第六話 買い物のついで
朝の空気は、昨日より少し軽かった。
雨の名残はまだ若草荘のあちこちに残っていたが、空は久しぶりに青く、壁の染みも手すりの錆びも、乾いた光の中では少しだけ目立たなくなっていた。階段の下のブルーシートは朝日に照らされ、安っぽい青をはっきり見せている。犬――ユイは、その下で目を覚ました。毛布はようやく乾き、湿った匂いもだいぶ薄れていた。
門の外から、自転車のブレーキの音がした。
新聞配達ではない。もっと軽い音だ。ユイが顔を上げると、ちょうど真帆が帰ってくるところだった。夜勤明けらしく、髪は少し乱れ、肩から提げたバッグがいつもより重そうに見える。けれど前みたいにふらついてはいなかった。門をくぐると、真っ先に階段の下を見る。
「おはよう、ユイ」
ユイは耳を動かした。真帆は少し笑う。
「もう完全にそれなんだね」
しゃがんで頭を撫でる。手のひらには消毒液と外気の匂いが混じっていた。真帆はそのまま少しだけユイの顔を見て、それから一〇二号室のほうへ目をやる。郵便受けは空のままだ。ドアは閉まっているが、前ほど完全な沈黙ではない。中に人がいる匂いがする。
真帆は立ち上がり、二階へ向かいかけて、ふと足を止めた。
「……あ」
小さくつぶやく。バッグの中を探るが、目当てのものがないらしい。財布、スマホ、鍵、メモ帳。ひとつずつ確かめて、少し困った顔になる。
「スポドリ、切れてたんだった」
誰に言うでもない声だった。夜勤明けで喉が渇いているのかもしれない。けれど今からまた外へ出る気力はなさそうだった。真帆は少し考え、一〇二号室の前を見た。ドアは閉まっている。
そのとき、二〇三号室のドアが開いた。相馬だった。寝起きではなく、今日は珍しく朝からちゃんと着替えている。ハローワークへ行く日なのかもしれない。階段を下りながら、真帆の困った顔に気づく。
「どうかしました?」
「あ、ごめん。何でもない」
「何でもない顔じゃないですけど」
「スポーツドリンク切れてて」
「買えばいいじゃないですか」
「うん、でも今ちょっと、もう動きたくなくて」
真帆は苦笑した。相馬は一瞬だけ黙る。コンビニまで行くのは面倒ではない。けれど自分がついでに買ってくると言うのも、少し気恥ずかしい。そんな顔をしているうちに、真帆は「寝ればいいだけなんだけどね」と言って階段を上がりかけた。
そのとき、一〇二号室のドアが、ほんの少しだけ開いた。
片岡だった。
顔色はまだ白いが、前よりは目に力がある。ドアの隙間から外を見て、真帆と相馬の会話を聞いていたらしい。
「……あの」
真帆と相馬が同時に振り向く。片岡は少しだけ肩をすくめるようにして言った。
「買い物、行くなら」
「うん?」
「ついででよければ、俺、行きます」
真帆は目を丸くした。相馬も何も言わない。ユイだけが一〇二号室の前まで歩いていき、片岡の足元で止まる。
「え、大丈夫ですか」
「近くなら」
「でも」
「……少し、外出たほうがいい気もするんで」
その言い方は、自分に言い聞かせているようでもあった。真帆はすぐには返事をしなかった。無理をさせたくない気持ちと、片岡が自分からそう言ったことへの驚きが、同時にあった。
「じゃあ、お願いしてもいいですか」
「はい」
「無理なら途中でやめていいから」
「はい」
「スポーツドリンク二本と、ゼリー飲料ひとつ」
「わかりました」
真帆は財布から千円札を出し、それから少し迷って、「あと、これ」と小さなメモを渡した。片岡はそれを受け取る。指先が少し震えていた。
相馬が口を開く。
「俺も行きます」
「いや、そこまでじゃ」
「ついでです」
「何の」
「……コンビニの」
真帆が少し笑う。片岡は一瞬だけ相馬を見て、それから小さくうなずいた。
「じゃあ」
「はい」
それだけの短いやりとりで決まった。
片岡が外へ出る準備をするあいだ、相馬は階段の下で待った。ユイもそこにいる。真帆は二階へ上がりかけて、結局廊下の手すりから下を見ていた。気にしているのが丸わかりだった。
しばらくして、一〇二号室のドアがもう少し大きく開いた。
片岡が出てくる。Tシャツに薄いパーカー、色の褪せたジーンズ。足元にはスニーカー。たぶん長く履いていなかったのだろう、少し硬そうに見えた。片岡はドアを閉め、鍵をかける。その動作だけで、少し息が上がっているようだった。
ユイがその足元を見上げる。
「……行ってくる」
片岡は犬に向かってそう言った。ユイは耳を動かした。
相馬が先に門のほうへ歩き出し、片岡がそのあとを追う。真帆は二階から「無理しないでくださいね」と声をかけた。片岡は振り返らず、片手だけ軽く上げた。
若草荘の門を出るまでの数歩が、片岡にはひどく長かった。
外の光がまぶしい。道を歩く人の気配が近い。車の音も、自転車のベルも、部屋の中で聞くのとは違う大きさで耳に入る。片岡は一度だけ立ち止まりそうになったが、相馬が何も言わず少し先で待っているのを見て、また歩き出した。
コンビニまでは五分もかからない。
けれど片岡にとっては、それだけで十分遠かった。途中、角の電柱のところで一度立ち止まり、息を整える。相馬は振り返ったが、「大丈夫ですか」とは聞かなかった。ただ、自分も立ち止まって、スマホを見るふりをした。
「すみません」
「別に」
「……ありがとうございます」
「いや、俺も来るつもりだったんで」
「そうですか」
「まあ」
会話はそれだけだった。けれど、急かされないことが片岡にはありがたかった。
コンビニに入ると、冷房の風が当たった。片岡は少しだけ肩をすくめる。明るすぎる照明、整いすぎた棚、流れている店内放送。どれも久しぶりだった。真帆に頼まれたスポーツドリンクとゼリー飲料はすぐ見つかった。けれどそれだけ持ってレジへ行くのも、なぜか落ち着かない。
片岡はパンの棚の前で立ち止まった。
何を食べればいいのか、少しわからない。食欲がない日が長いと、食べたいものの形がぼやける。相馬が少し離れたところから見ていて、やがて近づいてきた。
「ゼリーとか、バナナとか、そういうのが無難じゃないですか」
「……ああ」
「前、食べてたし」
「そうですね」
片岡はバナナを一本、ヨーグルトをひとつ、あと小さなパンをひとつ取った。相馬は自分の缶コーヒーとおにぎりをかごに入れる。
レジに並ぶとき、片岡は少しだけ緊張した。店員に何か変に思われるのではないか、声がうまく出ないのではないか、財布がすぐ出せないのではないか。けれど店員は何も気にしなかった。バーコードを通し、金額を言い、袋が必要か聞くだけだった。片岡は「はい」と答え、真帆の分と自分の分を分けて袋に入れてもらった。
店を出たところで、片岡は小さく息を吐いた。
「終わった」
「買い物ですからね」
「……そうですね」
相馬は少し笑った。片岡も、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
帰り道、二人は行きより少しだけゆっくり歩いた。片岡は途中でまた立ち止まったが、今度は息を整えるためだけではなく、道端の植え込みを見ていた。雨上がりの葉が光っている。そんなものを、いつぶりにちゃんと見たのか、自分でもわからなかった。
「外、思ったより普通ですね」
片岡が言う。
「何があると思ってたんですか」
「もっと、何か」
「何かって」
「……わかりません」
相馬は返事をしなかった。けれど、そのわからなさは少しわかる気がした。外に出られなくなる理由は人それぞれでも、出る前に膨らむ不安は、たぶん似た形をしている。
若草荘の門が見えたとき、片岡の肩から少し力が抜けた。
二階の廊下から真帆が身を乗り出している。待っていたらしい。
「おかえりなさい」
「ただいま……でいいんですかね」
「いいと思います」
真帆は笑った。片岡は少し照れたように視線を落とす。相馬が袋を持ち上げる。
「頼まれたやつです」
「ありがとう。助かりました」
「片岡さんが買いましたよ」
「でも一緒に行ってくれたんでしょ」
「まあ」
「相馬さん、その“まあ”便利だね」
「便利なんで」
真帆は階段を下りてきて、袋を受け取った。中身を見て、少し驚く。
「バナナも買ったんですね」
「……自分の分です」
「いいですね」
「あとヨーグルトも」
「ちゃんと選んでる」
「相馬さんが」
「いや、俺は」
「少しだけ」
片岡はそう言って、ほんの少しだけ笑った。その顔を見て、真帆は何も言わずにうなずいた。大げさに褒めると、たぶん片岡は引っこんでしまう。だからただ、受け取るだけにした。
ユイが片岡の足元へ来る。片岡は袋を持ったまま見下ろした。
「……行けた」
犬に報告するみたいに言う。ユイは鼻先を少し上げて、コンビニ袋の匂いを嗅いだ。
その夕方、美空が帰ってくると、すぐにその話を聞きつけた。
「片岡さん、お外行ったの?」
「うん、ちょっとだけ」
「ユイも行った?」
「ユイは行ってない」
「なんでー」
「犬はコンビニ入れないの」
「そっか」
美空は少し考えてから、片岡のほうを見た。
「えらいね」
「……ありがとう」
片岡は困ったように言った。子どもに褒められるのは、たぶん大人に褒められるより逃げ場がない。早苗が「すみません」と言ったが、片岡は首を振った。
「いえ」
「でもほんと、よかったですね」
「……はい」
その「はい」は、前より少しだけ自然だった。
夜、若草荘は静かだった。
一〇二号室の前には、コンビニの小さな袋が置かれていない。買ったものはちゃんと部屋の中へ入ったのだろう。二〇一号室では真帆がスポーツドリンクのキャップを開ける音がした。二〇三号室では相馬がパソコンを開く気配がする。一〇三号室からは、美空が「ユイもおつかいできるかな」と話す声が聞こえ、早苗に「それは無理」と返されていた。
ユイは階段の下で丸くなる。
今日、若草荘で起きたことは、たぶん外から見れば何でもないことだった。コンビニへ行って、飲み物を買って帰ってきただけ。たったそれだけだ。けれど、たったそれだけのことが、部屋の中に閉じていた人にとっては、ひどく大きい日もある。
名前がついた次の日に、片岡は少し外へ出た。
それは偶然の順番かもしれない。けれど、誰かに呼ばれることと、外へ出ることは、どこかでつながっているのかもしれなかった。部屋の外に、自分を知っている声がある。帰ってきたとき、「おかえり」と言う人がいる。そういうことが、人をほんの少しだけ遠くまで歩かせる。
ユイは目を閉じた。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。
一〇二号室の中で、コンビニ袋のかさりと鳴る音がした。




