第四十三話 階段の下で
夕方の若草荘は、昼より少しだけ音が増える。
どこかの部屋で水道が流れ、遠くで子どもの声がして、古い廊下を歩く足音がときどき重なる。
それでも、建物の真ん中にはいつもの静けさが残っていた。
階段の下で、ユイは丸くなっていた。
昼の熱がまだ地面に残っているのか、今日はいつもより少し奥まった場所にいる。
真帆は二階の廊下からその姿を見下ろして、洗濯物を取り込んだ。
今日は日勤だった。
忙しかったわけではないのに、気疲れのようなものが残っている。
帰り道、何度か施設で聞いた話を思い出した。
仕事内容のこと。
人の流れを整えること。
間をつなぐ役目。
頭の中で反芻しても、まだそれが自分のものになる感じはしない。
でも、まったく遠い話にも思えなかった。
洗濯物を腕に抱えたまま部屋へ戻ろうとしたとき、一階から早苗の声がした。
「真帆さん」
見下ろすと、早苗が一〇三号室の前に立っていた。
美空は足元でしゃがみこんで、何か小さな石のようなものをいじっている。
「今、大丈夫ですか」
「うん」
真帆はそう返して、洗濯物をいったん部屋に置き、階段を下りた。
「どうしたの」
と聞くと、早苗は少し言いにくそうに笑った。
「この前、市役所に行ってきたんです」
「公営住宅のこと?」
「うん」
真帆がそう言うと、早苗はうなずいた。
「話だけでも聞いておこうと思って」
その言い方に、真帆は少しだけ親近感を覚えた。
見ておくだけでも違う。
そう思って動いたのは、自分も同じだった。
「どうだった?」
と真帆が聞く。
早苗は美空のほうを見てから、
「思ってたより、ちゃんと現実でした」
と言った。
真帆は少しだけ笑う。
「それ、わかる気がする」
「紙で見てるときと違って、話を聞くと急に具体的になるというか」
「うん」
「申し込みの時期とか、条件とか、必要なものとか」
早苗はそこまで言って、小さく息をついた。
「まだ当たるかどうかもわからないのに、考えることがいっぱいあって」
「そうだよね」
真帆はうなずいた。
美空が立ち上がって、早苗の足にしがみつく。
早苗はその頭をなでながら、
「でも、行ってよかったです」
と言った。
「何も知らないままよりは、ずっと」
真帆はその言葉に、静かにうなずいた。
「真帆さんも、この前」
と早苗が言いかける。
「うん」
「どうでした、そのあと」
真帆は少しだけ考えた。
どうでした、と聞かれて、うまく答えられるほど整理はついていない。
けれど、何も変わっていないわけでもなかった。
「まだ病院は続けるつもり」
と真帆は言った。
「すぐ辞めるとかじゃないし」
「うん」
「でも、別の働き方があるんだなって思った」
早苗は黙って聞いている。
真帆は続けた。
「現場の仕事だけじゃなくて、全体を見るような仕事」
「管理みたいな?」
「そう。たぶん、そういう感じ」
早苗は少しだけ目をやわらげた。
「真帆さん、向いてそう」
「そうかな」
「うん。ちゃんと見てるから」
その言葉に、真帆は少し照れたように笑った。
「見てるだけかもしれないけど」
「見てる人って、大事ですよ」
早苗ははっきり言った。
「気づく人がいないと、回らないことってあるし」
その言葉は、この前施設で聞いた話と少し重なった。
間をつなぐ人。
見て、気づいて、少し先を考える人。
真帆は何も言わなかったが、胸の奥でその言葉をもう一度なぞった。
そのとき、門の外で足音が止まった。
相馬だった。
今日は少し疲れた顔をしていたが、二人を見ると軽く会釈した。
「おかえりなさい」
と早苗が言う。
「ただいまです」
相馬はそう返してから、
「話してました?」
と聞いた。
「ちょっと」
と真帆が答える。
「これからのこと」
相馬は少しだけ苦笑した。
「その話、最近多いですね」
「多いね」
と真帆も笑う。
「嫌?」
「嫌じゃないです」
相馬は首を振った。
「むしろ、みんな考えてるんだなって思うと、少しだけ安心します」
その言い方が相馬らしくて、真帆は少しだけ気持ちがゆるんだ。
「相馬さんはどう?」
と早苗が聞く。
相馬は少し考えてから、
「仕事は、まだ慣れるので精一杯です」
と言った。
「でも、慣れたら少し貯めたいです」
「貯金?」
「はい。引っ越すにしても、何にしても、お金がないと動けないんで」
真帆と早苗はうなずいた。
それはあまりにもその通りだった。
「最近、やっと働けるようになった感じなので」
と相馬は続ける。
「前は、決まらないことばっかり考えてたんですけど」
「うん」
「今は、決まってからのことを考えないといけないんだなって」
真帆はその言葉を聞いて、少しだけはっとした。
決まらないことを考える時間と、決まってから考える時間。
同じようでいて、たぶん違う。
「前に進んでるってことだね」
と早苗が言うと、
相馬は少し照れたように笑った。
「だといいんですけど」
「そうだよ」
と真帆が言う。
「ちゃんと進んでると思う」
相馬は何か言い返しかけて、でもやめて、
「ありがとうございます」
とだけ言った。
その足元で、ユイがゆっくり顔を上げた。
三人の声が重なっているのを聞いているのか、ただ気配を感じているだけなのかはわからない。
けれど、誰かが帰ってきて、誰かが立ち止まって、少し話してまた散っていく、その流れをユイは今日も見ていた。
一〇二号室のドアが開いて、片岡が出てきた。
手には小さなスーパーの袋を持っている。
「こんばんは」
と片岡が言う。
「こんばんは」
と三人が返す。
片岡は少しだけ立ち止まり、
「何か集まってますね」
と言った。
「たまたま」
と真帆が答える。
「これからのことの話をしてました」
早苗がそう言うと、片岡は
「なるほど」
とうなずいた。
「片岡さんは、どうですか」
と真帆が聞く。
片岡は袋を持ち直して、
「まだ、特に」
と言った。
「相談には行きましたけど、すぐ何かあるわけでもないので」
「うん」
「でも、前よりは少しだけ、考え方が変わった気はします」
真帆はその先を待った。
片岡は少し間を置いてから、
「前は、元の仕事に戻ることばかり考えていたんです」
と言った。
「印刷の仕事しかしてこなかったので」
早苗も相馬も黙って聞いている。
「でも、それだけだと動けないかもしれないと思って」
「うん」
と真帆が言う。
片岡は続けた。
「別の仕事でもいいから、生活を立て直すことを先に考えたほうがいいのかもしれません」
その言葉は静かだったが、重みがあった。
「それって、すごいことだと思います」
と早苗が言う。
片岡は少し驚いたように早苗を見る。
「そうですか」
「うん。前と違うことを考えるのって、簡単じゃないから」
片岡は少しだけ笑った。
「簡単じゃないですね」
「でも」
と真帆は言う。
「見に行ったり、聞きに行ったりしてるだけでも、もう止まってない感じがする」
片岡はその言葉に、すぐには返事をしなかった。
それから、
「そうだといいんですが」
と静かに言った。
少し風が通って、廊下の端に干してあったタオルが揺れた。
美空がそれを見て、小さく笑う。
早苗もつられて笑った。
その笑い声で、場の空気が少しだけやわらぐ。
誰も、大きなことを言っているわけではなかった。
夢のある話でも、明るい約束でもない。
ただ、今いる場所から少し先を見るために、それぞれができることを考えているだけだった。
それでも、その時間は不思議と悪くなかった。
真帆はふと、この前思い出した言葉をまた頭の中でなぞった。
迷うってことは、興味あるってこと。
今ここにいるみんなも、きっと同じなのかもしれない。
迷っているのは、もう何も感じていないからではなく、まだどこかへ行けると思っているからだ。
もちろん、その言葉を口には出さなかった。
言ってしまうと、少し軽くなる気がした。
こういうことは、胸の中に置いておくくらいでちょうどいい。
「そろそろ夕飯にします」
と早苗が言って、美空の手を引いた。
「また」
「また」
と真帆が返す。
相馬も
「じゃあ、自分も」
と言って二階へ上がっていく。
片岡も軽く会釈して、一〇二号室へ戻った。
残ったのは真帆とユイだけだった。
真帆は階段の下に目をやる。
ユイはまた静かに伏せ直している。
「みんな、ちゃんと考えてるね」
と真帆は小さく言った。
ユイは答えない。
けれど、その沈黙は冷たくなかった。
真帆はゆっくり階段を上がった。
二〇一号室の前で立ち止まり、鍵を取り出す。
病院の仕事は、明日もある。
まだ辞めるわけじゃない。
まだ何も決めたわけでもない。
でも、決めていないことと、何も始まっていないことは、同じではないのかもしれなかった。
部屋に入る前に、真帆はもう一度だけ振り返った。
薄暗くなりはじめた階段の下に、ユイの姿がある。
いつもの場所。
変わらない場所。
若草荘がこの先もずっと同じままでいるわけではないことを、真帆はもう知っていた。
ここにいる誰もが、少しずつ次のことを考え始めている。
出ていく人もいるだろうし、別の場所を探す人もいるだろう。
それでも、ここで過ごした時間までなくなるわけではないのだと思った。
泣いた日も、黙っていた日も、何も決まらないまま夕方を迎えた日もあった。
それでもみんな、同じ古い廊下を歩いて、同じ階段を上り下りしてきた。
ユイはたぶん、そんなことを何も知らない。
けれど、誰が帰ってきて、誰が立ち止まり、誰がまた歩き出そうとしているのかを、
いちばん近くで見ていたのは、この小さな犬だったのかもしれなかった。
真帆は小さく息をついて、鍵を回した。
明日のことは、まだはっきりしない。
それでも、ここで見てきたものがあるから、少し先のことを考えられる。
そう思いながら、真帆は静かにドアを閉めた。
この話で最後となります。最後まで読んでくださってありがとうございました。




