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第三十九話 まだ言わない

早苗が公営住宅の募集ページをブックマークしてから、三日ほど経った。


何かが大きく変わったわけではない。

若草荘は相変わらず静かで、朝になれば誰かのドアが開き、夜になれば廊下の電気がつく。

美空は保育園へ行き、早苗は仕事へ行く。

真帆は不規則な勤務の合間に部屋にいたりいなかったりして、相馬は相変わらずきちんとした時間に出入りする。

片岡は前と同じように静かで、いるのかいないのか、気配だけが残ることが多い。


何も決まっていない。

だからこそ、早苗はまだ誰にも言っていなかった。


実家に電話したことも、公営住宅を調べていることも。

言ってしまえば少し楽になるのかもしれない。

でも、まだ言葉にしたくなかった。

言葉にすると、考えているだけのことが急に現実になる気がした。


その日の夕方、早苗は美空の手を引いて若草荘へ戻った。

門を開けると、廊下の先に真帆がいた。

二〇一号室の前でしゃがみこんで、何か袋の中を探している。


「おかえり」

と真帆が顔を上げる。

「ただいまです」

「美空ちゃんもおかえり」

美空は少し眠そうな顔で、

「ただいま」

と言った。


「何してるんですか」

と早苗が聞くと、

「鍵がないと思ったら、かばんの底にあった」

と真帆が言う。

「よくありますよね」

「ある。びっくりするくらいある」

真帆は立ち上がって、少し笑った。


そのまま何となく一緒に廊下に立つ。

美空は早苗の足にくっついたまま、ぼんやりしている。


真帆がふと、

「三浦さん、あれから来てないね」

と言った。


早苗は一瞬だけ返事に詰まった。

自分の中でずっと引っかかっていたことを、急に外から触れられた感じがした。


「そうですね」

とだけ答える。

「ちょっと気になりますよね」

「うん」

真帆は廊下の手すりに軽く触れた。

「別に、何かあったってわけじゃないんだろうけど」

「でも、気になります」

「だよね」


そこで会話は一度切れた。

真帆はそういう沈黙を無理に埋めない。

早苗はその感じが少しありがたかった。


「早苗さん」

と真帆が言う。

「はい」

「もし、ほんとに何かあったらさ」

真帆は少し言いにくそうにしてから、

「住むとこ、とか」

と言った。


早苗は思わず真帆の顔を見た。

真帆は視線をそらして、

「いや、変なこと言ってるのはわかるんだけど」

と続ける。

「まだ何も決まってないのに」

「いえ」

早苗は小さく首を振った。

「私も、ちょっと考えてました」

その言葉は、思っていたよりあっさり口から出た。


真帆が少しだけ目を丸くする。

「やっぱり?」

「はい」

「そっか」

真帆はそれ以上すぐには聞かなかった。

その間があったから、早苗も少し話しやすくなった。


「美空がいるので」

と早苗は言う。

「自分一人なら、もう少し後でもいいんですけど」

「うん」

「もしものとき、急だと困るなって」

「それはそうだよね」

真帆はすぐにうなずいた。

軽く流さないうなずき方だった。


早苗は少し迷ってから、

「実家に戻ることも、少し」

と言った。

「あと、公営住宅も」

真帆は

「ああ」

と小さく声を出した。

「そっか、公営住宅か」

「当たるかわからないですけど」

「でも考えるよね」

「はい」


真帆は少しだけ考え込む顔をした。

「早苗さんって、ちゃんと先に考えるよね」

「そうですか」

「うん。私はたぶん、もうちょっと後まで見ないふりする」

その言い方に、早苗は少しだけ笑った。

「見ないふり、できるならそのほうが楽かもしれません」

「でも早苗さんはできないんだよね」

「できないですね」

美空の頭をなでながら、早苗は言った。

「この子がいるので」


そのとき、一〇二号室のドアが開いて片岡が出てきた。

手には小さなごみ袋を持っている。

「こんばんは」

と片岡が言う。

「こんばんは」

と早苗と真帆が返す。


片岡は二人の空気を少しだけ見て、

「何か話してましたか」

と聞いた。

真帆が

「ちょっと先のこと」

と言う。

片岡はそれで何となく察したらしく、

「そうですか」

とだけ言った。


早苗は少し迷ったが、ここで隠すのも不自然な気がした。

「もしものときの住まいを、少し考えてて」

と言うと、

片岡は静かにうなずいた。

「早いですね」

責める感じではなく、ただ事実として言ったような声だった。


「早すぎますか」

と早苗が聞くと、

片岡は少し考えてから、

「早すぎることはないと思います」

と言った。

「決まってから探すよりは」

「ですよね」

早苗は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


真帆が

「片岡さんは考えてる?」

と聞く。

片岡はごみ袋を持ち直して、

「少しは」

と答えた。

「でも、自分は一人なので」

「一人でも大変じゃないですか」

と真帆。

「大変は大変です」

片岡はそう言ってから、

「ただ、優先順位が違うだけで」

と続けた。


その言葉に、早苗は少しだけ救われる。

自分が先に考えていることを、気にしすぎなくていい気がした。


「三浦さん、何も言わないですね」

と真帆がぽつりと言う。

片岡は少しだけ視線を落とした。

「言うときは、言うと思います」

「そうですね」

と早苗。

「でも、その前に考えておきたいです」

片岡は

「そのほうがいいと思います」

と静かに言った。


美空が早苗の服を引っ張る。

「おなかすいた」

「うん、ごはんにしようね」

早苗がそう言うと、真帆が少し笑った。

「現実」

「現実です」

と早苗も笑う。


部屋に入る前、真帆が

「早苗さん」

ともう一度呼んだ。

「はい」

「言ってくれてよかった」

早苗は少しだけ驚いた。

「まだ、ちゃんと決めてるわけじゃないですけど」

「うん。でも、考えてるって聞けてよかった」

真帆はそう言って、自分の部屋のドアに手をかけた。

「私も、ちょっと考える」

その言葉は軽いようでいて、早苗にはちゃんと重さがあった。


早苗は一〇三号室に入る。

狭い部屋の空気はいつも通りで、朝干した洗濯物の匂いが少し残っていた。

美空に手を洗わせて、着替えさせて、炊飯器を開ける。

味噌汁を温め直しながら、さっきの会話を思い返す。


まだ言わないつもりだった。

少なくとも、もう少し自分の中で整理がつくまでは。

でも言ってしまった。

実家のことも、公営住宅のことも、少しだけ。


言ったからといって、何かが決まったわけではない。

それでも、胸の中で一人で抱えていたものが、少しだけ形を持った気がした。


食事のあと、美空が絵本を持ってくる。

読んでいる途中で、美空は何度もあくびをした。

早苗はその小さな体を見ながら、思う。


この子の生活を、なるべく大きく崩したくない。

それが一番だ。

自分の気持ちより先に、そこを考えなければいけない。


絵本を読み終えて、美空を寝かせる。

部屋の明かりを落とし、布団をかける。

美空はすぐに眠った。


早苗は静かに立ち上がり、テーブルの上のスマホを見る。

ブックマークした募集ページ。

母との通話履歴。

メモアプリに打ち込んだ必要書類。


どれもまだ途中だ。

でも、途中のままでも持っていることに意味がある気がした。


廊下で、誰かの足音がした。

止まって、また遠ざかる。

階段の下では、ユイがゆっくり体勢を変える小さな音がした。

若草荘の夜の音だった。


まだ何も言われていない。

三浦からも、誰からも。

若草荘がどうなるのか、本当のところはわからない。


それでも、早苗はもう前みたいには待てなかった。

ただ知らせを受けるだけの側には、いられない。


まだ言わない。

でも、考えている。

動けるところから、少しずつ動く。


早苗はスマホを手に取って、募集期間の欄をもう一度開いた。

見たばかりの文字なのに、確認せずにはいられなかった。


その慎重さが、自分の弱さなのか強さなのか、早苗にはまだわからない。

ただ、美空の寝息を聞いていると、どちらでもよかった。


守るために考える。

今はそれで十分だと思えた。



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