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第七話 ベランダの洗濯物

その日、朝から風が強かった。


若草荘の二階の廊下には、乾いた風がまっすぐ吹き抜けていた。雨上がりの湿気を追い出すような風で、手すりに残っていた水気も、壁の染みの表面も、少しずつ乾かしていく。けれど古い建物は、乾くときにも音を立てる。どこかの板がきしみ、どこかの窓がかたかた鳴る。ブルーシートの端も、三浦がきつく留め直したはずなのに、ときどきぱたんと小さく鳴った。


ユイはその音で目を覚ました。


階段の下の寝床は、昨日よりずっと落ち着いていた。毛布は乾き、朝の空気も軽い。ユイは前足を伸ばし、鼻先を上げる。洗剤の匂いがした。どこかの部屋で洗濯機が回っているらしい。少し遅れて、柔軟剤の甘い匂いも混じる。


一〇三号室だった。


早苗は朝が早い。美空を学校へ送り出し、自分も仕事へ向かう前に、できるだけ家のことを片づけていく。洗濯もそのひとつだった。ユイが階段の下から見ていると、一〇三号室のベランダに白いシャツやタオルが次々に干されていく。早苗の動きは速い。洗濯ばさみを留める音も、ハンガーをかける音も、迷いがない。


「美空、靴下片っぽ落としてる」

「えー、どこー」

「そこ」

「ほんとだ」

「急いで」

「はーい」


そんなやりとりが、開いた窓から聞こえてくる。ユイは耳を動かした。美空の声はいつも少し高く、早苗の声は急いでいるときほど低くなる。


やがて一〇三号室のドアが開き、母娘が出てきた。美空はランドセルを背負い、片手に水筒を持っている。早苗は仕事用のバッグと、自分の弁当らしい小さな袋を持っていた。


「ユイ、おはよう」

「おはよう、ユイ」


今日は早苗も自然にそう言った。ユイは顔を上げる。美空は満足そうに笑う。


「ほら、お母さんも言った」

「言ったけど、何」

「もうほんとの名前だね」

「そうかもね」


早苗はそう言って、少しだけベランダのほうを振り返った。洗濯物は風を受けて、もう揺れ始めている。


「帰るまでに飛ばないといいけど」

「飛んだらユイが見ててくれるよ」

「犬は洗濯物見ないの」

「見るよ」

「見ない」

「見るもん」


言い合いながら、二人は門の外へ出ていった。ユイはその背中を見送り、それからもう一度ベランダを見上げた。白いシャツが風に大きくふくらんでいる。


昼前、真帆が起きてきた。


今日は遅番らしく、まだ部屋着のままだった。マグカップを持って二階の廊下へ出ると、風の強さに少し目を細める。手すりに干した小さなタオルがばたばた鳴っていた。


「すごい風」


真帆はそう言って下を見た。ユイが階段の下から見上げている。


「飛ばされないでね」


犬に言っても仕方のないことを言い、少し笑う。そのとき、一〇三号室のベランダの洗濯物が目に入った。白いシャツ、子どものTシャツ、タオル、細いハンカチ。どれも風に引っぱられて、少し危なっかしい。


「大丈夫かな」


真帆はつぶやいたが、すぐには何もしなかった。まだ昼だ。早苗が帰るまでには時間があるし、今のところ飛んではいない。けれど気にはなったらしく、部屋へ戻る前にもう一度だけ振り返った。


午後になると、風はさらに強くなった。


空は晴れているのに、建物のまわりだけ落ち着かない。二階の廊下の端に置かれた古いほうきが倒れ、どこかの部屋の窓が一度大きく鳴った。ユイは階段の下から出て、建物の影を選ぶように歩く。風に乗って、洗剤の匂いがまた強くなった。


一〇三号室のベランダから、タオルが一枚落ちた。


ひらひらと舞って、一階の植え込みの上に引っかかる。ユイはその動きに反応して駆け寄った。匂いを嗅ぐ。早苗と美空の匂いがする。洗剤の匂いの奥に、ちゃんと暮らしの匂いが残っていた。


ちょうどそのとき、相馬が帰ってきた。


今日は早い。面接か何かが早く終わったのか、まだ日が高い。門をくぐったところで、植え込みに引っかかったタオルと、その前にいるユイを見つける。


「何してる」


ユイはタオルの前に立ったまま、相馬を見た。相馬も視線を上げる。一〇三号室のベランダでは、まだ何枚もの洗濯物が危なっかしく揺れている。


「……ああ」


相馬は少しだけ眉をひそめた。タオルを拾い上げる。まだ土はついていない。どうするか少し迷ってから、二階へ上がった。


一〇三号室の前で立ち止まる。


当然、誰もいない。早苗は仕事、美空はまだ学校か学童だろう。相馬は手にしたタオルを見て、それからベランダのほうを見た。風はまだ強い。放っておけば、ほかのものも落ちるかもしれない。


「……どうすんだよ」


誰に言うでもなくつぶやく。勝手にベランダへ入るわけにもいかない。けれど、玄関前に置いておくのも何だか違う。相馬は少し考え、結局、一〇三号室のドアノブにタオルをかけた。


それで終わりにしようとしたとき、二〇一号室のドアが開いた。


真帆だった。仕事へ行く支度を終えたらしく、髪をまとめ、バッグを肩にかけている。相馬とドアノブのタオルを見て、事情をすぐに察した。


「あ、落ちたんだ」

「はい」

「ほかも危ないね」

「そうですね」

「どうしよう」

「どうしようって」

「このままだとまた落ちる」

「でも勝手に入れないし」

「そうなんだよね」


二人でベランダを見上げる。風にあおられたシャツが、今にも外れそうに揺れている。


「早苗さんに連絡先、知ってます?」

「知らないです」

「私も」

「大家さんは」

「知ってるかも」


真帆はそう言ってスマホを取り出した。三浦に電話をかける。数回の呼び出し音のあと、ぶっきらぼうな声が出た。


「何だ」

「真帆です。あの、一〇三号室の洗濯物が風で飛びそうで」

「洗濯物?」

「タオル一枚落ちました」

「……今行けん」

「合鍵ありますよね」

「あるが」

「どうします?」

「どうしますって、おまえらで勝手に入るなよ」

「入らないです」

「当たり前だ」


三浦は少し黙ってから、「早苗には連絡しとく」と言った。真帆が「お願いします」と返して電話を切る。


「来ないんですね」

「来れないみたい」

「じゃあこのままですか」

「たぶん」


真帆は困った顔をした。相馬も同じ顔をしている。ユイが二階まで上がってきて、二人の足元に座った。


「ユイも困ってる」

「いや、たぶん風が気になるだけです」

「でも見てるよ」

「見てますね」


そのとき、一枚の子ども用Tシャツが外れた。


ふわりと浮いて、廊下の手すりに引っかかる。真帆が思わず手を伸ばし、ぎりぎりでつかんだ。


「危な」

「危なかったですね」

「もうだめだ、これ」


真帆はTシャツを抱えたまま、一〇三号室のドアを見た。相馬も見る。勝手に入るのはだめだ。けれど、廊下に置いておくのも風で飛ぶ。二人とも、同じところで止まっていた。


そこへ、一〇二号室のドアが開いた。


片岡だった。


少しだけ外の空気を吸うつもりだったのかもしれない。けれど廊下に真帆と相馬とユイがいて、ドアノブにタオルがかかっていて、真帆が子ども用Tシャツを持っているのを見て、足を止めた。


「……何か」

「洗濯物が」

「飛びそうで」

「落ちて」

「でも入れなくて」


真帆と相馬が順番もなく説明する。片岡はベランダを見上げ、風にあおられる洗濯物を見た。それから一〇三号室のドアの前に置かれた小さな傘立てを見た。そこに、洗濯ばさみの予備が入った透明なケースがある。


片岡は少し考えてから言った。


「……手、届くかもしれません」

「え?」

「ベランダの端、廊下から」


若草荘の二階は古い造りで、廊下とベランダの位置が近い。身を乗り出せば、端の洗濯物くらいなら届くかもしれない。危なくないとは言えないが、部屋に入るよりはましだった。


「危なくないですか」

「少しだけなら」

「少しだけが危ないんですよ」

「じゃあ俺やります」


相馬が言う。片岡は首を振った。


「相馬さん、背が高いから余計危ないです」

「そういう問題ですか」

「たぶん」


真帆が思わず笑いそうになり、こらえる。片岡は傘立ての横のケースから洗濯ばさみをひとつ取り、廊下の手すりから慎重に腕を伸ばした。風で揺れるシャツの端をつかみ、ハンガーごと少し引き寄せる。真帆も横で支えるように見守る。相馬は無言で片岡の腰のあたりに手を添えた。落ちないように、というより、落ちそうになったら引くためだった。


「……取れた」


片岡が小さく言う。シャツをひとつ、廊下側へ寄せる。次にタオル。次に美空の小さなスカート。全部ではないが、飛びそうなものだけは何とか確保できた。


「すごい」

「すごくはないです」

「でも助かった」

「……よかったです」


片岡は少し息を切らしていた。相馬が手を離す。真帆は抱えていたTシャツと一緒に、回収した洗濯物を一〇三号室のドアの前にきれいにたたんで置いた。


「これで大丈夫かな」

「たぶん」

「たぶん多いですね、今日」

「便利なんで」


相馬が言うと、真帆が吹き出した。片岡も少しだけ笑った。ユイはその足元で、たたまれた洗濯物の匂いを嗅いでいる。


夕方、早苗が帰ってきた。


門をくぐったときから、風はまだ強かった。美空の手を引きながら階段を上がり、一〇三号室のドアの前にたたまれた洗濯物を見て、足を止める。


「え」

「なにこれ」

「落ちたんだよ」


二〇一号室から真帆が顔を出した。ちょうど仕事へ行く前で、まだ廊下にいたのだ。相馬も二〇三号室のドアのところにいる。片岡は一〇二号室のドアを少しだけ開けて、様子を見ていた。


真帆が事情を説明する。タオルが落ちたこと、ほかも危なかったこと、三浦に連絡したこと、片岡が手を伸ばして取ってくれたこと。


早苗は洗濯物と住人たちの顔を順番に見た。


「……すみません」

「いや、謝ることじゃ」

「でも」

「飛んでたら困るし」

「片岡さんが取ってくれて」

「相馬さんも支えてくれて」

「真帆さんも見ててくれて」

「ユイも見てたよ!」


美空が言う。みんな少しだけ笑った。早苗の目元が、ほんの少しやわらぐ。


「ありがとうございます」

「いえ」

「助かりました」

「よかったです」


片岡の返事は短かったが、前よりずっと自然だった。早苗はそのことにも少し驚いたような顔をした。


美空はたたまれた自分のTシャツを見つけて、「これ、学校に着ていくやつ」と言った。それからユイのほうを向く。


「ユイ、見ててくれたの?」

 

ユイは耳を動かした。


「ほら」

「それはたまたまでしょ」

「でも見てたもん」

「まあ、見てたかもね」


早苗はそう言って、洗濯物を抱えた。ドアを開ける前に、もう一度だけ振り返る。


「ほんとに、ありがとうございました」

「気にしないでください」

「また何かあったら」

「……はい」


真帆はそう答えたが、その「また何か」が、前より少しだけ現実のものになっている気がした。


夜、風はようやく弱くなった。


若草荘の廊下には、昼間ほどの落ち着かなさはない。ブルーシートも静かで、窓のかたかた鳴る音も止んでいた。一〇三号室からは、洗濯物をたたむ音と、美空の話し声が聞こえる。


「片岡さん、すごかったね」

「そうだね」

「相馬さんも」

「うん」

「真帆さんも」

「うん」

「ユイも」

「ユイは見てただけ」

「でも見てた」


そのやりとりを、ユイは階段の下で聞いていた。


今日もまた、外から見ればたいしたことではないのかもしれない。洗濯物が飛びそうになって、何人かで何とかした。それだけだ。けれど、そういう「それだけ」の中に、暮らしは少しずつ形を変えていく。


一〇三号室の洗濯物は、ただの布ではなかった。早苗が朝の忙しい時間に干したもので、美空が毎日着る服で、その部屋の生活そのものだった。誰かの生活が風にさらされているのを見て、放っておけないと思う。その気持ちは、まだ大げさな助け合いではない。けれど、ただの無関心でもなかった。


ユイは目を閉じた。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。


二階のどこかで、洗濯ばさみを小さなケースに戻す音がした。


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