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第五話 はじめての名前

雨が上がったあとの若草荘は、少しだけ広く見えた。


空はまだ白く曇っていたが、屋根や手すりに残っていた水は、朝のうちに少しずつ乾き始めていた。階段の鉄は濡れた黒さを残しながら、ところどころに赤茶けた錆びを浮かせている。壁の染みは消えなかった。乾けば薄くなるだけで、なくなるわけではない。犬は階段の下で目を覚まし、鼻先を上げた。湿った土の匂い。古い木の匂い。乾ききらない毛布の匂い。昨日よりはましだが、まだ完全には落ち着かない。


ブルーシートの簡単な屋根は、そのまま残っていた。


三浦が帰る前に結び直したのだろう。風でばたつかないよう、端がきつく留められている。犬はその下から外を見た。門の向こうの道には、昨夜の雨を残した水たまりがいくつか光っていた。


一〇三号室のドアが開く。


最初に出てきたのは美空だった。黄色い傘を持ち、長靴の先で廊下の水気を確かめるように歩いてくる。犬を見つけると、すぐに顔が明るくなった。


「いた」


その一言が、まるで昨日からずっと探していたものを見つけたみたいに聞こえた。犬は顔を上げる。美空は階段の下まで来てしゃがみこんだ。


「おはよう、ユイ」


犬は耳を動かした。


美空は目を丸くする。


「ほら、やっぱり」

「何がやっぱりなの」


後ろから出てきた早苗が言う。髪をひとつにまとめ、仕事用のバッグを肩にかけている。まだ少し眠そうな顔だったが、美空の声には慣れているらしく、驚きはしなかった。


「ユイって呼ぶと、ちゃんと聞くの」

「たまたまでしょ」

「たまたまじゃないよ。昨日もそうだったもん」

「昨日は私も呼んだから、音に反応しただけ」

「違うもん。ユイってわかってるもん」


美空は真剣だった。犬はその顔を見て、それから少しだけ首を傾けた。美空はますます得意そうになる。


「ほら!」

「首傾げただけでしょ」

「それが返事なの」

「便利な解釈ね」


早苗はそう言ったが、声は少し笑っていた。犬の寝床の上にかかったブルーシートを見て、昨日よりは安心したような顔をする。


「濡れなくてよかったね」

「三浦さんが作ったんだよね」

「作ったっていうほどじゃないでしょ」

「でもおうちだよ」

「仮の、ね」


美空は納得していない顔をしたが、それ以上は言わなかった。代わりにもう一度、犬のほうを向く。


「いってきます、ユイ」


犬は目を細めた。美空は満足そうに立ち上がる。早苗は「遅れるよ」と言って娘の肩を軽く押し、二人は門の外へ出ていった。


そのあと、二〇一号室のドアが開いた。


真帆だった。今日は休みらしく、部屋着のまま髪をゆるく結んでいる。手にはマグカップ。階段を下りながら、まだ少し眠そうに目をこすっていたが、犬を見ると足を止めた。


「おはよう」


しゃがんで頭を撫でる。犬はじっとしている。真帆はブルーシートを見上げて、小さく笑った。


「三浦さん、ほんとにやったんだ」


そのとき、門のほうから美空の声が戻ってきた。忘れ物でもしたのかと思ったら、姿は見えないまま、声だけが飛んでくる。


「ユイー! いってきますって言ったよー!」


真帆は思わず笑った。


「ユイ、なんだ」


犬はその音に耳を動かした。真帆は少しだけ目を丸くする。


「え、ほんとに反応してる?」


誰に聞くでもなくそう言って、犬の顔をのぞきこむ。


「ユイ」

 

犬は真帆を見た。


「……あ」


真帆は小さく笑った。偶然かもしれない。けれど、偶然でもかまわない気がした。名前というのは、最初はたいていそんなものだ。誰かが呼んで、たまたま振り向いて、それが何度か重なるうちに、いつのまにか定着していく。


「ユイ、ね」


真帆はそう言って、もう一度頭を撫でた。犬は目を閉じた。


昼前、相馬が下りてきた。


今日は面接ではないらしく、Tシャツに薄いパーカー姿だった。寝起きの顔のまま階段を下り、犬の寝床の前で少し立ち止まる。ブルーシートを見て、それから犬を見る。


「……ちゃんと屋根ついてる」


誰に言うでもなくつぶやく。犬は顔を上げた。相馬は少しだけ気まずそうに視線をそらし、それでも立ち去らなかった。


「ユイ」


試すみたいに呼ぶ。


犬は耳を動かした。


「いや、たまたまだろ」


相馬はすぐにそう言ったが、もう一度呼ぶ。


「ユイ」


今度は犬が顔を上げた。相馬は黙る。しばらく見つめ合うような形になって、それから相馬は小さく息を吐いた。


「……決まりかよ」


その言い方は、呆れているようでもあり、少しだけ受け入れているようでもあった。犬は立ち上がり、相馬の足元まで来る。相馬は一歩引きかけて、やめた。


「近いって」


そう言いながら、手を出すか迷う。結局、指先だけで頭に触れた。犬は嫌がらなかった。


「おまえ、ほんとにそれでいいのか」


犬は答えない。相馬は少し笑って、コンビニへ向かった。


昼過ぎ、片岡がドアを開けた。


ほんの少しだけ、外の空気を入れ替えるためのような開け方だった。犬は階段の下からそれに気づき、一〇二号室の前まで歩いていく。片岡はドアの隙間から犬を見た。前より顔色はましだが、まだ痩せて見える。


「……おまえ、名前ついたのか」


その声は小さかった。犬はドアの前で座る。片岡はしばらく見下ろしていたが、やがてほんの少しだけ口元をゆるめた。


「ユイ、か」


その音を口に出してみるように、ゆっくり言う。犬は耳を動かした。片岡はそれを見て、少し驚いたような顔をした。


「わかるのか」


わかっているのかどうかは、誰にもわからない。けれど片岡は、その反応だけで少し救われたような顔をした。名前を呼んで、何かが返ってくる。それだけのことが、長く閉じていた部屋の前では妙に新鮮だった。


「……いい名前だな」


片岡はそう言って、ドアを閉めた。完全に閉まる直前、犬は一度だけ鼻先を上げた。部屋の中の空気はまだ重い。けれど前より少しだけ、人のいる匂いがする。


午後、真帆は洗濯物を干しながら、二階の廊下から下を見た。


犬は階段の下で丸くなっている。ブルーシートの端が風に少し揺れる。そこへ三浦が軽トラックでやってきた。今日は工具箱ではなく、ホームセンターの細長い袋を積んでいる。真帆は手を止めた。


「また何かするんですか」

「たいしたことじゃない」


三浦はそう言いながら、袋から結束バンドとフックを出した。ブルーシートの留め方が甘いところを直すつもりらしい。犬は立ち上がって少し離れた場所から見ている。


「気になるんですね」

「気になってない」

「じゃあ何で来たんですか」

「ついでだ」

「何のついでですか」

「近くまで来たついでだ」


真帆は笑った。三浦は不機嫌そうな顔をしたが、追い返しはしなかった。脚立に乗り、シートの端をきつく留め直す。前より少しだけ、ちゃんとした形になる。


「これで風でも飛ばんだろ」

「ありがとうございます」

「犬に言え」

「ユイ、だって」

「……何だそれは」


真帆は二階から身を乗り出すようにして言った。


「美空ちゃんがつけた名前です」

「勝手なことを」

「でも、みんなもうそう呼んでますよ」

「みんなって誰だ」

「私と、美空ちゃんと、たぶん相馬さんも」

「たぶんじゃないか」

「片岡さんも呼んでました」

「……そうか」


三浦はそれ以上何も言わなかった。けれど脚立を下りたあと、犬のほうを見て、ほんの少しだけ間を置いてから言った。


「ユイ」


犬は顔を上げた。


真帆が吹き出す。


「ほら」

「たまたまだ」

「みんなそう言いますね」

「犬なんか、音で見てるだけだ」

「でも見たじゃないですか」

「……見たな」


三浦は認めるような、認めないような顔をした。犬はまた階段の下へ戻っていく。三浦はその背中を見て、小さく鼻を鳴らした。


夕方、美空が帰ってきた。


ランドセルを揺らしながら門をくぐるなり、真っ先に階段の下を見る。


「ユイ、ただいま!」


犬はすぐに顔を上げた。美空は得意そうに振り返る。ちょうど帰ってきた早苗が、その様子を見て苦笑する。


「ほんとに反応するのね」

「だから言ったじゃん」

「たまたまじゃなかったのかもね」

「でしょ!」


美空は嬉しそうに犬の前へしゃがみこんだ。今日は学校で描いた絵を見せるらしく、ランドセルから少し折れた画用紙を取り出す。


「これ、ユイ」


犬にはわからない。けれど美空は真剣に見せる。茶色いクレヨンで描かれた丸い体、少し垂れた耳、階段みたいな線。たぶん若草荘の外階段も一緒に描いたのだろう。


「似てる?」

「似てるんじゃない?」


早苗がのぞきこんで言う。そこへ相馬も帰ってきた。コンビニ袋を提げたまま、その絵を見て少し笑う。


「耳、でかいな」

「そこがかわいいの」

「そうか」

「相馬さんもユイって呼んでる?」

「……まあ」

「ほら!」


美空は勝ち誇ったように笑った。真帆も二階から「三浦さんも呼んでたよ」と声をかける。三浦はもう帰ったあとだったが、美空はそれを聞いてますます嬉しそうになる。


「じゃあ決まりだね」

「何が」

「ユイって名前」

「最初からそう言ってたじゃん」

「でも、みんなが言ったらほんとの名前になるの」


その言葉に、早苗が少しだけ黙った。真帆も洗濯物を取りこむ手を止める。相馬はコンビニ袋を持ったまま、犬を見る。犬は何も知らない顔で、美空の持つ画用紙の端を匂っていた。


みんなが言ったら、ほんとの名前になる。


それは子どもの思いつきみたいでいて、どこか本当のことのようにも聞こえた。名前は、最初からそこにあるものではないのかもしれない。誰かが呼び、別の誰かも呼び、それが重なって、ようやくそのものに落ち着く。そうやって、ただの犬がユイになるのかもしれなかった。


夜、若草荘はいつもより少しだけやわらかい空気に包まれていた。


一〇三号室からは美空の声が聞こえる。「ユイってね、今日もちゃんと見たんだよ」と母親に話しているらしい。二〇一号室では真帆がマグカップを洗う音がする。二〇三号室では相馬が窓を開け、湿った夜気を入れている。一〇二号室の中でも、かすかに何かが動く気配があった。


犬は階段の下で丸くなった。


ブルーシートの屋根は、まだ少しよそよそしい。毛布も完全には乾いていない。壁の染みも消えていない。若草荘の古さも、住人たちの抱えているものも、何ひとつ解決してはいなかった。


それでも、その日ひとつだけ、昨日までなかったものがあった。


名前だった。


誰か一人が決めたのではなく、誰かが呼び始めて、別の誰かがそれを口にして、気づけば同じ音が同じ相手に向けられている。まだ確定したわけではない。明日になれば、また別の呼び方が出てくるかもしれない。けれど少なくとも今日、若草荘ではその犬を「ユイ」と呼ぶ声が、いくつもあった。


犬は目を閉じた。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。


「おやすみ、ユイ」


二階から、真帆の小さな声が落ちてくる。


少し遅れて、一〇三号室の窓の向こうからも、美空の声がした。


「おやすみ、ユイ」


犬は目を開けなかった。けれど、耳がほんの少しだけ動いた。


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