第四十一話 いつもの場所
午後の光が少し傾きはじめたころ、若草荘の錆びた階段の下で、ユイはいつものように伏せていた。
人の出入りがあるたびに一度だけ目を上げるが、すぐにまた静かにまぶたを伏せる。
何かを確かめるようでもあり、ただそこにいるだけのようでもあった。
二階の廊下に出た真帆は、手すり越しにその姿を見下ろした。
ユイがいると、若草荘は今日もいつも通りに見える。
けれど、住んでいる人のほうは少しずつ落ち着かなくなっていた。
この数日、真帆は前よりもよく外を見るようになっていた。
門の音、足音、車の止まる気配。
そういうものに、前より少しだけ敏感になっている。
自分でも気にしすぎだと思う。
けれど、気にしないままでいるのも難しかった。
病院では、いつも通りに働いている。
声をかけられれば返事をして、頼まれたことをこなして、時間が来れば休憩を取る。
それなのに、ふとした拍子に別の病院を見学しに行った日のことを思い出す。
あのときは仕事のことだけを考えていたはずなのに、今はそれが、どこか別の場所へ移ることそのものの気配みたいに思えた。
一階のドアが開いて、早苗が出てきた。
今日は美空の手を引いてはいない。
ゴミ袋を持って、少し急ぎ足で階段の横を通る。
ユイは顔を上げたが、吠えもせず、ただ早苗のほうを見ていた。
真帆は上から
「こんにちは」
と声をかける。
早苗は見上げて、
「あ、こんにちは」
と返した。
少し疲れて見えたが、表情はいつも通りに整えている。
「美空ちゃん、お昼寝?」
と真帆が聞くと、
「今のうちに、と思って」
と早苗は小さく笑った。
「起きてると、なかなか出られなくて」
「わかる気がする」
真帆がそう言うと、早苗は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
ゴミを出して戻ってきた早苗は、そのまま部屋に入らず、郵便受けの前で立ち止まった。
何かを待っているわけでもないのに、少しだけそこにいる。
真帆はその様子を見ていて、何となく階段を下りた。
「何か来てた?」
と聞くと、
早苗は首を振る。
「ううん。別に」
それから少し間を置いて、
「何か来てるほうが落ち着かないんですけど」
と言った。
真帆は少し笑った。
「たしかに」
「でも、何もないのも、それはそれで」
早苗は言いかけて、言葉を切る。
真帆はその先を聞かなかった。
聞かなくても、何となくわかる気がした。
階段の下で、ユイが体勢を変える音がした。
二人がそちらを見ると、ユイは前足を伸ばして、また静かに伏せ直した。
早苗が少しだけ笑う。
「ユイは変わらないね」
「うん」
と真帆も言う。
「ずっとあそこにいる」
「見てるんですかね」
「見てる気はする」
真帆がそう言うと、早苗は
「何となく、全部知ってそう」
と続けた。
その言い方がおかしくて、真帆は少し笑った。
でも本当に、そんな気もした。
誰が何時ごろ帰ってくるか。
誰が最近よく外を見るか。
誰が少し元気がないか。
ユイだけは、何も言わずに全部見ているのかもしれなかった。
そのとき、門の外で自転車の止まる音がした。
二人とも反射的にそちらを見る。
けれど入ってきたのは、見慣れない配達員だった。
早苗が小さく息を吐く。
真帆も、自分が思った以上に身構えていたことに気づく。
「やだね」
と真帆が言う。
「うん」
と早苗が答える。
「こんなふうになるの」
「うん」
短いやり取りだったが、それで十分だった。
配達員が別の部屋の前に荷物を置いて帰っていくと、また若草荘は静かになった。
その静けさの中で、一〇二号室のドアが開いた。
片岡が出てくる。
手には薄い封筒を持っていた。
「あ」
と真帆が言う。
片岡は二人を見て、
「こんにちは」
と軽く会釈した。
「こんにちは」
「こんにちは」
と真帆と早苗が返す。
「お出かけですか」
と早苗が聞くと、
「少しだけ」
と片岡は答えた。
「ハローワークに」
真帆と早苗は、ほとんど同時に片岡を見る。
片岡はその視線に気づいて、
「相談だけです」
と静かに付け足した。
「すぐどうこう、というわけじゃなくて」
早苗が
「もう動いてるんですね」
と言うと、
片岡は少し考えるような顔をした。
「動けるうちに、と思って」
「そっか」
と真帆が言う。
「そういうの、大事かも」
片岡はうなずいた。
「何もなければ、それでいいので」
その言い方は落ち着いていたが、落ち着いているからこそ、かえって現実味があった。
「前の会社のこともあるし」
と真帆が言いかけて、少し言葉を選ぶ。
片岡はそれを受け取るように、
「印刷の仕事は、もう前みたいには難しいかもしれません」
と淡々と言った。
「だから、別のことも見ておこうかと」
早苗が小さくうなずく。
「見ておくだけでも違いますよね」
「たぶん」
と片岡は言った。
「何も決まってないときほど、少し見ておいたほうがいい気がして」
その言葉に、真帆は少しだけ胸の奥をつかまれるような気がした。
自分は仕事のことで一度、別の病院を見に行ったことがある。
あのときは、今いる場所を捨てるためではなく、ただ知っておくためだった。
片岡の言うことは、それに少し似ている気がした。
「早苗さんも、何か考えてる?」
と真帆が聞く。
早苗は少し迷ってから、
「実家に戻ることも考えてる」
と答えた。
「あと、公営住宅の抽選も」
「そっか」
と真帆が言う。
「美空ちゃんいるもんね」
「うん」
早苗は笑おうとして、少しだけ笑いきれない顔になった。
「長くいられないかもって思うと、のんびりしてられないし」
片岡が静かに
「そうですね」
と言う。
その短い言葉に、変な慰めの軽さがなくて、真帆は少し救われる気がした。
片岡は封筒を持ち直して、
「そろそろ行きます」
と言った。
「いってらっしゃい」
と早苗。
「いってらっしゃい」
と真帆。
片岡は軽く会釈して、門のほうへ向かう。
その足元を、ユイが目だけで追っていた。
片岡が出ていったあと、真帆は何となく階段の下に近づいた。
ユイは逃げもせず、ただそこにいる。
真帆が少しかがむと、ユイは一度だけしっぽを動かした。
「えらいね」
と真帆が小さく言う。
「毎日ちゃんといるもんね」
早苗が後ろで少し笑う。
「真帆さんに褒められてる」
「いや、なんか」
真帆は少し照れくさくなって立ち上がる。
「ユイがいると、若草荘って感じするから」
早苗はその言葉に、
「わかります」
とすぐ答えた。
「いるのが当たり前すぎて、あんまり考えたことなかったけど」
「いないと変だよね」
「うん」
そのあと早苗は、
「美空、そろそろ起きるかも」
と言って部屋に戻っていった。
真帆は一人だけその場に残る。
階段の下のユイと、少し離れて立つ自分。
何をするでもない時間だった。
しばらくして、相馬が帰ってきた。
今日は少しだけ遅かった。
門を入ってきた相馬は、真帆に気づくと
「こんにちは」
と言う。
「おかえりなさい」
と真帆は返した。
相馬は少しだけ照れたように笑って、
「ただいま、みたいな感じですね」
と言った。
「仕事?」
と真帆が聞くと、
「はい」
と相馬は答える。
「まだ慣れなくて」
「そっか」
「最近やっと決まったばかりなんで」
相馬はそう言ってから、階段の下のユイを見た。
「今日もいますね」
「いるね」
「いつもいますね」
「うん。たぶん一番ちゃんと若草荘にいる」
相馬は少し笑った。
「それはそうかもしれません」
真帆も少し笑う。
相馬は階段を上がる前に、
「片岡さん、出かけました?」
と聞いた。
「うん。ハローワークだって」
相馬は少しだけ表情を引き締めた。
「そうですか」
「相談だけって言ってたけど」
「でも、見ておくのは大事ですよね」
「うん」
真帆はそう言ってから、
「相馬さんは、仕事決まったばっかりだもんね」
と言った。
相馬はうなずく。
「やっと、という感じです」
それから少し間を置いて、
「だから、部屋のことまで一気に考えるのは、まだちょっと」
と続けた。
「でも、考えないわけにもいかないですよね」
「そうだね」
と真帆は言った。
「みんな少しずつ、だね」
相馬はうなずいた。
「そうですね」
二人の足元で、ユイは静かに伏せたままだった。
話の意味がわかるわけではないだろう。
けれど、誰かが立ち止まって、誰かが迷って、誰かがまた部屋へ戻っていく、その繰り返しを、ユイはずっと見ている。
夕方の光が少しずつ薄くなっていく。
古い外壁も、錆びた手すりも、階段の下の影も、ゆっくり色を変えていく。
その中でユイだけは、朝からそこにいたままの姿で、静かに目を細めていた。
変わっていくものがある。
まだ変わっていないものもある。
真帆はそれを何となく見比べるような気持ちで、しばらくその場に立っていた。
自分も、少しずつ考えはじめている。
仕事のことだけじゃなく、この場所を離れるかもしれないということも。
まだ何も決めていない。
でも、決めていないままでも、時間だけは進んでいく。
ユイがいる。
若草荘がある。
だから大丈夫だと思いたいわけではない。
でも、何もかもが一度に変わるわけじゃないのだと、そう思わせてくれるものはあった。
「じゃあ、また」
と相馬が言う。
「うん、また」
真帆が返す。
相馬は二階へ上がっていき、真帆も少ししてから二〇一号室へ戻った。
階段の下には、ユイが残る。
誰かを引き止めるでもなく、送り出すでもなく、ただそこにいる。
それでもたぶん、今日の若草荘をいちばん長く見ていたのはユイだった。




