第四十話 少しずつ
早苗が住まいのことを考えていると真帆に話してから、若草荘の空気は目に見えないところで少しだけ変わった。
何かが起きたわけではない。
三浦から話があったわけでもないし、退去の知らせが来たわけでもない。
それでも、一度言葉になったことで、曖昧だった不安に輪郭がついた。
真帆はその日から、前より少しだけ廊下で立ち止まるようになった。
郵便受けを見に行くついでに門のほうを見たり、階段を上がる前に一階の様子を何となく確かめたりする。
自分でも何を待っているのかわからないまま、気にしてしまうのだった。
その日の午後、真帆は休みだった。
洗濯物を部屋の中に干し終えて、何となく外の空気を吸いたくなり、廊下に出る。
一階は静かで、一〇三号室のドアも閉まっている。
片岡の部屋も静かだった。
その日の午後、真帆は休みだった。
洗濯物を部屋の中に干し終えて、何となく外の空気を吸いたくなり、廊下に出る。
一階は静かで、一〇三号室のドアも閉まっている。
片岡の部屋も静かだった。
階段の下では、ユイがいつものように丸くなっていた。
真帆が廊下に出た気配に気づいたのか、一度だけ顔を上げる。
それからまた、何事もないように前足のあいだに鼻先を戻した。
真帆は手すりに軽く寄りかかって、ぼんやり門のほうを見た。
別に三浦が来る気がしたわけではない。
でも、来たらたぶんすぐわかると思った。
しばらくして、下から足音がした。
見ると、相馬が帰ってきたところだった。
まだ夕方には少し早い時間で、真帆は意外に思う。
「あれ、今日は早いね」
と言うと、
相馬は少し笑って
「今日は外回りが早く終わって」
と答えた。
「珍しいね」
「自分でもそう思います」
相馬は階段を上がりかけて、真帆がそのまま廊下に立っているのを見て、
「どうかしましたか」
と聞いた。
「いや、別に」
真帆はそう言ってから、
「別にってほどでもないんだけど」
と付け足した。
相馬が少し笑う。
「三浦さんのこと、ちょっと気になって」
と真帆が言うと、
相馬はうなずいた。
「自分もです」
「だよね」
「この前の話、何となく残ってて」
相馬は二階まで上がってきて、真帆の少し横に立った。
門のほうを見るでもなく、ただ視線を前に置いている。
「早苗さん、もう住むところのこと考えてるって言ってた」
と真帆が言う。
相馬は少し驚いた顔をした。
「もうですか」
「うん。美空ちゃんいるし」
「そうですね」
真帆は手すりを指で軽くなぞる。
「私、そこまで考えてなかったなって」
相馬は少し黙ってから、
「自分もです」
と言った。
「何かあったら困るとは思っても、その先までは」
「だよね」
「でも、考えたほうがいいのかもしれないですね」
その言い方が相馬らしくて、真帆は少しだけ安心する。
大げさに騒がず、でも受け流しもしない。
「相馬さんは、そういうの考えてた?」
と真帆が聞く。
相馬は少し考える。
「会社の近くで探すのが現実的かなとは思います」
「今より家賃上がりそうだね」
「上がると思います」
「だよねえ」
真帆は思わずため息をついた。
「若草荘、安いですもんね」
「かなり」
相馬はそう言ってから、
「住みやすいかどうかは別として」
と続けた。
「でも、自分にはちょうどよかったです」
真帆はその言葉を聞いて、少しだけ相馬の横顔を見る。
相馬が若草荘のことをそんなふうに言うのは、何だか珍しい気がした。
「そうなんだ」
相馬は言葉を選ぶように少し間を置く。
「静かですし」
「うん」
「人との距離も、近すぎなくて」
真帆は小さく笑った。
「それは、わかるかも」
相馬は少しだけうなずいた。
そのとき、一階のドアが開く音がした。
早苗が美空を連れて出てくる。
どうやら買い物に行くらしい。
美空は小さなバッグを肩にかけていて、少し得意そうな顔をしていた。
「こんにちは」
と早苗が見上げる。
「こんにちは」
と真帆と相馬が返す。
「買い物ですか」
と相馬が聞くと、
「牛乳切らしてて」
と早苗が言う。
美空が
「ぎゅうにゅう」
と繰り返す。
真帆が笑って、
「大事だね」
と言うと、美空はうなずいた。
早苗は二人の顔を見て、
「何か話してました?」
と聞いた。
真帆は少し迷ってから、
「ちょっと先のこと」
と答える。
早苗はそれで何となく察したらしく、
「ああ」
とだけ言った。
相馬が少し言いにくそうにしながら、
「自分も、少し考えたほうがいいかなと思って」
と言う。
早苗は驚いたような、でも納得したような顔をした。
「そうですよね」
「まだ何も決まってないですけど」
「でも、何も決まってないうちに考えるの、大事だと思います」
早苗のその言い方は、自分にも言い聞かせているようだった。
真帆が
「早苗さんが先に言ってくれたから、ちょっと現実になった」
と言うと、
早苗は少し困ったように笑った。
「現実にしたかったわけじゃないんですけど」
「でも、なった」
「なりましたね」
三人とも少しだけ笑う。
笑っているのに、話していることは軽くない。
その感じが、今の若草荘らしかった。
「公営住宅って、やっぱり抽選なんですよね」
と相馬が聞く。
早苗はうなずく。
「みたいです。まだ詳しくは見きれてないですけど」
「すぐ入れるわけじゃないんですね」
「たぶん」
「大変ですね」
相馬がそう言うと、早苗は
「はい」
とだけ答えた。
その短い返事に、いろいろ入っている気がした。
美空が早苗の手を引く。
「いこ」
「うん、行こうか」
早苗はそう言ってから、
「また」
と二人に軽く会釈した。
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃい」
真帆と相馬が見送る。
門が開いて、閉まる。
その音がしたあと、少しだけ沈黙が残った。
「少しずつ、みんな考え始めてるんですね」
と相馬が言う。
「うん」
真帆は門のほうを見たまま答える。
「まだ誰も何も言ってないのに」
「そうですね」
「でも、そういうもんかも」
相馬は返事をしなかったが、否定もしなかった。
夕方になって、片岡が戻ってきた。
郵便受けの前で真帆と相馬がまだ話しているのを見て、
「珍しい組み合わせですね」
と言う。
「たしかに」
と真帆。
「ちょっと住まいの話してた」
片岡は一瞬だけ動きを止めた。
それから、
「そうですか」
と静かに言った。
相馬が
「片岡さんは、もう何か探してますか」
と聞く。
片岡は郵便受けを開けながら、
「まだ具体的には」
と答える。
「でも、少し見てはいます」
「やっぱり」
と真帆。
「皆そうなりますよね」
片岡は郵便物を一枚取り出して、
「備えるだけなら早いほうがいいので」
と言った。
その言い方は、前に早苗へ言ったのと少し似ていた。
真帆は片岡を見て、
「片岡さんって、こういうとき落ち着いてますよね」
と言う。
片岡は少しだけ首をかしげる。
「落ち着いて見えるだけかもしれません」
「そっか」
「考えてないわけではないです」
その言葉に、真帆は少しだけ安心した。
片岡だけが別の場所にいるわけではないのだと思えた。
その夜、真帆は部屋に戻ってから、何となく賃貸情報のアプリを開いた。
駅名を入れて、家賃の上限を入れて、検索する。
出てきた部屋を見て、すぐ閉じた。
狭い、高い、古い、遠い。
若草荘だって古いのに、比べると妙に現実が違って見える。
ベッドに座ったまま、真帆はスマホを見下ろす。
早苗はもう少し前から、こういう画面を見ていたのだろう。
しかも一人分ではなく、美空のことも考えながら。
すごいな、と思う。
同時に、自分もそろそろ見ないふりをやめないといけないとも思う。
廊下の向こうで、誰かのドアが閉まる音がした。
若草荘の夜の音だった。
まだ何も終わっていない。
でも、何も始まっていないわけでもない。
少しずつ。
真帆はその言葉を頭の中で繰り返す。
誰かが宣言したわけでもないのに、みんな少しずつ次のことを考え始めている。
三浦の体調をきっかけにして。
まだ確かなことは何もないまま。
真帆はもう一度だけ賃貸情報を開いた。
今度は閉じずに、いくつかの部屋を最後まで見た。
決めるためではない。
ただ、自分も少しずつ現実に触れておこうと思った。
それだけでも、昨日までとは違っていた。




