表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
43/44

第四十二話 見ておくこと

朝の空気はまだ少し涼しくて、若草荘の廊下には昨夜の湿り気が薄く残っていた。

真帆は二〇一号室のドアを閉め、鍵をかけてから一度だけ階段の下を見た。

ユイはもういた。

いつもの場所で、前足をそろえるようにして伏せている。


「おはよう」

と小さく言うと、ユイは耳だけを動かした。


その反応に少しだけ気持ちがゆるんで、真帆は階段を下りた。

今日は休みだった。

何か特別な予定があるわけではない。

けれど、何もしないまま部屋にいるのも落ち着かなくて、少し外へ出ようと思っていた。


門のところまで行くと、ちょうど一〇三号室のドアが開いた。

早苗が美空を抱いて出てくる。

美空はまだ眠そうな顔で、早苗の肩に頬を押しつけていた。


「おはようございます」

と真帆が言う。

「あ、おはようございます」

と早苗が返す。

「お出かけですか」

「ちょっとだけ散歩」

早苗はそう言って、美空の背中を軽くたたいた。

「家にいると、ぐずっちゃうから」

「わかる気がする」

真帆が笑うと、早苗も少しだけ笑った。


「真帆さんは?」

と聞かれて、

「私も、ちょっと」

と答える。

それから少し迷って、

「見ておきたいところがあって」

と言った。


早苗はその言葉に、すぐには何も返さなかった。

けれど、意味はわかったらしい。

「そっか」

とだけ言って、小さくうなずく。

その言い方が静かで、真帆はかえって助かった。


「まだ決めたとかじゃないんだけど」

と真帆は言う。

「うん」

「ただ、見ておくだけでも違うかなって」

「そうですね」

早苗は美空を抱き直しながら言った。

「何も知らないより、少しでも見てたほうが」

真帆はその言葉にうなずいた。

それはこの前、片岡が言っていたことにも少し似ていた。


二人は門の前で別れた。

早苗は美空を連れてゆっくり歩いていき、真帆は駅のほうへ向かった。


見に行くのは、以前一度だけ見学したことのある小さな施設だった。

病院ではない。

高齢者向けのデイサービスに、事務と運営補助を兼ねたような仕事があると聞いて、前に一度だけ話を聞きに行ったことがある。

そのときは、ただ何となく気になっただけだった。

今思えば、あのころから少しずつ、自分の中で何かが動いていたのかもしれない。


駅前の道を歩きながら、真帆はそのときのことを思い出していた。

受付の人がいて、利用者の出入りがあって、職員が声をかけ合っていた。

忙しそうではあったけれど、病院のような張りつめ方とは少し違っていた。

誰か一人が前に立って回しているというより、何人かで気を配りながら流れを整えている感じだった。

その空気が、妙に印象に残っていた。


自分に向いているかどうかなんて、まだわからない。

でも、あのとき少しだけ、ここなら働く姿を想像できた。

それは病院で働き始めてから、あまりなかった感覚だった。


施設は駅から少し歩いた住宅街の中にあった。

前に来たときと同じ看板が出ていて、玄関先の鉢植えも変わっていないように見える。

真帆は少しだけ立ち止まり、深く息を吸ってから中に入った。


対応してくれたのは、前にも会った女性だった。

顔を覚えていてくれたらしく、

「あら、前に一度来てくださった」

と笑った。

真帆は少し驚いて、

「はい。あのときは見学だけで」

と言う。

「今日は?」

と聞かれて、

「もう少し具体的に、お話を聞けたらと思って」

と答えた。


通された小さな部屋には、窓からやわらかい光が入っていた。

女性は資料を出しながら、

「病院でお仕事をされているんでしたよね」

と言った。

「はい」

「かなり違う仕事に見えるかもしれませんけど、意外と近い部分もあるんですよ」

真帆は黙ってうなずく。


「利用者さんのことを見るのはもちろんですけど、それだけじゃなくて」

女性は資料の上に指を置きながら続けた。

「職員同士の連携とか、ご家族とのやり取りとか、予定の調整とか、細かいことがたくさんあるんです」

「はい」

「現場だけ見てても回らないし、事務だけやってても足りない。間をつなぐ人が必要で」

その言葉に、真帆は少しだけ顔を上げた。


間をつなぐ人。


その言い方が、胸の中に静かに残った。


女性はさらに、

「前に少しお話ししたとき、真帆さんはよく周りを見て話される方だなと思ったんです」

と言った。

「誰が何を気にしてるか、先に拾う感じがあって」

真帆は思いがけずそんなふうに言われて、少し戸惑った。

「そんなこと、ないかもしれません」

「でも、そういうのって大事なんですよ」

女性はやわらかく笑った。

「管理って、強く仕切ることだけじゃないので」


その言葉を聞いたとき、真帆は若草荘のことを思い出した。

早苗の疲れた顔。

片岡の静かな言い方。

相馬の、やっと仕事が決まったあとの少し張った表情。

そして、何も言わずに階段の下にいるユイ。


自分はただ見ていただけだと思っていた。

でも、見ていることにも意味があるのかもしれない。

変化に気づくこと。

言葉になる前のものを拾うこと。

誰かが動きやすいように、少し先を見ておくこと。


話は長くなりすぎず、けれど思っていたより具体的だった。

勤務時間、仕事内容、必要な資格、今後の募集の見込み。

すぐに決めてくださいという感じではなく、考える時間をくれる話し方だったのもありがたかった。


施設を出たとき、昼前の光はもう少し強くなっていた。

真帆は駅へ戻る道をゆっくり歩いた。

何かが急に決まったわけではない。

けれど、ただ不安なだけだった朝よりは、少しだけ足元が見える気がした。


自分は現場に向いていない、ということではない。

ただ、ずっと同じ形で働き続けることだけが道ではないのだと思った。

人の流れや、場の空気や、細かい調整。

そういうものを整える仕事がある。

そして、自分はたぶん、それを嫌いではない。


まだ何も決めたわけではない。

でも、迷うということは、まったく違うと思っているわけではないのだろう。

迷うなら、それは興味があるということだ。

そんな言葉を、真帆はふと思い出していた。


駅前のパン屋で小さな袋をひとつ買って、真帆は若草荘へ戻った。

門をくぐると、昼の光の中で建物がいつもより少し白っぽく見えた。

古い壁も、錆びた手すりも、見慣れているはずなのに、今日は少しだけ輪郭がはっきりして見える。


階段の下には、やっぱりユイがいた。

真帆は思わず笑ってしまう。

「ただいま」

と言うと、ユイは顔を上げて、しっぽを一度だけ動かした。


そのとき、一〇三号室のドアが開いて、早苗が顔を出した。

「おかえりなさい」

「ただいま」

真帆は少し迷ってから、

「行ってきた」

と言った。

早苗はすぐに、

「どうでした」

と聞く。


真帆は手に持った袋を見下ろしてから、

「思ってたより、よかった」

と答えた。

「すぐ決めるとかじゃないけど」

「うん」

「でも、見てよかった」

早苗はその言葉に、ほっとしたように笑った。

「それならよかったです」

「うん」

真帆も少し笑う。

「見ただけなのに、ちょっとだけ落ち着いた」

「わかります」

と早苗は言った。

「何も見えないのが、一番落ち着かないから」


その言葉に、真帆は深くうなずいた。

本当にそうだと思った。


少しして、二階の廊下を上がる足音がした。

相馬だった。

今日は休みらしく、私服のまま飲み物の入った袋を提げている。


「こんにちは」

と相馬が言う。

「こんにちは」

と真帆と早苗が返す。


相馬は二人の空気を見て、

「何かあったんですか」

と聞いた。

真帆は少しだけ笑って、

「ちょっと見学に行ってた」

と言う。

「仕事の?」

「うん」

相馬は目を少し見開いた。

「そうなんですね」

「まだ何も決めてないけど」

「でも、見に行くのはいいですね」

相馬はそう言ってから、

「自分も、就職決まる前、何社か見に行ったんで」

と続けた。

「見ただけでも、だいぶ違いました」

真帆はその言葉に、

「そうなんだ」

と返す。

「うん。合うかどうかって、行くと少しわかる気がして」

「たしかに」

真帆は笑った。

「今日、ちょっとだけわかった気がする」

相馬も小さく笑った。


早苗が

「みんな、少しずつですね」

と言う。

真帆と相馬は、ほとんど同時にうなずいた。


その足元で、ユイは静かに伏せていた。

誰がどこへ行って、何を見てきたのかなんて、もちろんわからないだろう。

けれど、帰ってきた人の顔つきが少し違うことくらいは、案外わかっているのかもしれなかった。


夕方にはまだ早い時間だった。

それでも若草荘の影は少しずつ伸びはじめていて、階段の下の涼しい場所に、ユイはきれいにおさまっていた。


見ておくこと。

知っておくこと。

すぐに決めなくても、少し先のために動いてみること。


それは大きな決断ではない。

けれど、何もしないまま不安の中にいるよりは、ずっとましなのかもしれなかった。


真帆はパンの袋を持ち直して、二〇一号室へ向かった。

階段を上がる途中で一度だけ振り返ると、ユイは変わらずそこにいた。


変わらないものがあるから、変わることを考えられる。

そんな順番も、あるのかもしれないと真帆は思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ