一度だけした。


若草荘はまだそこにある。

いつもと同じように、今夜も変わらずある。


でも早苗の中では、昨日までなかったものがもう動き始めていた。


まだ決めてない。


けれど、考え始めている。

それだけは、もうはっきりしていた。


階段の下では、ユイが眠たそうに目を開け、廊下を一度見上げてから、また静かに目を閉じた。


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